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日本と世界の唯一の希望 〖あおいのきせき〗の奇跡とは − 宮内献上作品 −


■現代社会の危機の核心

■本質的に新しいものが何もない

要するに煮詰まっているのです。

AIだの電気自動車だの次世代汎用型コンピューターだのクリーンエネルギーだの、まるでテクノロジーの未来が薔薇色であるかのような賑やかしを行っていますが、それらがすべてまやかしであるからこそ、経済が停滞しています。賑やかされている新技術が「本物」であれば失われた30年なんてありえなかったでしょう。国際競争に負けたという詭弁もお為ごかしに過ぎません。

なぜなら「勝った」国々もまったく勝者の程から逸脱しています。

思い出してください。

我が国だけを見ても、人口ボーナスや隣国の不幸を差し引いたとして、戦後の経済成長は莫大な需要と、それに見合う供給があったからこそ、可能だったのです。

当時は、全ての世帯や個人に需要が喚起される製品に溢れていました。衣食住に関わるあらゆるものが、持ち合わせなく、ゼロから新しく必要とされていたのです。故に、経済を循環する通貨の量が、実体経済を伴って増加しました。

いま、政治では、賃金や雇用の問題を盛んに問い続けていますが、それが正しいにしても、本質的に — 例えば、昭和の時代の「三種の神器」のごとくに — 誰もが「必要な物事」「欲しい物事」が全くない中で、それらの叶うはずもありません。

つまり、「売り物」が何にもないのです。

※「危機は、まさに、古いものが衰退しつつあり、新しいものが生まれないという事実にある。」上リンク先、IISIA記事を参照下さい※

■実体経済には何もなく、金融(仮想)経済ばかりが膨れ上がる

富裕層のための豪華な建築やサービスの喧伝される様をみますと、まるで一部でも経済が潤っているかのように思えますが、それはただ、仮想経済で異常なほど膨れ上がったマネーが実社会に顔を覗かせている、というまやかしに過ぎません。世界中で、実体経済は疲弊しています。

■戦争に向かうことの必然

故に、マクロ経済において、世界規模の戦争経済に持ち込む動きがみられるのです。このままでは世界経済が回せないので、既存の社会構造物を一旦壊し、改めて一から既存の製品の需要を喚起し、復興という名目で、経済を回そうと考えた動きがあるのは、誰の目にも明らかでしょう。

現代の戦争の本質は経済です。

しかし、私たち人類は、いつまでこんなことをやり続けるのでしょうか。

「売り物」なら、今までに無い、弊社知見による技術革新により、ほんとうに人の為になり得る社会構造改革を伴って、いくらでも新しいサムシングが生まれてくることは、過去記事に繰り返し記しました。

■失われた20年で失われていたのが「存在の方程式」

今回の記事は2002年に発見された「 あおいのきせき 」の知見から開かれる未来を可及的に明らかにして、この知見こそ人類のいまの唯一の希望であることを述べていきます。

存在の方程式(あおいのきせきの知見)により、時代は、ようやく ポスト・ニュートン/アインシュタイン の時代に突入することが可能になります。

煮詰まった行き止まりの日本と世界を救う唯一の鍵こそ、弊社「 あおいのきせきの知見」、すなわち「存在の方程式 」なのです。

すると、この知見の奪われてしまった故に、我が国の、そして引き摺られたかたちで世界の20年が失われてしまった事が、同時にご理解いただけると思います。

■あおいのきせき は全ての根拠

青山真治監督による「存在の方程式」: 映画 EUREKA (2001) より

■考える際の基礎の基礎 = 真理

存在の方程式 とは最も深い根拠です。

何かが存在していれば、それに非ずの存在が必ず存在していて、さらにそうであれば、両者にはインターフェイスが、絶対に存在している、

というのが、物事のありようの根本原理である。

これは拙書「あおいのきせき」によって初めて具体的に明文化されたのですが、実は、それと同じことは、過去、多くの人たちによって様々なやり方で指示されてきたのだということは、もうご承知いただいていることと思います。

A = A + 非A + Aと非Aの境界

「あおいのきせき」より 存在の方程式

(所で「存在の方程式」は、「 E = mc^2」 と同じことを意味しているということを、旧ツイッターに記しております )

右辺を三つと数えれば、三つ揃って一つを形成しているということですから、三位一体 の別義とも言い得ましょう。

時間と空間で申しますと、時間と空間の交差する境界に私の心身がある、となります。

量子論 に寄せて申しますと、Aという「何か」 (例えば、素粒子A) が存在すれば、いわゆる時間とは無相関に、非Aという「Aに非ざる何か」 (例えば、非素粒子 ≒ 素粒子B ) が認識される、と言い換えることも出来ます。

存在の方程式は、物事は図と地の如く非ずの関係として不可分に在り、相互には接している「部分」が絶対に在る、という存在のありようを、言語指示しております。

否定のできない、言語 (という非空間存在) により徹底して抽象化された、現実 (空間存在)と接地した命題を、真理というのです。

すると、存在の方程式は真理と言いえ得る、となりましょう。

「Y字路」 横尾忠則

■真理を大前提に考えていくことが根拠のある言説

現代科学での時空間の根拠は、微積分です。時間が空間表現できることを「思いついた (勅を降ろした) 」のがニュートンとライプニッツの両氏でしたが、微積分の前提が間違っていることは過去記事で論考いたしました

存在の方程式から導かれる常識への懐疑についての言説は、過去記事に沢山記しましたので、馴染みのない方は、是非、過去記事に当たっていただきたいのですが、つまり、宇宙は空間と非空間 (時間) が人を挟んであるのだ、ということが分かります。

ざっくり、宇宙は一つではなく、二つ、ということです。

二つの宇宙は「相互入れ子構造」になっていて「中間(境界)」に、言葉を持った人がいるのです。

そして、二つの宇宙は「反対 (anti)」ではなく「非ず (not)」の関係に置かれています。

このことは、微積分とは違い、「存在の方程式」という否定のできない根拠を前提に考察してたどり着く結論です。

宇宙は二つ、といいますと奇異に感じるかもしれません。しかし、心と物質が対比され得る事は、一般常識として普通に理解されているところではあります。

デカルトおよびニュートン由来の現代科学 は、物質界である空間しか扱うことをしません。空間の移動や変化を時間と解釈し、四次元という一つの時空間を大前提に宇宙を解釈しています。つまり、人の心を物理に含ませていません。

ここで、心を非物質として定義し、更にそれ自体を物質 (空間) 宇宙と同等の非空間宇宙である、と解釈し直せるというのが、存在の方程式という真理から導かれる新しい宇宙像です。

唯心論 と 唯物論は、同時に双方が等しく正しい、ということが存在の方程式から導かれる回答です。

■心身二元論の超克

現代科学の合理的一面による技術的成功の陰に隠れてお忘れかもしれませんが、有史以来、人の哲学的課題 (もちろん科学の課題も哲学に含有されています) は 心身問題 の解決です。これの未解決なまま、(ライプニッツと) ニュートンの発明による、心を宇宙(時+空間)から省くというテクニック ( = 算術) の普及に寄りかかったままでいる事の矛盾が吹き出して、人々の生活を脅かしているのが現代であります。

むしろ、この問題 (すべてから「意識 ⊃ 心」を省いた社会) の解決なしに新世界 (New World) を迎えることは出来ない事が、今回記事からご理解いただける事と思います。

存在の方程式により、この問題は、抜本的解決に至ります。

「一つの時空間」に、ではなく、「空間 (物質) と非空間 (意識) 」に挟まれた心身という双方の宇宙を有する主体として、私たちが生きている、という理解によって、です。

過去記事に詳しい ので、まず是非当たっていただきたいのですが、時間とは本来 (心 ⊂ 意識) を意味しているのであり、其処をごまかして「時間とは移動と変化の意味と限定してしまった上、幾何的に無限分割すれば、時間を空間に含めることが出来る」とした微積分こそが、まず全ての問題の種であったのです。

そこで、時間とは非空間であると理解して考察を進めれば、現代科学の含有する数々のパラドクスから脱出できます。

更に「意識は非空間である」と定義できない根拠は語義的にもありませんので、そう定義すれば、その要素 (または範囲) として、言語や感情などを含めた心を置くことが可能となり、すると、「心の働き」を含めた宇宙全体を、物理として論理的に扱えることになる のです。

そもそも、時間も空間も実体のある何かではなく、ただの思考の補助線に過ぎないと分かれば、体感として存在が確認できるのは、物質と心であると単純にわかり得ましょう。

そうして心の問題も、非空間こそが意識だと分かってしまえば、上の如く、意識の要素、または範囲としておのおのの心が存在し、心の中に言葉が宿り、それが精神であるとして考察を進めれば、今後矛盾なく全てが理解可能になると考えられるのです。感情は精神に影響を及ぼしますが、その原理は生物としての生理現象に基づいたプリミティブなもの、と、これも理解が可能でしょう。そして、魂とは仮想された、あらゆる人間の精神と言い得ます。

■即非の理論の真髄

仏教 (特に中観派など) 、特段、禅の思想などで主張されている様々な言説にご理解の深い方であれば、それらを言語理解する際の大前提に「存在の方程式」を置くならば、仏法が指示する内容を無矛盾で理論体系に組み込むことのお手伝いが可能になる かと思います。

即ち、存在は「わたくし」という「境界 = 中間」を挟んで、物質と非物質 (⊃ 心) の二重構造である所を、存在は、一つの時空間に「わたくし」がいるという前提の上で言語化すれば「Aは非AであるからこそAなのである」という言い方にならざるを得なかった、と簡単に理解が及ぶことになります。

元来が、別の異なった界 (宇宙) にあるAと非Aを、同一界に在る前提で「この事」を語ろうとすれば、矛盾した言説になるのは必然です。

矛と盾は別の宇宙に存在するので、矛盾しないという通りです。

自同律の不快即非の理論 は、同じ事を別のやり方で言語指示したものであったのです。

詳しくはこちらを

因みに、

白隠禅師の 隻手の声という高名な公案 を、是非、存在の方程式を前提知識にして、考察してみて下さい。

■色 即是 空

般若心経のあまりに知られた一説ですが、物質宇宙非物質宇宙、その両者を繋ぐ境界 (つまり人間の「働き」) を即是と翻訳すれば、そのまま存在の方程式と同じことを指示していることを、無矛盾で言語理解が可能になります。

■智慧は万国に

勿論、空間と非空間、物質と意識、現世と常世の両方とその境界(ex.ヒト)で宇宙があることは、遙かヨーロッパでも分かっていたことかと思われます。それが、どこから来た智慧なのか、お互いに調べてみる価値は有りそうですね。(ご関係の諸兄は是非、IISIAまでご連絡をください。)

