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なくはないのにないものねだり — 二人の偉大な先人たち —

去る3月28日に坂本龍一さんがお亡くなりになった、という報道が、初七日の夜にありました。ご病気であることは存じておりましたし、ついこの間も教授の新作について、記事を書かせていただいたばかりです。

教授の盟友である高橋幸宏さんの亡くなったのもつい最近で、言葉を紡ぐことの衝動を押さえられずに書かせて頂いた記事もこざいます。

個人的なことを申せば、教授が亡くなったという報道に接した自分の反応は意外でした。正直なところ、僕はもっと坂本龍一さんの死を自然に受け止められると思っていました。みんながそうであったように、それがそう遠くない先の出来事であろうと覚悟をしておりましたから、「あおいのきせき」の周知が間に合わなかったとしても、それは悔しいだろうけれど、静かに受けとめられるだろう。
そう思っておりましたから、教授の亡くなったことを耳にして、いつのまにか涙が止まらなくなり、嗚咽を隠すのに苦労したことで、僕は多少とまどいました。けれどもそれでようやく、僕は自覚していたよりも深く、坂本龍一という人の影響を受けていたのだということを理解できたのです。
教授はブラウン管や液晶モニターの向こうの、或いは、スピーカーの向こうの単なる「パフォーマー」ではありませんでした。実際にお目にかかる事は叶いませんでしたが、教授の魂は僕の心のすぐ側においでだったのです。それも、物凄く近くに。

僕にとって教授といえば、優れて見事に音たちを綺麗に束ねるアレンジャーとして魔術師のようだという認識が強く、それは、氏の手によった音楽でもっとも多くの時間を、特に多感な時期に馴染んでいたのが、大貫妙子さんの音楽だったからだと思います。大貫妙子さんの音楽はそれくらい生活に密接したものでした。高校時代に、アナログレコードをきちんと買い集めようと思った邦楽家は、大貫さんだけだったと思います。それくらい好きでした。いまも好きです。

その頃すでに坂本龍一さんはYMOのメンバーとして名が通っていらっしゃいましたから、アルバムの中のライナーノーツに記された氏の名前に驚いたのです。

スゲー。坂本龍一のアレンジじゃん。

後に順序は逆だと知るのですが、僕にとって70年代は、80年代から既に「オールディーズ」だったのです。僕の80`sは13歳から。そうして、ビルボードマニアであった僕が、突然、邦楽を、大貫妙子さんだけを聴きだしたのは、1983年のことでした。当時の最新アルバムが「SIGNIFIE」でしたから、たぶんその頃です。


教授の音楽でもっとも僕のフィジカルに密着しているのは、大貫妙子さんの曲を通してなのですが、それは濃淡のもっとも濃い部分なのであって、淡い方は教授にまつわる文字情報だったりするわけです。しかしそれだって、淡は濃と隣接していたりするので不思議です。

そういった逸話として、教授の武満徹さんとのあれこれが、印象深く心にあります。

まずのっけから強烈です。
なにしろ元気な坂本青年は、武満徹の音楽を「粉砕」すべく、コンサート会場にまでアジビラを撒きにいったというのですから、一体どんな武勇伝なんだと思いますよね。
坂本青年にとり「武満徹」とは絶対に打破しなければならない「エスタブリッシュメント」であった(ようにみえた)と教授自身が語っているのを、武満さんが亡くなってすぐに組まれたNHKの追悼番組で拝見致しました。

教授と武満徹さんとの出会いのこの逸話は既に伝説となって、知らない人はいない程でしょうけれど、この過去の行為から活動家的な暴力性を完全に差し引いた「何か」が坂本さんから消え去ることは、最期までなかったのではないかと思っています。それは反対側にまわってみれば、端的に尊敬の心です。

本人を含め、誰がなんと言おうとも、本質の表現を巡っての「精神のリレー」に於いて、「打ち破る」必要があり得ないほど、坂本さんが武満さんからのバトンをきちんと受け継いでいるのは疑いようがないのですが、それでも。

武満さんはといえば、そのビラを持って坂本青年に「このビラ君が書いたの?」と直に質問する余裕をみせ、そののち(おそらくは教授が名を馳せた後)「君、耳が良いね」と褒められた坂本さんが自分をいい加減だと卑下しつつ大変に喜んでおられたのは、ほんとうに美しいお話だと思って涙が出るほどです。

