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かみかわうち

燦々と眩しい太陽の下、あまりに澄んで透明な水の底に、小石たちが踊るようにきらきらと輝くのを小舟の上から眺めながら、こんなにきれいな自然の水はみたことがないと絶句したのは、1982年、十五歳の夏休みのことでした。

池には立ち枯れの木々が何本も頭を出して、柔らかな風の渡るむこうに凜とした穂高の峰峰と、梓川と名付けられた流れを大正の昔に堰き止めたという荒々しい焼岳を目に映しながら、でもね、この池はあともう何年も経たずになくなってしまうんだよ、というボートを用意してくださった方の深く心に刻まれたお話しは、いまもって褪せることはありません。

京浜工業地帯の海に流れ込む近くの川にしかまずお目に掛かったことがなかった僕の、中学時代の友人二人と計画して、初めて「家族旅行ではない」旅先に選んだのが — というより、二人の計画に私がのっただけなのですが — 上高地でした。

言葉を忘れてしまう程の大自然に完全に圧倒されたのと同時に、その比類のない美しい光景が失われてしまうのだ、という未来をうまく受け止めることが出来ませんでした。

失われてはならないものは、失わせてはならない。

この思いを水に告げられたのは、神の降たつ地に於いてだったのだと分かります。

それから四十年以上がたちましたが、池はまだ輝いています。たまにする善行を彼の東京電力が担われているおかげさまで、立ち枯れの木は随分と少なくなりましたが、それでも池の上にボートを浮かべることも叶っています。
もちろん、上高地を支える地元の皆さまと、そこで働く方々の不断のご尽力があってこそ、この絶対に守らなければならない大自然を次の世代に繋ぐというリレーが途絶えることもなく、今年もまた、お山の開くことが叶ったのだとありがたく思って河童橋をlive映像で眺めるのです。

岳沢のなんと神々しいこと。

河童の世界に迷い込む事なく、高校一年生の僕は友人たちと二段ベッドの並んだ大部屋で — 河童橋の向こうだったと記憶しておりますが、どちらのお宿であったでしょうか — 一晩を過ごして、無事横浜に帰ってくることが出来たという思い出は何よりかけがえがありません。

それから30年以上あとに、上高地は「通り過ぎる場所」と宣う女の人と、梓川のほとりで結婚式を挙げることになるとは、想像すらできませんでしたが。


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