神聖ローマ帝国_国旗


精神分析学 wikipedia より

■真理を伝える日本古来よりの智慧

あまりに畏れ多いので、ここでの解説は控えますが、日本古来より伝わる仏教寺院や非国家神道に伝わる秘伝は勿論真理を表現したもの であり、すると当然、その表現内容を言語により端的に抽象表現すれば、存在の方程式と同様になり得ることは、容易に理解が可能でしょう。唯しかし、「運動 (時間) 」そのものを言語によって表現することは叶いません。 

科学は宇宙存在を言語に喩えて真に近づくものであり、美術は科学とはまた違うやり方で宇宙存在を喩えて美に近づくものであります。しかし、喩える、つまり、かき留めると時間は止まってしまいます。

そこで時間を止める事なく、運動そのものを行為を伴い宇宙存在を喩えて記憶したものが、優れた宗教儀式なのです。そしてヒトの行為の目指すところが善であることに異論は待たないでしょう。

古来より宗教施設に伝えられる儀式に含有される真理には、と同一存在であるが、ヒトの行為を伴って表現されていて、存在の方程式を遙かに凌駕する意味内容が含蓄されているのです。

ある意味「言語で真理を理解する」事は、真理を生きる事と、全く関係が無いのです。

そして、司馬遼太郎翁に「この世には移ろわぬものがある」と言わしめた これら儀式は、まさに真理にふさわしい形容というに間違いはありません。真理は、時を超えいつまでも不変であるに違いないのですから。

是非、存在の方程式を前提知識 として、下の儀式をご覧下さい。

■無と有の解決。正しい宇宙像を手に入れる

言葉で考えた人類の叡智に至る思考の筋道の、一等はじめに置かれている大前提を見つけ出し、存在の方程式に置き換えれば、すべて正しい結論にたどり着くのが道理です。

例えば、有と無の問題も、存在が一つの時空間であるという前提で考えると解けませんが、空間と非空間が人を挟んで存在していると理解できれば、有の空間には非空間はあり得ないのがわかります。非空間に空間があり得ないのも分かります。

有と無は、非ざる関係にある相対的宇宙の呼称、と理解すれば、有無について合理的に無矛盾で語れます。

時間の問題も、非空間こそが時間であり、今現在人類が「時間」と理解しているものは、「移動」や「変化」であると、再定義して考え直せば、無矛盾で宇宙が理解できる、と分かります。

■宇宙の始まり、宇宙の外

時間とは、特に心と同義の、非空間に対しての別の呼称なので、時間に対して空間をモデルに問いを立てることは不可能です。例えば、時間に対して、起点と終点といった幾何的な空間概念 (物差し) を適用して問うことはナンセンスです。空間存在は空間存在でしか測れません。質を非量と定義すれば、量が質で評価出来ないのは道理です。すると、根源的な時間には、始まりと終わりという意味自体が適応できないということになります。「始まり」や「終わり」という概念自体が、非空間である時間を空間に於いて図示するという無理を押し通しています。

その無理を押し通す術が微分積分という訳になります。

動いているモノの長さ (或いは距離 )を、別の所から測ろうとしたら、動いているモノを止めなければ、測れません。だったら時間を止めてしまえ、というのも微積分のトリックですが、微積分を物理に採用して認識できる世界とは、止められない時間を止めて繋いで見たらたらどう見えるか、という「もしもボックス 」の世界です。

絶対的見地 (あるいはごく個人的な経験からの起想) からすると、この宇宙において、止まっているモノは皆無です。相対的な位置やサイズの関係で止まっている「か」のように見えることはありますが、「万物は流転する 」のです。

もし、あえて時間と空間の両方を「はかろう」と言うなら、それは時間と空間について、ではなく、空間の変化や移動についてであろう事は、過去記事の通り ですが、いずれにしても限界があります。

空間を非空間という「物差し」では計れません。

長さを重さで指示できない (はかれない) のと同じ事です。

ところが、同じ事を別の言い方で繰り返しますが、物体の移動こそが時間であると定義して、無限のコマ送りにすれば、時間を空間に持ち込める、つまりグラフとして図示可能だという詔を降ろしてきた ( = 思いついた) のがライプニッツとニュートンであります。ですが、移動は時間という意識あるいは心のもたらす現象の一部と理解しないと宇宙全体を無矛盾で言語表現できませんし、現実問題として時間は非物質であり分割 (という概念・行為も空間にしか適応) できません。

この注意点は、「宇宙 (空間) の外」という問いにも適応可能です。「外」とは空間概念です。空間の外に空間があるとすれば、それは外ではありません。問いの意を汲んで回答すれば、空間の外は、非空間であることが、存在の方程式から理解が可能です。更に非空間とは非物質でもあるので非空間を意識と呼んで語義矛盾はありません。すると「宇宙の外」は非物質でもある意識と言い得ます。

更に、時間と空間の外、という疑問には非時空間という回答が得られますが、この言葉を私たちが今手にしている人類知にあたってみれば、梵我一如と言う言葉が見つかるのでした。

このようにして、存在の方程式からは、非空間 (数学的解釈は非ユークリッド幾何にしても空間概念内にとどまっています = 幾何とは空間の別義です)という解釈を物理学に導入することが可能になり、すると現在の科学に内在する論理矛盾が大幅に解決することが可能となります。

大きなポイントとして、ブラック・ホールの「向こう側」を整数、或いは関数を使って表記することは無理、ということが理解可能になる、という点があります。

簡単に申しますと、全てが虚である非空間を指示可能な物は数学ではない、ということです。此処まで記しましたように、非幾何的空間である時間を与して考えれば、自ずと理解が及ぶかと思います。このあたりは 過去記事 にも詳しくありますので、どうぞご参照下さい。

そして、無矛盾の論理体系を持った言葉で指示された宇宙像が正しい宇宙の姿であり、正しい宇宙像を手に入れられれば、間違いなく、人が可能であると設定されていることは、全て可能になる、という理屈です。

存在の方程式が、「知のマスターキー」と呼べる理由です。

■環境問題とエネルギー問題の解決

■効率化(早く・安く・間違いなく)だけの新製品

いま賑されている新技術で、今以上に、人類に何か新しい生き方を直接与えてくれるものは皆無です。

AIは、人のできることのごく一部を肩代わりしてくれる機械にすぎません。(もちろん「洗濯機」だってそうですが)

しかも、AIは「人工知能」というわりに、知っていること (覚えさせたこと)しかわかりません。端的に、AIは思いつくことが出来ない。大規模言語処理とは一種の統計に過ぎません。AIの指示する未来 (要するに出力された回答)とは過去の統計に照らし合わせた確率論でしかないので、コンピュータの「知能」は文章を理解することを知りません。非ロジック (アナロジー/各種メタファー) を理解せず、ロジック (演算式に乗ること) だけしか理解し得ませんが、故に、自ら理解をする、ということができません。ロジックだけでは、もっと大きく言語だけでは、構造的に外部を持てないからです。

言語機能は、普遍文法と、それに則った因果的考察からの論理的思考だけではなく、比喩という非普遍文法による、たとえ話 (アナロジー) に則った所謂直感的な、非論理的思考の両方を有しているのですが、コンピュータ(言語)では、非普遍文法がまったく考慮されていません。 (この辺りの詳細は過去記事を参照ください)

電気自動車は、ただ動力を置き換えただけで、人や物の空間移動を歩くより早くするというベンツの発明や、それ以前のスティーブンソンの功績からなんら進歩はありません。

インターネットによる情報ネットワークと、それに繋ぐ電子計算機 (コンピュータ) による情報革命からの労働(生活)環境の変化も行き詰まっていて、問題は過去記事に書いたような金融経済の問題 を解決しなければ、これ以上改善はできないでしょう。

移動や生産の効率の向上に寄与する技術に、なんら私たちの価値観や人生を一変させるような革新的なものはありません。( 生産の見直しの必然は、過去記事に記しました )

次世代テクノロジーと呼ばれているものは、ほとんどが19世紀以前の古い知見から導かれた技術を改良して効率を高めることしかしていません。

そして、エネルギー変換はほぼ「(お湯を沸かして) タービンを回す」という技術に頼ったったままです。

■新発見がなければ、新発明もない。新製品もない。

歴史において、生活様式の変遷への視点をテクノロジーに置けば、人類は、確かに進歩していると言えそうです。動力と電力の獲得と、その効率化こそが、社会構造の基盤となっています。

人力を超えたエネルギーを獲得する術を手に入れ、その効率化を図ってきたことが文明の進歩と呼べるものでしょう。

効率化には算術が役に立ちました。算術はまた電子計算機の発達と不可分です。

更に、算術と計算機は金融経済の基本です。数字と計算が金融の本尊ですから。ややこしい経済指標に基づいた未来予測と算術が同一のものであることは、過去記事に詳しくあります。

それらのインチキと電子計算機と決済機能のネットワーク化はまだまだ広がる様相を見せていますが、ここで止めないとなりません。このままでは、自由度のない金融支配の奴隷として生きるほかないという未来 (あるいは現在)については 過去記事 に詳しくあります。

金融デリバティブなどを含む全ての金融は仮想空間において天文学的に膨れ上がり、実存在の価値の比喩として通貨の意味をなしていません。どころか、実体経済の足枷となっていて間も無く弾けそうです。

■文明とは石の活用

近代文明は土台である 採石業 と、それを捨てる 産廃業 によってのほぼ一方通行に支えられています。

コンピューターテクノロジーだの金融トレードだの情報産業が可能であるのも、石を取り出し近代的な都市を造り、それらを壊して捨てるという大きな流れがあって成り立っているのだという事を忘れてはなりません。そして、この運動のネルギー源が、我が国では輸入に頼る石油です。

山を削って、海を埋めるこの作業と、金融経済の関係については後ほど述べますが、これに限らず、近代産業はすべて、流行の半導体にしてもレア・メタル/レア・アースという地面の下にある石や石油に頼っています。

地球こそが価値の源泉である事をここでは思い留めて下さい。そして、このサイクル (価値循環 = 経済) に対しての疑義が大枠、人類の課題なのです。

■スムーズになっただけで、ほとんど何も変わらない生活様式

上段のサイクルの中、少なくともこの半世紀以上前から私たちの生活は何も変わってはいません。

移動は、相変わらず、自動車 (バス・タクシー) と電車 (機関車) と飛行機 (ヘリコプター) に頼ったままです。

コンピュータとインターネットの普及により双方向の情報交換が可能になり、買い物や映画や本などオンデマンドでアクセス可能になるなど、生活は「便利」にはなりましたが、逆を言えば (逆じゃありませんが) それだけです。

