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誰が続いて、新しいことに挑み続けるか?

昨日の早朝、まだ夜が明けきらないうちに、高橋幸宏さんの訃報に接しました。それが訃報であると理解するのに時間がかかりました。寝ぼけていたせいで、幸宏さんが、とてもすぐれたヴォーカリストである、とか幸宏さんにまつわるいろいろな、何故か沢山の記事を読んでも、そうだそうだ、としか思えず、最近のご健康にまつわる過去報道と繋がらなかったのです。

昨日の夜「ポケットが虹でいっぱい」を繰り返して聞いているうちに、いやこれは一人の優れた音楽家を世界がまた一人失った、というだけにとどまる話ではないのではないか、という漠然とした思いがゆっくりと沸き起こってきました。

そして、今日の朝になり、ようやく理解したのです。

そうだ、ほんとうに一大事だ。

ただ、ご縁のそこまで深くはない、僕程度の聞き手が、幸宏さんの音楽のあれこれについて語る資格が毛頭ないことは弁えています。Twitterで、その訃報について触れることすら、はじめは遠慮するほどでした。

それでも、氏の死について、その意味について、語るべきなんだろう。きちんと語らないといけない、との確信を得たのです。

ほんとうに一大事の本質を語ることなくやり過ごした結果が、今であり、ここで、なにかをきちんと語らなければ、
少なくとも語ろうとしなければ、
人が一生懸命生きて、死んでいくという繰り返しであるだけの「世の中」に申し訳が立たない、というある意味「意味不明」な感覚に陥りました。

繰り返しますが、高橋幸宏さんの、僕は普通に80年代を10代としてこの国に育った人として、特にYMOとして活動なさっているメディアを介してをしか、まず存じ上げません。高校時代('82.4~'85.3)の仲の良い友人が氏のドラムに心酔したアマチュアドラマーで、YMOのメンバーのお一人を「ユキヒロ(さん)」と呼んでその偉大なるわけを時を分けず熱心に話してくれたという思い出に、まるで、僕が「ゆきひろさん」を慕っていたかのような錯覚を覚えることはあります。

ですが。ですから。

YMOはほんとうに時代を力強く象徴する優れた「なにか」でした。それはそのメンバーが従属を求められるほど強力な「なにか」でした。すくなくとも80年代の日本を「普通に」過ごした人ならば、YMOという存在そのものが「なにか」(を背負った、または象徴した)「当たり前」になっているとは、すでに多く指摘をされているところであり、むしろあまりに当たり前な言説すぎて、その事に無感覚になってしまっていることが「異常」だと、僕自身に当てはめて気付いたのです。

「ライディーン」をまったく耳にしたことのないひとって、いるんだろうか?

なにも象徴解釈を社会学的に語ろうなんてことをしようとはしていません。もっと話は具体的です。この後、どうするんだ?ということです。

「なにか」に真正面からぶつかって尚「誰が新しいことに挑み続けるのか」という問題は、音楽を超えて問われているのだという自覚です。

しかも、このガチガチに硬直化した
日本で、
世界で。

確実に高橋幸宏さんたち、YMOの皆さんは、それに「挑んでおられました」

— 挑んでおられます。

いまデリダのバッテン(非Aはないって事にしてね、のサイン)の引用をしたYMOの所謂「最後の」スタジオアルバム「テクノドン」を聞いているのですが、或いは「大人げない」ほど本気で挑んだこのアルバムを作った面々のいかに優れた「テクノ」の「ドン」かを世に知らしめたのが、電気グルーヴのファーストアルバムのリミックス「FLASH PAPA MENTHOL」が発売になった僅か5日あとであることを「電気」は誇りに思うべきだと(生意気にもしかし)真剣に思うのです。

「ノルウェイの森」、すっかり忘れていました。

ユキヒロさん、
ありがとうございました。軽井沢は僕にとっても特別な場所です。
ゆっくりお休みください。

それから
偉大なバンドのラストアルバム、
その最後の曲がカバーであった事の意味は
とても重いということにも、気付きました。

教授の新しいアルバムの、李禹煥さんの手によるというジャケットを目にしたとき、今を生きる偉大な先輩たちから、バトンを渡して頂ける距離まで、なんとか走ってこれたことが本当である事の確信を得ることができました。

死なないで下さい、教授。 

「あおいのきせき」の知見からは、
それと対をなす
非「あおいのきせき」の知見とあわせれば、
どんな病気だって治すやり方が、絶対に見つかるはずです。

周知が至るのは、もう直ぐです。

間に合って。

そう、心から祈っています。


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