武満さんと教授がコラボレートして何かをするという企画が持ち上がっていたけれども、武満さんの亡くなったことにより実現しなかった、というお話を何処で読んだのか覚えておりませんが、このときの坂本さんの傷ついた心が手に取るようで、こちらも悲しくなります。

武満さんがもちかけてきた企画が所謂「ポピュラー音楽」だったからだと記憶しておりますが、教授は「やっぱり僕のことをそう(いうカテゴリーの音楽家であると)理解されていた」と落胆したそうです。

教授は「自分には無い」と勘違いなさっていた「何か」を武満さんに映し出して、それを渇望していたように端からは見えて、僕はとてももどかしかった。実は今もってもどかしい。

武満さんはと言えば、
武満さんが望んでいたのは、要するに、より万人に訴えたことの証である「ヒットソング」で、旋律をできるだけ排することで、かのストラヴィンスキーに「きびしい」と高く評価された(されてしまった)音楽家として、教授の数々の業績が本当に眩しく見えただろう事は想像に難くありません。晩年、何せ「トーナル」であることを批判される始末でしたから。

しかし、ご存じのように武満さんが音楽に目覚めたきっかけはリュシエンヌ・ボワイエの歌う「聞かせてよ、愛の言葉を」でした。

そうして武満さん自身がご自身を優れたメロディーメイカーであると自任していらっしゃったという、ほんとうに感動的な宣言を含んだ含蓄のある講演の録音がつい一昨年(2021年)公開されて、僕は武満さんの懐かしい(といっても直接耳にしたことの無い)声を繰り返して聞くことで、僕自身が間違った道を歩んでいないことを、ことあるごとに確認しています。

(所で、音楽に於ける旋律と、小説に於ける物語の関係は類比関係にあると前々から感じていて、ある意味武満さんのこの宣言は21世紀を予見しているかの様です)

さて。武満さんと坂本さんの話に戻りましょう。

武満さんを知る聴衆の中に、氏の旋律の美であることを疑う者は誰一人としていないわけです。

そのまた一人である僕からすると、武満さんは心から教授を認めておられた、その上で、武満さんからすると自分の肩書きとしてまだ満足のいっていない「旋律家」としての側面を、ある意味、教授の力を借りて、世に強く印象付けたかったのだと映るのです。

この、つまらない行き違いのもう直ることが決して無いという事実が、とても残念な気がするのと同時に、何とは無く微笑ましくも感じるのです。

だって、世界の「タケミツ」と世界の「サカモト」が、ですよ。

音楽の最高峰に立つ二人の巨人同士がお互いを羨んでいるかのようではありませんか。

世にこれ以上の贅沢が他にあるとは思えません。

二人の音楽が決して互いに見劣ることのない、みごとに美しく本質にせまって、ついに世界史に刻まれた永遠であるのは、もうわかりきっているではありませんか。

さようなら、教授。これだけ書かせて頂いて、すこし心が落ち着きました。
でも、悲しみは消えないみたいです。

それでも、教授の音楽は永遠だと信じています。
間違いはなく、永遠です。

坂本龍一さん、お役目ご苦労様でした。
そして、誠にありがとうございました。
ご病気、さぞお辛かったでしょう。
これからは是非、ゆっくりとお休みください。

芸術は長く。

僕はその「何か」について、言葉で表現する旅—あの長い行列の一番後ろ—につくことになったのだということに、大いなる畏れを伴って思い至るのです。

note|武満徹さんからバトンを受けて

教授からのバトンも、しっかりと受け取りました。

細野さん。長生きをしてください。
是非長生きをしてください。
大貫妙子さんの曲のアレンジャーが教授だったと知ったときの驚きを凌駕する出来事があるとするならば、
あの細野晴臣と大滝詠一が「同じバンド」にいたという事を知った時の驚きの他は見当たらないのです。

川崎弘二さんによる坂本龍一さんへのインタビュー。武満徹さんに関して。とても良い記事をありがとうございます。ミューズによるミューズ。それに致しましても、坂本龍一さんの音楽に関するインテリジェンスが氏の魂と一体である事には深い心からの尊敬の思いが湧いてとめどがありません。お二人の逸話は、寂しいけども、わたしの美しい神話となっています。

武満さんの記事。小野光子さんによる伝記は秀逸。

Radio Sakamoto 最終回で、教授にシャンソン(リス・ゴーティの「巴里恋しや」)を選んでいただいた事が、とても心に響きました。

世紀を越えて美しい連歌と相成りました。


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