リモート・ワークなど新しい働き方が、インフラ的には可能になってはいますが、地方の過疎と都市部の一極集中という人口動態の偏移は過激化しています。

この問題の解決策は過去記事に記しました様に、 金融経済から次世代の経済に向かうことで、大胆に解決していくことが、存在の方程式から可能になります。むしろ、今の貨幣・金融経済の価値観を変えない限り、止めようがありません。

自動運転など、スマートシティは権力 (微積分的世界 = 演算結果による未来予測) の絶対化が前提です。何にも考えないで過ごせる街とは、言われたことだけしかさせてくれない世界と同義です。

■当たり前を取り替える

これらのテクノロジーの基幹は、ほとんどすべてが 英国科学アカデミー由来の知見 によっています。そうして、そこから逸脱する科学技術は、いま、存在しないと言って過言ではありません。

既存の外燃機関から発展拡大したエネルギー転換と動力 (内燃機関) の技術、それから微積分を前提にした宇宙像と金融経済という私たちの日常は全て、世界各地の科学アカデミーの差配する独占的「土台 (あたりまえ) 」の上に乗っかっているのです。

私たちの世界を規定し動かしている大元は、お金でもなく、政治でもなく、武力でもなく、思いつきによる発見 (みことのり) から導いた宇宙像と、宇宙像と合理的に結びついたテクノロジーであることは、過去記事からも明らかですが、このことは IISIAの原田武夫氏がことあるごとに口を酸っぱくして述べている ことでもありました。

自分たちが住んでいるこの世界がどのようであるのかという、いわば「当たり前」という常識を構築している知見と、知見から導かれた社会構造を牛耳ることが現代の権威・権力であるということです。

すると、現在の権威・権力である金融と武力による支配を可能たらしめている源は、まず全てが 英国科学アカデミー の知見に元を発していると気づくのです。

だれも疑うことのない「当たり前」ほど巨大な権威はありません。現代に於いては、これが英国由来の科学的な知見に当たります。そして、その知見を土台に組み立てられる、科学技術に立脚した産業が権力と化します。

産業は莫大なマネーを生み出します。即ち、産業は権力組織 (政体) と結びつくことで利権を組み立てます。今の世の中では、誰一人この仕組みに逆らっては生きていけませんが、それこそが権力そのものです。

権力とは、皆が安易に想像する直接的・間接的暴力だけによって在るのではありません。本当の権力とは、不都合を不都合と思わせず、人々を従属させるだけの力を有しているのです。「当たり前」という思い一つで、物事を深く考えさせることを妨害します。その力こそ権力の正体です。

地球のすべてがその仕組みに取り込まれて動いています。その仕組みとは、後述いたしますように通貨 (マネー) を主体にした経済システムそのものです。

学術誌や査読論文は権威によって、アカデミーに相反する知見を省くという働きをして、利権を確保しているとも言い得うるのです。 (どんな知見であれ、特定の団体にお伺いを立てて認可を貰えなければ正しくないとされてしまう仕組みは到底「民主的」とは言えませんが、このことすらにも疑いを持てないほどに権力は巨大なのです) 

宗教と科学が同じもの (現実と接地した、あらゆることに応用可能なほど抽象化された否定のできない命題 = 真理) を求めていたことから、弊社のこれらの知見を隠蔽し、発見者を脅迫し、陥れ、あらゆる方面に煙幕を貼って「あおいのきせきの知見」が見つからないようにしてきたのが、宗教団体やその後ろのある種のインテリジェンス機関であった事も、このことから容易に理解が可能でしょう。

しかしながら、ごく一般的な末端の工作員や信者氏ら以外、まず、弊社知見から発生する出来事から開かれる未来に同意がとれていることは、弊社の旧Twitter をフォローしていただいている方であれば、ご理解頂いている事かと存じます。

この件に関しましては再度、以下過去記事をどうぞ。

そうして、この「あたりまえ」こそが、現在私たちの抱えるすべの問題の根源、つまり核だということを、この note では訴え続けてきました。

国際社会全体で、間違えた前提を取り替えずに結論まわりの辻褄合わせに終始した結果、なんらの根拠を伴わないポジショントーク (お為ごかし) ばかりが跋扈する世の中になっていて、それを「世界が煮詰まった」と表現したのです。

■宇宙の構造と仕組みが明らかになると

微積分という前提の上に組み立てた演算による世界観・宇宙像がわたしたちの日常生活を縛っています。それについては、過去記事で明らかにした通りです。

金融経済とは、過去の延長として規格化され、計算により決定された未来を絶対として、そこから逸脱することはできない経済のこと。国債と信用創造による通貨の発行と、それに付随した金利政策という確立された絶対のルールを基軸にして固めたピラミッド型組織構造を保持することが、権力であることも記してきました。

そして、その金融支配の根拠となっているのが、時間を図示 (空間表現) できるとする、つまり、演算により予測した数字こそが未来だとするのが、微積分というインチキなのです。

それは図と数という空間には存在しえないものを、存在すると信じるという「信仰」ですから、数学こそ神であり、金融が数学信仰に基づいた権威となり、その金融とは銀行制度そのものである事から、中央銀行以下の銀行群を権力と呼べるのです。

■空間と時間をつなぐのは微積分ではない

時空間は、人がいてもいなくても関係なく、在る。

と、いうのが、微積分由来の考え方であることは、上、過去記事での論証の通りです。

空間と時間を繋いでいるのが人の心身であるという正しい理解をせず、「1 = 0」 (ゼロの無限近似値はゼロ) という無根拠な公理を採用した演算式から「逆算して」導いた (ニュートン由来の) 宇宙像を信じ込んでいるのが今の科学であり、それこそが、さまざまな量子パラドクス (観測問題、存在の二重性、存在の非局在性、事象の地平面など) に陥っている理由であることも論考いたしました。

■量子特性の訳

微積分由来の宇宙像は、宇宙を、本質的に外部を想定していない、「多次元である捻れた一つの時空間」であるとしますが、存在の方程式から、実際の宇宙は「認識主体 (人) を結節点にして、空間と非空間 (時間) という非ずの界が繋がったもの」と理解できます。

すると、存在が粒子 (物質) かつ波動 (非物質) であることが、無矛盾で理解可能となります。さらに、認識主体が (現象の境界) として、宇宙存在にそもそも関与していますから、観測問題も無矛盾で解決可能です。もちろん「決定論」と相反する理由がここにもあります。

加えて、非空間は、空間に非ずの特性を持った、マトリックス (座標) のない宇宙 (部分のない全体、もしくはその逆) です。そこでの存在は要素分解できない全てとして存在していますから、非空間存在の特性は、いわゆる 非局在的 にならざるを得ないことも、理を持って了解が可能となります。

このような理解で、エンタングルメント関連の不都合も、前段でもふれましたように、無矛盾で現象を言語指示可能になります。

非空間と空間とその境界である認識主体の相互作用に起因する現象を、原子のサイズまで追っていく事により、現在の宇宙像 {宇宙は数理解釈可能な (筈の) 一つの時空間} の含有する矛盾が、ことごとく顕現してくるのです。この問題は、存在の方程式に導かれる、ここまで述べてきた正しい宇宙像を大前提に採用することで、すべて解決することが、ご理解いただけるかと思います。

あらゆる「スペース」に漫然と存在する物質としてエーテル仮説がありましたが、アインシュタインの理論によって光は媒質がなくても理が通るということになり、その仮説は廃れてしまいました。けれども媒質の有無の問題に決着はついていないのが実際です。しかし、存在の方程式により、この媒質を光そのものであると理解可能になったわけです。つまり偏在して存在することができない特性を持った存在が存在し得るということが分かりました。要するに、空間に非ず、物質に非ずの存在が存在しているということで、それが何かと身の回りを見渡してみると、光という存在が丁度その特質に合致します。

加えまして「無いものであっても、無限に無いに近いものであれば在る」という命題を大前提に採用したことで成り立つ微積分を前提にして、私たちの世界認識は構成されていますから、「見えないところ (感覚として認識不可能な場所 = 無いと知覚されうるところ)」を微積分で理解すれば、当然、在るものがなかったり、ないものが見えたりすることになります。

■微積分という病を治す

結論が前提から逸脱しないのは論理学の当たり前です。

すると、論理的に三次元空間に点も線も面も存在できませんが、微積分は存在できるという前提を採用しているので、計算すればブラック・ホールという天体があり得ることになり、それをもとに、天体観測データを微分解析すると、それが現実に実在するということになりますが、それらをすべて微積分のトリックと考えれば、宇宙を無矛盾で理解できるという事を、過去記事で記してきました。

数学の都合で現実解釈するから、3次元でしかありえない現実世界の次元数が増大していくのも、この微積分解釈が根本原因です。妄想 ( = 非空間) の世界にしか、3次元以外の世界はあり得ません。あったとして (身体は) 属せません。次元は、へりくつ抜きで申せば、3次元空間と非次元、それから無次元のみ実在しえることは、存在の方程式という疑いようのない根拠から導かれる仮説です。

間違った前提からは、間違った結論に至るのは必然です。

■微積分が脳の機能を奪ったということの意味

有と無、要するに 1 と 0、つまり、空間と時間を「本当に」繋いでいるのは、「1 = 0 」という公理の上に立った (微積分という) 計算式ではなく、身体と心、つまり、空間 (身体) と時間 (心) という両方の宇宙を有した私たち生物、特に人であるということがわかります。

過去記事でも繰り返し 検証しました ように、要するにブラック・ホールとは、意味論的に、外部 (空間) と内部 (心) を繋ぐ脳の機能と同義であるので、ブラック・ホールとは私たちの脳であるという仮説 が論理的には否定され得ないという結論へと至ります。

では、空間と、意識という名の非空間の両方の宇宙に内包される私たちヒト(或いは生命) の特異点と言うべきブラック・ホールとしての境界とは何処にあたるのでしょう?

意味ではないでしょうか。或いは意味そのもの。表層としての言葉だけではなく、深層に潜む意味。

生命とは、過去記事でも考察しましたが、意味によって行為する単位と考えられます。単純な物理法則や化学反応に則って動く物と、生命が動くことは異なっています。どの点が違うかを考えますと、物体の単純な熱反応 (縮んでいたバネがはねる) のと、光に焼かれて蛙が跳ねる事の違いは、感覚の有無でしょう。感覚のないバネは熱いという意味に於いてはねたのではありません。するとこれこそが、記号接地問題 の本質だと気づきます。

蛙を超えて、いわゆる言葉という単位で意味を構築可能であるのは、特段ヒトという生き物に於いてです。このあたりの実際が人工知能研究に応用可能であろうと考えるべきでしょう。

壺中の天

空間と非空間 (時間) を記号接地しているのは、身体を伴った脳、特に言葉そのものを使うことの可能なヒトにおいてであり、「1(∞) = 0(i) 」という計算式を有した計算機ではありません。計算式はあくまで、時間 (非空間) 内にしか存在していません。計算式は、空間に対しては無力です。式は非空間にしか存在せず、空間には存在出来ていません。

空間と非空間の結節点とはブラック・ホールを数式表現したものです。具体的に空間にそのような働きをする「物」として存在しているのは、心 (意識)と身体 (空間) を意味 (言語) として繋ぎ、つまり、認識機能により脳内で意味を繋ぐ事により、空間と非空間を合わせての「意味の場」を有している私たちヒトであると言えるのです。

【ブラック・ホールの問題は ゼロとは何かの問題 と同義です。無とは何かを数学がごまかしていることが、矛盾として顕現したのがブラック・ホールです。端的に数学が「無」は「有の場」に在る、という矛盾を無視しているから起きえる結論です。無は無の「場」にしかあり得ません。この事は、有無の問題として前段で解説いたしました通りです。科学 (数学) は三方(或いは一辺でも) の長さがゼロである立体が、三次元空間に存在してしまうことを前提にした演算を、そのまま宇宙像に適応することの大矛盾をスルーしすぎです。ゼロは有理数か、或いは無理数か、存在の方程式によって決着がつき得ました。どちらでもよいのです。(テトラレンマとしての無・ゼロ)】

少し話はそれますが、マルチバース理論は、存在の方程式を一個人の誕生であると仮定して考察を進めて到達する理論と重なることが分かります。一人一人が異なった心 (⊂ 非空間/非時空間) を有していると考えれば、自ずと導かれる仮説です。つまり、非空間 (意識) の「範囲」と考えられる各人に宿る「心」を一つの宇宙としてカウントすれば、心を有した生き物の数だけ宇宙があると言うことも可能だからです。

すると、存在の方程式に導かれる新しい宇宙像は、時空間が誕生するビッグ・バン理論とも相性が悪くありません。自分 (一つの生命) が生まれる以前の宇宙は、自分自身 (一人の生命体) からしてみれば、存在し得ませんので。

■死の謎が解ける

結論までの論考につきましての詳細は、上の過去記事をお読みください。

身体の死とは、生命活動が停止する、つまり、身体を維持する恒常性が崩壊して物質として自然へと還元されていく事を指示します。身体は、エネルギー保存の法則に則れば、個体を構成していた物質が要素に還元されていくだけで、何かがなくなるわけではありません。

物質 (空間) において、死によって失われるものは、「わたくし」という「生きている身体 (個体) 」に他になりません。

すると、心と身体が存在の方程式によって相補的存在であると分かりましたので、心の死も身体の死と同じである、と推測されるのです。

即ち、非物質 (時間) においての死によって、心は自我 (「わたくし」という主体) を失うけれども、無くなることはない、ということです。

心 (という個) が非物質に還元されていけば、「わたくし」という「心」がいなくなると考えられるのです。

そして、非物質を意識と言い換えれば、心は意識の一部であり、死によって心は意識へと還元されていく、と理解できるのです。

身体が物質 (存在) の一部であり、死が身体の物質への還元であることから、そう推測可能でしょう。素朴に考えて、私の身体を離れて、「私の意識(心)」はありえなさそうです。

このあたりは「トランスパーソナル心理学」の知見が応用可能になるかと思います。

また、もう少し詳細に、別の言い方を採用しますと、

{身体 ⊂ 物質 }
という関係にある
身体の死も、
《[ {精神 (心 with 言葉)} ⊂ {意識} ]
という関係にある
精神の死も、
どちらも、自律性を有した「生命システム」 (個体) が破壊され、外部環境へ還元されていくという課程 と、理解できます。

現在、死は身体の 三大兆候 を以て外的に判断されていますが、それは社会に要請されての便宜的な措置に過ぎず、システム論としての死は、起点も終点も決定不可能な過程としか理解が不可能なものであります。

すると、「死にはゴールがない」という解釈に非合理な部分はない ことも、分かります。

また、その有効性には疑問符が残るとしても、「死後身体を保存することが、その人の精神を保つことである」という思想の由来も存在の方程式から理解が可能になります。

個体が死ぬと心がどうなるか、の、イメージとしては (非空間に於いての現象なので、元来は空間イメージでは表現不可能である所に留意して下さい) 非物質空間である意識を水、心を氷のかけら、と喩えると、生前、私たちの心 (氷) は意識(水) の中に沈んでいるのだというイメージです。死は、その氷が水へ溶けていく過程だとイメージ可能です。 (身体の死も、言ってみれば同じイメージとして喩えられるのですが)

要素の変異モデルとしては、十分に通用する喩えであると考えられます。

■心の死とは

留意点として、空間に於ける身体の死と、非空間における精神の死は、外部環境の性質が、相互に非ずの関係として「ひっくり返っている」事を忘れてはいけません。

前段の量子特性の訳の部分でも触れましたように、局在性に則って物質が偏在して働く空間とは異なり、非空間で死んだ心の「行く先」は、非局在性に則って働く「外部」環境への還元となります。もともと三次元空間という意味合いでの「内・外」のあり得ない非空間での「出来事」ですから、心の死は非空間すべてへの偏在性を取り戻す (ある意味生まれる前に「戻る」) 現象と考えられるのです。

このことを想像してみて下さい。怖いことはありませんね。ほぼ毎日行っている事にとても近いと考えが及びます。

では、精神として心と共にある言葉はどうなってしまうのでしょうか。思い出などの記憶の事です。するとそのようなものはそもそも「心の中」にあったのかどうかという疑念がわきます。このあたりも今後の論点になっていくでしょう。 (答えははっきりしていますが、今後のおたのしみとして今のところ保留しておきます)

この事を類推していくと、あらゆる死者は皆、心の中にいると考えるのが妥当ということになります。

■死後の世

ところで結論から申しますと、「死ぬとお星様になる」という言い伝えは、アナロジーではなく、ロジックであったことがロジカルに証明されることが予想されます。

いずれにせよ、多くの宗教では、死後の世界も自我 (というか、私という主体) が存在していることを前提にした言説を教義として流布しているところも多いですから、やはり、このあたりの「真実」が「うつしよの利権」と相反するので弊社知見の周知の妨害に走っているのかもしれません。

※因みに※
心に言葉が宿り、精神となって身体を動かし、行為として現れた「非物質」を魂と呼びますと、精神や魂という曖昧な言葉の物理的な理解が容易になり、混乱した非科学的言説の一掃 に役立ちます。

■ラプラスの悪魔 と 自由意志

人のダイナミズムを省いたニュートン由来の宇宙像では、どうしたってラプラスの悪魔と自由意志が対立 してしまいます。微積分に由来する宇宙観は、無から有を生むこと(= 思いつく事 ) で成り立つ人の意志という機能を「0= 1」という公理にして採用することで、意志ある人の存在を宇宙 (の運動) から省いてしまった宇宙像なので、その結果、機械的に動くはずの宇宙と、意志を有した人の存在が、同一の空間では相容れないという矛盾に陥ります。

ニュートン由来の宇宙像の思想とは、無から有を生む機能を、「零の無限近似値は零」という公理を採用した微積分で表し、宇宙の成り立ちや仕組みを理解することです。無から有を生むことの比喩として「0 = 1」という数式は優秀です。しかし、数式だけでは、物質 (身体) と意識 (心) の合作で動く宇宙で役に立ちません。

つまり、「0=1」と思ったところで (或いは計算に組み込んだところで)、現実の世界で何かが発生する事はありません。

しかも「0=1」という式は、ヒトが心の中で「思う事」ですら、ありません。「思いつく」という (心の中の) 行為を「数式に喩えた」だけです。

古代の人類が洞窟の中に狩りをする所を描いた絵と一緒です。狩りを描いた絵が実際に狩りをすることはありません。アニメーションにして絵を動かしたら、本物の獲物は捕れるでしょうか。捕れません。絵の中の世界と現実の世界が繋がっていないからです。

つまり、思ったことは、それを実現する行為としなければ、空間宇宙は動きません。科学は科学技術として運動させることで、ようやく宇宙全体が動き始めるのです。行為・技術には、言葉を紡ぐということも含まれます。言葉を伝えることが、現実世界に働きかける力となるからです。言葉が行為されて初めて「ことのは (言の刃 = 事の端)」として意味をなします。思い込みだけではなんにもなりません。その言葉がどれほど他者(無機的な物質を含む)に影響を及ぼす力を持っているか、ということです。「ごっこ」を共有した仲間 (教団内) だけにしか影響を与えないのは、唯の「嘘っこ」にすぎません。

思いついて動くとは、まさに自由意志の事をいいます。

演算 (数学) と現実の世界との関係において、記号接地問題こそが鍵であることは過去記事で検証いたしました が、ニュートン由来の今の宇宙像は、星々の運行など生命の関与しないマクロの機械的運動しか扱うことはできません。この宇宙観では、ラプラスの悪魔が世界を牛耳るのが当然の帰結です。

演算という非物質 (時間) は、物質 (空間) と接続していないので、演算だけでは空間が作用される事はなく (ノイズが発生することはなく) 、宇宙は要素設定された物理法則の通りに動くしかありません。

演算、すなわち数学という人工言語を駆使できるのはヒトだけです。

時間 (非物質) と空間(物質)を繋ぐことが出来るのは生物だけです。

ことのほか、人工言語であろうとなかろうと、言葉で思ったことを (あるいは言語化以前に) 行為して空間に作用する事が出来るのはヒトだけであります。

存在の方程式から導かれる宇宙像では、ラプラスの悪魔と自由意志とが無矛盾で同居することの説明が可能です。

存在の方程式に依りますと、機械論的宇宙 (星々の世界) があるとすれば、必ず、境界 (生物) を挟んで非機械的宇宙が存在しなければならず、それこそが、自由意志によって作用される宇宙、と言うことになります。非人為と人為が両者一対となり働くことで宇宙全体は運動しているのです。(生物と非生物の境界とは、例えば粘菌)

要しますと、宇宙は二種類の対義的構造から成り立つので、当然その仕組みも対義的 (非ずの関係) なものになります。

存在論もその両義的見地から考えるべきでしょう。または、思考の枠組みもそうです。例えば、実体論と関係論は矛盾するものではなく、両方の原理が成立しうるのです。

■ゼノンのパラドクスの解決

また、微積分由来の時空間は、コマ送りの アニメーション としてしか機能せず、故に、アキレスと亀 のパラドクスに陥ります。

数学にお詳しい方には釈迦に説法でしょうが、時間を空間表現可能にする (宇宙を一つの時空間と理解する) トリックとは、「時間とは、対象が空間を移動する事である」と定義し、移動を無限に切断すること (零の無限近似値は零という公理の採用) で「傾き」という概念を「連続して」空間に点描 (図示) させることで空間の変化を記述可能たらしめることですが、「無限の分割が無限退行を伴う」ことは既に 数学的にも結論がでている ことであります。要するに微積分の「連続」には隙間が空く、ということです。

即ちニュトーンは「宇宙とはアニメーションである」と言っているのですが、そのご説がパラドクスに陥るのは要するに、時間と空間を同一空間で説明するには限界がある、ということを意味しています。この件につきましては 過去記事で論じました とおりです。

つまり、ゼノンのパラドクスも、存在の方程式から導かれる二つの非なる空間が人を介して相互に作用している事が分かれば、その原理がわかります。

空間と非空間(時間)をつなぐ認識主体 (わたしたち) こそが両者を「一つの時空間」として変化 (移動) を同時に理解可能たらしめていて、ニュートン的一元論 (時間と空間は一つ) という前提では、時間 (0) と空間 (1) を同時に描写しようとしても叶わず、片方ずつ交互に点描する他はない、ということです。

つまり同一空間で両者を扱うと、0と1を交互に「記述」する結果となり、0が隙間に当たりますから、そこを詰め (微分し) ようとしても叶わず、宇宙は永遠のコマ送りにならざるを得ません。

むしろ、このパラドクスは微分思考の嘘 (無限分割は無に至らない) を暴いているともいえるのです。

■神の居場所

また、微積分由来の時空間には、ここまで説明してきましたように「人の意志」という動力が宇宙像に組み込まれていませんから、現代科学が最後の最後でヒトと切り離された 神の意志などというものを持ち出すことも厭わないというオチになってもしまいます。

神の居場所も、正確な宇宙像を手に入れることで理解できる事の筋道も、過去記事で述べさせてもらいました。

マガジンにまとめてございます 通り、言語化の可否はどうであれ、存在、あるいは宇宙から理解不可能な曖昧な部分・範囲が消滅します。

すべて宇宙は非ずの関係で結ばれていると考えれば、範囲と細部はどうあれ、(言語で明示できるか出来ないかは問わず) 理解 ( ≒ 説明 ) 不可能な曖昧模糊とした存在は一掃され得ることが、明らかにされています。

繰り返して申し上げております通り、過去、その「説明不可能な曖昧さ」の存在 ( ex.) に価値を置くことすらが、一部宗教組織・団体の利権の元であることから、存在の方程式が忌諱される根拠 とされているのです。

■環境問題の解決

地震の原因も、異常気象の理由も、存在の方程式から導かれる新しい宇宙像に依れば、それらの機序に対して理解可能な仮説を導くことができます。

すると、いままでお手上げだったこれらの天災に対して人為的に対処が可能となります。

詳細は過去記事にある通りですが、宇宙を、

非空間 (意識) と非時間 (物質) とそれらの交差する心身、そして更にそれらに非ずの何か (梵我一如) からなる

と解釈し、

各々の間を情報 (ある時は粒子又は波動、ある時は感情又は言語) が循環している

という仮説に立ち、

或いは、地球と太陽と言葉が密接に関係していると解釈した場合、自ずと天災がどのように発生するのが無矛盾で説明可能になります

機序が分かれば、悲劇的な結果を導かない道理も、分かりましょう。

■エネルギー問題の抜本的解決

また、エネルギー問題とは、つまり物理の問題ですから、正しい物理を手に入れれば、今より余程スマートにエネルギーを手に入れることができると考えられるのです。

■電子計算機の致命的欠陥の解決

すべてのコンピューターは、量子コンピューターですら、論理の規則に縛られています。しかし、宇宙の仕組みは、人の言語機能に限ったとしても、論理に限定されてはいません。すなわち、ブール代数に従うしかなかった計算機能を言語機能として働かせるためには、排中律や矛盾律を超越する (つまりテトラレンマの機能を使う) 必要があります。 (脱・ゼロイチの二元論 = 半導体を超える分導体の開発)

言語の機能がアナロジー (メタファーなど) とロジックを併せ持っていることは過去記事にも詳しくありますが、これらの知見から、機械に思考させるための術が手に入った訳です。弊社は 今の物とはまったく違った人工知能 の開発を考えております。ご興味がございましたら、是非ご一緒に研究をいたしましょう。金銭的援助も大歓迎です。

■発明・新製品開発から経済の活発化

また、新しい知見からは必ず新しい発明が次々に生まれてきますから、未知の知見が周知されると経済が活性化するのは必然です。

それ以上に、世界を前に進める力は、弊社知見、すなわち存在の方程式を置いて、あり得ません。

■脱・金融経済からの新しい経済

まず、必ず以下の記事をお読みいただきたく願います。

■金融経済からの脱却の手がかり

自然の一部である人の存在を、物理科学として解釈可能になれば、論理的に自然と人が共存可能になる術が手に入ります。自然と人が別でしかありえない微積分理解の世界観からは、そのような術は手に入りません。

逆さから述べますと、人と自然が共存した経済は、微積分由来の金融経済からはたどり着くことはできません。今のニュートン的世界観、或いはデカルト的哲学をベースにした自然科学からは、人のあり方が省かれているからです。

金融経済が地球環境に相反しているからこそ、つまり、今の科学がきちんと自然を描写することに失敗しているからこそ、経済が自然の破壊と異常気象などの天災をもたらして、人を不幸にするのです。経済が天然自然のサイクルと合致したものであれば、経済の発展は環境保護と同義になります。

(経済における) 利益の定義が180度転換すれば、つまり、「交換可能性・信用」が銀行 (の発行する通貨) からすべての人に取り戻されれば、「数字」の増加だけを目的とする以外には無目的な現在の金融システム下での経済活動のベクトルが反転します。

例えば、GoogleMap を開いて、緑の部分を「なにもない」「経済が発展していない」即ち「何の価値も (生ま) ない」と、判断するのが、今の経済の価値観です。確かに、ここで通貨が生まれてくる事はありません。

逆に、この点こそが、現行の通貨経済の過てるポイントを的確に指示しています。

通貨に価値があるとするならば、私たちから奪って寄せ集めた信用に、ではなく、大自然から贈与された価値としてあるべきなのです。

衛星画像で緑色 (や青色など) に見える所こそ、多様な生命が生まれ出ずる豊かな空間 (場所・土地) を示しているのですから。

つまり、現行の通貨・金融経済は、根本から「間違っている」のです。

価値の根源は、大自然の営みの中からしか生まれては来ません。そして銀行経済 (金融経済) は、経済の本質である大自然間に於ける価値の循環と、まったく (記号) 接地していません。

それは、前段でも申し上げましたように、数を基軸にした計算というものが、そもそも、空間と接地していない事に由来します。

これから深く考察して参りますが、人の営みを大枠で規定している貨幣経済というものが、現実と接地していない数字を用いた算術と同義であるという「当たり前」こそ、人類の手足を縛って身動きをとれなくさせているのです。

地球環境での自然な、生物と非生物を巡る、エネルギー循環こそが価値の源泉であります。そこを離れた価値など存在し得ないことは、経験としても考察としても疑いようがありません。

けれどもヒトは言葉を持ったが為に、比喩でしかない言葉 (や数字 )自体を、空間存在と切り離して価値化する術を持っています。これこそヒトのヒトたる由縁なのですが、反面、ヒトであることの最大の悲劇でもあります。

■比喩の具象化(お金と神の誕生した訳)

比喩の具象化がなぜ人に於いて可能となったのか、養老孟司先生による仮説が最も的確かと思われます。

その前に、まず、物事を言葉に喩える、つまり、実際の「花」が、「花という言葉」と同じである、と思えるのは、どういう仕組みがあってでしょう。

言い換えますと、人はなぜ、意味(シニフィエ)[花]、に、言葉(シニフィアン)[花という言葉]を与えられるのでしょうか。

音声に意味を接続可能であるのはどうしてか。
もっと言えば、脳に入力された五感に意味を持たせることができるのは、どうしてでしょう。

つまり、記号接地は、なぜヒトに於いて可能になるのでしょうか?

空間存在、所謂物質と非空間、つまり意識が心に置いて繋がる = 接地することが出来る仕組みこそ、存在の方程式によって理解可能になります。

存在 = 空間 + 空間と非空間の境界 (=ヒト) + 非空間

要しますと、身体 (感覚による空間という外部からの入力) と心 (時間) を繋ぐ事の出来る人の機能がこれに当たります。

つまり、認識作用です。

微積分には出来かねる、数式では記号接地が叶わないパートに相成ります。大雑把に、ヒトは、プログラム抜きで、見たものに名前を与えることが出来る、と言い換えることも出来ます。

この機能こそが、過去記事でも考察いたしましたように、先天的に備わっている普遍言語機能のうちの比喩機能であると思われます。(因みに、非比喩機能が、所謂普遍文法機能)

存在の方程式として言い換えますと、A (花と言う言葉) と、非A (意味の場
に於ける花) が、Aと非Aの境界 (ヒト) によって繋がる、ということです。

ヒトの赤ん坊は、あるとき、気づきます。

「まんま」という声 (音)で、目の前にいる (乳を飲ませてくれる)「存在」を、言える事が分かるのです。

即ち、存在を、言葉にして表現できる事を覚え始めるのです。(この作用を「喩える」と言い得ましょう)

脳の中に元来備わっていた「見えるもの (視覚情報)」と「聞こえるもの (音声情報)」を繋ぐ回路 (言葉) に「電気が流れた」と比喩的に言い得そうです。

つまり、五感信号を結線する役割が言葉にあると考えられます。もちろん、あおいのきせきの知見とは、言葉が事象の分切作用と同義であるということでもありました。

ところで、習得する順序から言えば、言葉は、話し言葉が基本です。しかし、養老先生は脳の解剖学見地からその考えに疑問を抱きます。成る程。

さて。

養老先生は、言葉には、上のように、主に聴覚言語 (話し言葉) と視覚言語(書き言葉) の二種類があることに着目します。(触覚言語についても触れられておりますが、詳細は、「唯脳論(筑摩書房)」 を是非)

脳に入力される二種類の情報の質に互換性はありません。元は、目に「見えた」電磁波と、耳から「聞こえた」音波という別のものです。

この別々の、異なって感じるしかないはずの情報を、なぜ、私たちは同じ対象であると理解することが可能なのでしょう。

養老先生は、脳を機能(非構造)と構造(非機能)に分けて考察していくのですが、要するに、「言語」が、脳内において、その二種の異なった情報を同じであるとする、との仮説を立てられました。

「中間子 = b = 言葉」によって、記号接地が完了するのです。

( a =  b  ∩  c = b  ∴  a =  c )  ⇄  存在の方程式 

「まま」という獲得された言語によって、「まま」という声 (音) が、「まま」という文字 (目で見えた形) と同じであると、ヒトは、わかり得るのです。

現象 (見えたもの、聞こえたもの) を抽象化する働きが言語機能の一つですが、喩えて抽象化された言葉を、こんどは、実存在だと思い込み、脳の中から切り離して、身体の外に誕生させてしまったのが、「お金」と「神」です。

ヒトには、言葉を外界に延長する機能が装備されていると言い得ましょう。

再三述べて参りましたように、お金の実体は数字です。事物を数値化したもの (価格) を価値だと信じることが出来るのは、数字が、空気と同じように、例え見えなくても、空間に実在するなにかであると、信じているからです。空間には存在せず、非空間にしか存在していないものについて、私たちは「妄想」というレッテルを貼って一蹴してしまいます。そうして、お金、つまり、数字は元来非空間に在って、空間には存在していません。すなわち「お金」は「妄想」に過ぎません。にもかかわらず、私たちは、お金が欲しいというヒトを妄想にとりつかれた狂人とは思いません。

お金こそ共同幻想と呼べるかもしれませんが、なら、それが金融経済が妄想経済だと気づくのも容易でしょう。

硬貨は実在ですって?

あれは、鋳型にはめた金属ですし、紙幣は印刷した紙です。後段でも述べますが、見えて触れる実在する物質を、それとは別の何かだと信じられるのが、「フリ」と「ごっこ」遊びが出来る幽玄な私たちである、ということです。(見立て。盆栽。造園。芸術)

まず、その前に、私たちは「数字をお金ってことにして遊ぼうね」という「ごっこ遊び」をやっているのです。その後、「じゃあ、お金はこの丸い金属ってことね」と二重の「フリ (ごっこ遊び)」をして成り立っているのが、貨幣経済を基軸にした金融経済という訳になります。

そういえば、イルカもごっこ遊びが出来ると聞いたことがあるような気もしますが、どうだったでしょう か。

■偶像崇拝禁止のオキテを破ってしまった科学

偶像崇拝 が禁止される、本当の意味がお分かりになりましたでしょうか?

頭の中の妄想  (空間存在と接続していない非空間存在) を 実存在 (空間存在) として扱うと、大変なことになりますよ、ということです。

{弊社が盛んに訴えていることと同じです。そう。ブラック・ホールが仮説として存在してしまうのは、数や図それ自体は空間には存在できないのに、出来ると (偶像崇拝) してしまったからに他なりません}

動植物では持つことの出来ない文化文明は、ヒトのこの「中間子」を実在と思い込む機能によるものであり、反面、自然に反した破壊行為 (観念による人殺しなど) を可能にしているのも、この機能のある故であります。

ハンバーグと書かれたメニューは食べられない (価値がない) にもかかわらず、言葉の書かれた紙切れが証券や債権に化ければ、価値があるという魔術が有効なのも、偶像崇拝を可能たらしめるヒトの機能がある故です。

もちろん、金融経済の大本である、数字を価値だと信じる事が出来るのもこの機能、「フリ」と「ごっこ遊び」が出来る故です。

偶像崇拝の禁止と、アポカリプスに於ける獣の刻印の逸話は、一神教における人類に対しての同一警告です。

端的に、行き過ぎた貨幣経済が人類を滅ぼす事への警告です。(まさに今)

■現世(実在の世界)と常世(言葉の世界)

言葉の世界と現実の世界が合わせ鏡であることを、もちろん、人類は知っていました。ただ、存在の方程式とは、表現の仕方が異なっていただけです。

常世に在るしかないもの (言葉) を、現世に持ち出し、現世のどこかに常世があると勘違いして、神が生まれます。

偶像崇拝の禁止とは、要するに、常世 (非空間) にしかあり得ない存在を現世(非時間) で「実体化させるな」ということです。

もちろん、数字をあがめてはいけません。元来が現世には存在し得ませんから。

ただし、アイドルは別かもしれません。生き物で「ごっこ」すなわち「演じる」ことが可能なのがヒトだけであるのも、常世から中間子を現世に持って来られるというヒトの力 によるものだからです。

■偶像と大自然が繋がった経済

常世にしかない言葉を現世に在ると勘違いせず、現世と等しく接地した経済にならなければ、本来の経済活動が阻害されるのは当たり前です。(経済の記号接地問題)

要するに妄想を現実として突っ走って現実が壊れないわけはありません。

現行の金融経済が、自然経済 (経済学用語としての意味ではなく、大自然の営み = 全生物と非生物の共生システム) と、まったく無関係である故に、双方の営みが相容れないのです。

お金という常世の世界を、現世と勘違いして組み立てた仕組みが、金融経済です。

ヒトという「生き物」は自然経済の一員であるにも関わらず、ヒトの経済が自然経済を無視している理由がここにあります。「頭の中で組み立てた」だけの経済が、「実存在の世界」と繋がっていないのです。

このような事になってしまうのは、人の介在を要せずに、時間 (常世) と空間(現世) が一体化してしまう (微積分によって心と空間が一つであると仮想する) ニュートン的宇宙像に基づく経済のせい、とも言い得ます。

今の宇宙像から、一つの時空間と錯覚される世界は、実際には心の中と現実の世界とに分けられて別に在るので、現実の世界にある自然とは、金融経済からすると、ただ単に価値を奪う対象でしか、構造的にあり得ないのです。

時間 (非空間) とは移動と変化である、と狭く定義して、空間存在と同等 (一つの時空間) であるとした微積分由来の宇宙像を大前提に組み立てた現状の経済システムには、本来の時間、つまり ヒトの心 (非空間) が 経済システムに含まれていません。

しかし、宇宙の エネルギー循環、広義に言い換えますと 情報循環 は {非存在と非 (存在・非存在) を含めた } 存在すべてを巡る現象です。このことを大前提に、経済という価値循環 ( これも情報の循環の一種 ) の仕組みを構築していない故に、今の経済が地球環境を破壊してしまうのです。このポイントから経済システムを再構築しなければ、早晩、地球は住めなくなってしまいます。

実際、それで地球環境が壊れてきているわけです。

また、微分思考とは、動的なものを止める事でもあります。なので、存在自体が動的である、動植物を生かしたまま経済に組み込めません。

即ち、木は切り倒さないと、価値 (貨幣) になりません。

そして、そのようなヒトだけの経済と、自然経済との勝負の結果は、火を見るより明らかでしょう。

今、盛んに危惧されているような、地球環境の危機は、ヒトの経済を自然経済に内包させなければ、絶対に解決できません。

それ以外、ヒトが自然を巻き添えにして滅亡する、という未来意外の未来はありません。

無限 (∞ = 0) を前提にした現在の自然科学および経済だと、円環構造 (ある意味有限) である価値の循環を「切断」してしまいます。有限である実際のところを無限を前提にして経済を組み立てれば、当然、今の経済がそうであるように、資源を奪って捨てるだけになってしまいます。

エネルギー循環を阻害していれば、そのシステムが壊れるのが自然です。血液循環が阻害されれば生物が死ぬのと変わりはありません。

具体例として、現在の地球環境において、採掘して発生させたエネルギーが、全てきちんと宇宙に還元されていません。それこそ発生した力学の収支が不均衡です。

使用した力は、使用しない力へ「戻」さないと、全体のバランスが崩れるのは簡単な力学から学べます。

より具体的に指摘しますと、例えば、放熱や放電 (漏電)といった概念で放置されている力 (情報) は完全に無視されています。これが、大気や水質など汚染に繋がったり、大気の循環に盛んな影響を及ぼすと考えるのはものすごく簡単な力学によって子供でも理解可能でしょう。或いはその「力学的」影響「力」は、二酸化炭素の量の比ではないと考えるのが妥当です。

それを無視すれば、与えることで回っている自然経済を奪い尽くして、いずれ奪うものがなくなりヒトが死ぬのは「当たり前」です。

この問題は、宇宙像を正しく理解して、改めて産業構造、端的に経済の仕組みから再構築しなければ、解決の道はありません。

微積分理解による宇宙像が、幾何学を時間に当てはめて宇宙を理解させる、というトリックに基づいた結果、時間 (例えば歴史) を直線としてしか理解させないという前提で世界を構築するから過ちに至ります。

四季の通り、時間は円環と理解するべきなのです。すると無限の意味が変わります。

起点と終点の決められない円環こそ、時間を無限と誤解させる手品の種です。

時間を座標で理解し、起点をビッグ・バンに設定し、終点は無限の先であるという大前提で産業を構築しているので、資源を掘って捨てるという無茶に平気でいられるのです。

時間は今にしかいられません。時間には今しかない、と言うことも出来ます。

誰しもがそうですが、生まれてから死ぬまで (或いは死んでも) ヒトは今にしかいることは出来ない のです。

今以外を思うのは今しかありませんし、過去の自分がいた時間は、そのときの今ですし、明日の自分がいる時間もそのときの今でしかないのです。タイムマシンに乗って過去や未来に行ったとしても、その自分がいる時間はそのときの「今」だということです。

■価値(情報)の循環ベクトル

ところで、国債と信用創造から起動する金融経済に於ける価値の循環は、「貸し出した価値を返却させる」という天然自然とは正反対の向きに循環しています。

大自然は価値を創造して行くことで、価値が循環していきます。

このような金融経済が、自然経済と合致しようがありません。

現行の金融経済の発展が、自然環境の破壊もたらす原理が、存在の方程式によって明らかになりました。

まず、実際問題として、ヒトの行為が、通貨 (貨幣) の介在によって、目的と手段に分断されない経済が必要です。

大自然の一部でしかないわたしたち人間の営みも、ビーバーのダムのごとく、自然と見分けのつかないカタチになってしかるべきなのです。もちろんこの言いようは、建築の問題に限りません。

問題は、エネルギーの「採掘」と「転換」と「配分」そして「還元」という循環構造に集約し得ます。

現代の街作りが確かに、そちらの方向に向かっているのは確かですが、経済の意味を見直さない限り、かならず歪みやごまかしが生まれてしまいます。価値を生まない緑を増やすのは利益に反するから価格転嫁するなんていう馬鹿げた現象を解決するには「利益」そのものの意味を転換するしかありません。

ポスト・金融経済においては、GoogleMapの緑色の部分が、例え人が住んでいようといまいと「豊か」で「経済が発展している」となります。

我々のチャレンジは、鮮やかな緑色に彩られた場所で、どのようにして自然な経済の循環構造を棄損せずに生きていけるのか、そうではない部分をどのようにして「非人工的 (緑色的) 」な生活圏へと移行させていくのか、という事になっていきます。

そこからも「素材とエネルギー」へと話が繋がってきますが、そのアイデアにつきましても「あおいのきせきの知見」は持ち合わせているのです。

■自然な経済と一体化した社会構造

■ピラミッド型社会から粘菌型社会へ

公平で平等な社会は、現代のようなピラミッド型社会では実現し得ません。
言われてみれば「当たり前」だと気づきますが、そもそも社会構造が不平等で不公平なのですから、その構造の中で公平・平等を求めるのは、青の絵の具しかないのに赤い絵を描こうと言っているのと同じです。社会構造を変えなければ、問題は解決不可能です。

上下下達のピラミッド型社会は、構造的に不平等で不公平な社会です。

ピラミッド型社会でのトップの奪い合いと、その後の規格化された仕組みの構築は、いずれかならず革命か被侵略によるトップの交代という混乱に至ります。そうして、その混乱までの道のりは、要するに不平等による社会に対しての不満の積み重ねです。人の歴史がすべてそのように動いてきたのはご存じの通りです。これでは、恒久平和など夢のまた夢です。

ピラミッド型社会では、システムのバランスを保つために、(権) 力の配分が逆三角形に反転します。組織の上が強く、下が弱いことで、社会の量と力のバランスが保たれますが、もちろん、これは「物理的」にとても不安定です。故に、何れ崩壊するのだと「(社会) 科学」としてアナロジックに言い得ましょう。

社会の維持には適材適所が不可欠ですが、権力は ネポティスティック に固定化する方向に向かうのが自然なので、太平の信賞必罰を嫌います。すると、社会全体の恒常性が担保され得ません。端的に申しますと、愚劣な者ばかりの権限が増大するので社会がおかしくなります。

それが今の日本です。(加えて日本は、権力から疎外された権威の問題も抱えています)

経済の仕組みが変われば、価値基準もかわり、組織がピラミッド型である必然性 (或いはそれに向かう人間の欲望) が失われていきます。過去、ヒトがそのような生活様式を採用して不都合があまりなかったことは、歴史が証明しています。そうして、私たち日本勢は、縄文文化という知見を他に先駆けて有していたのですから、幸いにも積極的に (見習わないを含めて) 見習うべきお手本を、既に、持ち合わせているのです。

適材適所は人材に限りません。すべての物事が「Let It Be」であろうことを指示しています。前提としての価値判断が正しくされることが大事なのです。

詳細は 過去記事に当たっていただきたい のですが、真理に基づいた社会を構築すれば、大自然も真理に基づいて営まれているので、すべての人が幸せに人らしく生きていける社会が自然とできあがります。

社会構造と経済システムは密接に関わっています、というか、同じものの別の側面です。ポスト金融経済に希求される社会構造は必然的に (粘菌型へと)決まってきます。

別の角度から指摘しますと、社会構造を考えた場合の根本の問題点は、要するに規格化、或いは数値化 ( ≒ デジタル化) の不可能性の問題です。

次節でも詳しく述べますが、線形代数での例えの通り (或いは過去記事での検証の通り) 、経済 (あるいは社会構造) 全てを言語化 (数値化) して規格化することは、できません。これも対角線論法の一面とも言い得うるのですが、要するに、生命体、特にヒトは自由意志を持った非ラプラスの悪魔的宇宙に住まうものであるからです。計算通りに動かないのが基本原理であるものを、計算に当てはめて無理が出るのは当然でしょう。

社会構造からの外れ値の処理として、固定した (静的な) ピラミッド型社会は、アジールというトポスを作ることで、それらの規格外を回収するという術を持っていた (る) 訳ですが、現在ではその力が大分失われていることも問題になっています。

しかし、社会構造そのものが粘菌型であれば、規格 (ネットワークの形態) の変化を構造に取り込むことで、規格外を内包する仕組みが組織に備わります。

逆から申しますと、粘菌型社会システムは、規格外でしかあり得ないヒトを基軸にして組み立てる動的な社会構造なので、真の意味で「誰一人取り残さない」ことが出来るのです。

確かに、今の固定されたピラミッド型社会構造のままで、このスローガンを施行すれば、全てのヒトを規格化する、という意味になり得て、そんなのはごめんだ、という答えしか出てきません。

■動的で規格化され得ない社会と、個人のより良い関係を求めて

古人のよく指摘されているように、世は諸行無常こそが常なのです。

生物は、ましてや言葉を持った私たちは、日々刻々と変化しています。一個人として、よく言えば成長していくし、悪く言えば老化していきます。心も身体もです。そうして、その常ならん私たちは、この国に限っても1億2千万という人々が、ひしめき合って暮らしています。そして、その一人一人の関係も日々刻々と変化していきます。加えて、誕生と死によってその構成要員も変わっていくのです。

そのような動的である社会こそが常態の中で、社会を構成する仕組みが固定されていて歪みが出ない訳がないことを指摘するのに、何もわざわざカントールの対角線論法だの線形代数だの持ち出すまでもないでしょう。そんなことは、経験則として誰しも容易に理解が可能であると思われます。

これはすなわち、未来予測の不可能性の問題の、別の側面でもあります。規格化された社会とは、変化を認めないことと同義ですから、昨日と今日は同じ、そして、明日も今日と同じであろう (同じである) 事が、前提とされた社会です。

過去記事でも、いろいろな角度からこの問題に触れましたが、社会問題とは要約してしまえば、

規 格 ↔ 非規 格
決定論 ↔ 非決定論 

という対立軸の上で、私たちが如何にしてバランスをとって生きていくかの飽くなき挑戦であると言い得ます。

非決定論に振り切って、規格無き社会に生きるとは、明日がどうなるか全く分からない世界です。

そこは、思いつきと直感ばかりで、出たとこ勝負のバトル・フィールドの社会です。うまくいけば、食べ物にありつけるし、さもなくば、飢え死にです。

要するに、生き物たちの調和無き自由意志だけの世界です。

歴史から、私たちはこのような時代の経験を積んだ後、今に至っているのだと学んでいます。

かなり恐ろしい世界ですよ。日々世界との戦争です。

人類の戦いとは、このような明日をも知れぬ世界の明日を知ることへの挑戦であると言い切って言い切れるほどです。

そして、いつしか私たちは言葉を手にし、宇宙を言葉に喩える事を覚えました。

宇宙に規則があることを言葉で以て理解し、すると、逆に言葉を世界に当てはめて、未来がある程度予測出来ること を知ったのです。

太陽と月と、星々の動きから、今と未来を知りました。そして、動植物に名前をつけ、彼らの生態を観察し、その規則を理解しました。

すると今度は、その反対を行為して、予測した未来通りの未来を実現する術を学びました。今、こうすれば、将来、こうなる、事が分かったのです。

そこで、狩猟採集が可能となりました。

そうです、次は、飼育と農業の世界です。

ここからは、飽くなき規格化の世界です。規格化により知り得た未来は、私たちの直ぐ目の前にあった死の恐怖を先へ先へと追いやることに成功して、ついに、日常ヒトの死を見ることはまずないところまでやってきました。

私たちは、規格化によって安心を手に入れたのです。遙かな時間をかけた甲斐もあり、ついには安心こそ常態で、死に至るような出来事は、病すら含めて事故や事件に相当する非日常である所まで世界を反転させることに成功したのです。

人類は自らを律し、社会を規格化することで未来を手に入れました。

これを「霊長類」の偉業と言わずに、何を偉業と言っていいか分からない程です。

しかし、

一方、カレンダーに未来の世界を書き込めることが何の疑問も抱かないほど当たり前としか思えなくなった世界は、規格外を許さない世界と同義です。安心な未来は、予測された通りであることが条件です。予測された通りであるには、ニュートンの言うように、ヒトも物理法則に則った機械の通りに動く必要があります。

要するに、人は、思いつきと直感による勝手を許されないから、未来予測が可能になりました。

しかし、もし、規格以外のことが社会として不可能とされていれば、つまり、確かに明日は今日と同じで安心ですが、新しい事は何も起きず、1000年後も1万年後も今日と同じ社会構造のままです。

そもそも 発明・発見は、ヒトが勝手をして規格を外すためになされるのですから、規格化に振り切った社会は進歩が止まります。止まるだけではなく、社会は劣化して熱死へと向かっていきます。

ところで、そもそもが勝手に出来ている私たちヒトは、安心な社会を保ちながら、何処まで勝手が許されるのでしょうか?

或いは、道徳とヒューマニティだけを手放さずに、どうにか、安定した社会は築けないものなのでしょうか?

出来ます。

金融経済を脱しての粘菌型社会こそが、ようやく人類が得ることの叶った、規格と非規格の見事にバランスを求めた、最新の回答であると断言できるのです。

ポスト金融経済に於ける粘菌型社会とは

ピラミッド型社会は、ピラミッド型組織の集合体で、基本、上意下達で動く生命体のようなものです。法人という概念が、これにほぼ適合しますが、同一という訳ではありません。組織の構成は三角形型にほぼ固定され、運営には規格化された組織図の通りに配置された個人が「言われたとおり」に動くことで目的を果たすよう機能します。

ピラミッド型組織は一貫した名前を持ち、組織の中で個人が名前 (個性) を持つことはまずありません。組織の中では決められた役割を果たすことが求められるからです。

組織が求めるのは役割ですから、そこで働く人に求められるのは、交換可能性になります。代替不可能性は組織の永続性を棄損しますから、規格化され得ない個性はむしろ忌諱されます。

過去記事でも述べて参りました が、人々の価値観が均一で、身分制度など立場の規格が固定された社会として、全体の目的が明確な場合には、この組織形態は非常に有効に機能します。つまり社会全体が静的な場合にとても有効です。

社会全体から見れば、です。

反面、この社会構造では、システムの含有するノイズ を全て個人が負担することになり、この点がこの仕組み最大の欠点 になります。

未来予測を線形代数、y = ax + b、 で表した場合、 y を社会の求める予測された値とし、x を規格化された社会構造を意味する固有値とすれば、ヒトはあらかじめ ab に振り分けられてしまいます。即ち b を社会参画させないことで  x という社会の規格を固定したまま 望ましい y を得続けるという訳になります。

ほとんどの場合、この振り分け作業は、ヒトが社会化する直前に決定されてしまいます。大きな濃淡はありますが、a として y を導けないヒトは、社会 = x と結びつけない 非規格化個体 (不適格な変数) = bとして社会からはじかれてしまいます。

もちろん、 この社会では本来変数であるしかないヒトは、固定された yx に縛られた a という固有値 で在り続ける必要があります。

個人は組織の駒に過ぎません。システム (社会) の維持は要するに、システムが望まないヒト (b) をシステムに受け入れない事と、システムの不具合( y が予測された値になりそうもない場合)は変数である a を 社会からはじく ( b として扱う) 事で、特に、日本のピラミッド型社会は機能してきました。

この機能により、日本社会では驚くべきことに、まったく非のない犯罪被害者ですら、システム維持に不適格な存在として、排除の対象である規格外としてしか扱ってもらえません。

また、日本の場合、ピラミッド型組織の所属に関して融通がききません。いったん所属した組織を抜ける ( = b となる) と、次に身を置く場所を見つけるのが容易ではありません。( = a に戻る事ができない)

加えて、ピラミッド型組織は、組織の所属する社会全体が動的 であり (そもそもの、方程式の成立する前提要素が変数化した場合)、それに合わせて組織の目的を細分化させたり、次々に変化させたりといったことには全く不向きです。まるでタンカーが障害物競走に向いていないが如くです。(要するに固定された値である x を変更することを嫌う)

対して粘菌型組織は、いわゆるネットワーク型組織とかぶるのですが、粘菌の言葉どおり、社会の状況にあわせて個人を組織したり、非組織化したりして、縦横無尽に動ける有機体としての組織です。

粘菌型組織は、個人に役割を求めて構成されるのではなく、役割に求められた個人の集合体です。真の意味での適材適所が徹底された仕組みです。

線形代数を再び引用しますと、y を項目ごとに細分化し、方程式を永続化せず、x を固有値とさせない (変数化する) 事で、 a b もない社会を構成するということです。

ポスト金融経済下では、信用と交換可能性が個人に帰属しますから、ヒトは非個人 (他者) ・又は組織に依存することなく生きていけます。或いは生きていかなくてはなりません。もちろん、社会での役割は完全に個性に依拠していますから、各個人の負担する生きるための労力は、必ず相応なものになります。そこは、生産性とは無縁の社会です。弱者適応性という言葉が意味を成さない世界です。

一個人に組織されるネットワークは、固定したものではありません。プロジェクトされた問題解決のためのチームと考えるとわかりやすいかもしれません。必要に応じて、必要なスキル・スペックを有した人材が配置され、状況や環境にあわせて、組織構成が変化していくのが粘菌型組織です。

ただ、この物言いは、組織という仮想された有機体から考えて見たものですから正確ではありません。

あくまで、粘菌型組織は、個人が主体の仕組みです。解決の必要な問題を見つけるのも個人ですし、解決の為に 主体的にネットワークを組織するのも市井の個人 です。

必要に応じて人々が集まり、タスクが配置されて執行され、必要がなくなれば、解散します。

同じ個人でも、時期によって複数の組織に所属することもあれば、どこにも所属する必要がない場合もあるでしょう。

分人という考えがあるそうですが、非常に粘菌型組織の思想と相性がいいようですから、この分野の研究がとても有用かと思われます。{一個人のマルチタスク (分人) の一部をAIが補完する、という予測は IISIA / 原田武夫氏によります}

粘菌型社会では、個人の所属するコミュニティは、動的かつ複数であることが常態の社会になりそうです。

家族を基軸に、子供ですと、学校、クラブ活動、学童、塾、習い事、など複数のコミュニティに所属するとことがよくありますが、それに似ています。

また、個人的にイメージが沸くのは、腕の良いミュージシャンです。プロジェクトごとに集まり、一枚のアルバムをつくり、解散し、何かのライブツアーで各地を巡り、今度は俳優として映画に出演し、それ以外は畑で農作業をしたりする、そんなイメージです。

実は現在でも次世代型社会で参考になる生き方をなさっておられる方はいらっしゃいます。唯、それが可能なのは、万に一つ以上の飛び抜けた才能と幸運を兼ね備えた一部の天才に限られています。このようなライフスタイルが一般化していくと考えればイメージが沸きますでしょうか。

完全なる自責の世界ですが、併せて 利他の社会 であるので、疎外とは無縁のとても暖かい人間味のある社会となり得ます。

もちろん、社会構造改革は教育改革とセットです。今の金融経済下の社会構造にあわせた価値観に基づいた教育システムでは、自責を生きる大人を育てるのは大変困難です。

過去記事にも記しました が「何かの専門家 (得意分野がある) けれども大抵のことは何でも出来る」個人が育つ教育の仕組みが求められます。もちろん、このような社会になり、初めて「生涯教育」というものが本当に意味を持ちます。「勉強は長くても大学 (院) 卒業まで、その後は組織に所属して労働」という当たり前を再構築するところから始めないとならないでしょう。

一つ注意点として、粘菌型組織はピラミッド型組織と対立するものではありません。粘菌型組織も、必要に応じてピラミッド型を組織可能ですし、その組織を長期間保つ事も出来得ます。それでも、主体はあくまで個人ですから、関係する全ての個人と接地しない組織の意志がないことに意義があります。組織がそれ自体を目的化することがないのです。

更に、Web3.0や人工知能といった技術を加えれば、ネットワーク (コミュニティ) は、空間の近接を必ずしも必是とはしません。近頃流行ったリモート・ワークも弊社知見による「大きな文脈」を与えられれば、俄然、その意味合いも変わってきます。デジタル・ノマド が世界の最新トレンドだそうですが、ポスト金融経済において、人は空間に縛られる必然性を失いますから、これらの新しい働き方も、粘菌型社会と親和性があることが分かります。

しかし、繰り返しになりますが、空間に接地しない価値はありませんから、そのことを忘れてはいけません。

第一、農業や重工業など土地と不可分の産業が直ぐになくなることを想像するのは困難です。インフラの保守という役割がなくなることも考えにくい。

デジタル・ノマドと言えども、身体は必ず何処かの場所にいるわけですから、世界の何処であろうと、その場所の歴史(言語と文化)を無視するわけにはいきません。

もし、デジタル・ノマドが、何処でもない場所  {= あらゆる場所を無縁 (アジール) 化すること} こそ理想郷であるというトポスに陥れば、近現代の「過ち」とも言える「グローバル」化した世界での「コスモポリタン」に再帰するだけになってしまいます。これらの文脈が価値相対主義と地続きで、その考えは結局、人の幸せを見誤らせる罠であることを、ずいぶん昔に西部邁先生がお話になっておりました。 (幸福論は機会があれば、別に論じたいと思います)

空間(地域の言語・文化) に全く接地しない金融経済のみの価値観が、歴史と文化の破壊を伴う世界の均一化 にしか至らない事は、21世紀の今を生きる私たちにはもう理解が十分に至っていること と思います。

人には帰属する何かが必ず求められていて、そは何れ母語という言語に収斂されていくのではなかろうか、と個人的には予想しています。そうして言葉は大抵、固有の土地と不可分です。

いずれにせよ、次世代型経済を大きな文脈として「リスキリング」といった流行言葉を理解すると、そこには全く異なった意味が浮かび上がってきます。人が生きてすべきこと ( ≒ 仕事) が一つである必然性はないし、人生の時期によって変わる場合もあるだろうという事です。もちろん、一つを極めることも大変意義が深いことでしょう。これが職業多様性の本来の意味です。

また、 官民一体となって個人の起業を推し進めている という流行も、同様に弊社知見というナラティブを獲得すれば、その本当の意味も分かります。粘菌型社会においては、一人一人がスキルに応じた相応のヘッド・クォーターでいなければならなくなるということは、一人一人が (法人化の有無にかかわらず )個人事業主としてあるのだ、という意味になり得ます。

非正規雇用という労働形態や、異業種のコラボーレートという流行も、大企業主体の国家と強く一体化したピラミッド型社会構造のままでは、ただの個人搾取の道具にしかなり得ていない事が、社会問題となって久しくあります。この社会構造では、ピラミッドの上から仕事をアウトソーシングしていく事が、ただの中抜きにしかなっていないのは自明です。

けれども、これら経営のニューウェイヴも、脱金融経済からの粘菌型社会という大きな文脈に乗せることで、はじめて生き生きとした、お為ごかしではない意味を獲得できるのです。

さらに空間 (土地) との関係では、「多拠点生活」という流行りも、この文脈を背景にすれば、その大きな意味も理解できるようになるかと思います。ある人にとっては、関与するプロジェクト ( ≒ 仕事) がその人のいるべき場所を必然的に決めることもあろう、ということです。プロジェクトに要請されたり、複数のプロジェクトに関わっていれば、自動的に生活は多拠点にならざるを得ないでしょう。

これから必然的に要請される社会変革を簡潔に申せば、個人が生活するために、利権化されたシステムに従属せざるを得ない仕組みがなくなる、と言うことにつきます。つまり、常ならんが常になるということです。

■奴隷の解放

「私たちは自由だ」という思い込みにより気づきませんが、私たちはまず、通貨の奴隷状態に置かれています。

自由とは、時間と空間の自由 (好きな時に、好きな所で、すべき事が出来る)を意味しますが、現代社会に於いてこれが可能なのは、「時間と空間の自由を享受するに十分な通貨を有していること」が大前提になります。

銀行の計算した支払い義務に拘束された未来から自由になることが叶わないのが人々の生活です。人々はみな数字としてはじき出された金利を併せての支払金額を、決められた未来に返済する以外の自由を奪われています。仮に個人で借金をしていないとしても、その個人の属する社会・自治体/国家がこの仕組みに未来を縛られていますから、結局は誰もこの「原罪」に等しい借金の支払い義務から自由に生きることが出来ません。

なにしろ法定通貨は、国債 (と信用創造) という借金に担保されているのです。通貨が債券である事の意味は、法定通貨を使う限り借金を背負っていることの証なのです。

価値の創造が借りである事自体が間違っていることの考察は過去記事でも行いましたが、今回記事でも後半でより深くロジカルに追求していきます。

この事の意味は、要するに、地球人は皆、お金に自由を奪われているということに他なりません。

私たちが、お金に支配されている仕組みについて解明され得たのはひとえに存在の方程式のおかげなので、貨幣/金融経済の仕組みを追求するのに、この知見は間違いなく役に立ちます。というより、この知見がなければ、お金に使われるという奴隷状態からの解放は、未来永劫不可能であります。

経済が、価値の創造と交換 (ではなく間接的な相互贈与) の自然 (じねん) に則ったかたちにならなければ、私たちの不自由と環境破壊はとまりません。

金融経済は、銀行 (通貨) に「私たち自身の信用・交換可能性」を剥奪されていることで回っていて、故に、私たちは通貨がなければ自分で生産した価値で生活が出来ず、結果、銀行 (通貨) に支配されていることの仕組みは以下、過去記事に明らかです。まだお読みでない方は是非。

ところで、通貨が「獣の刻印」であっては困る新興宗教の方々による弊社知見の周知の妨害については、一例として 「#獣の刻印」など弊社のつけているハッシュタグ をたどれば直ぐに分かります。彼らこそが奴隷の看守を担っているのです。

■あおいのきせきによる社会改革の歴史的意味

■経済、テクノロジー、社会構造

科学技術と産業が不可分であることに疑問はないでしょう。そして、産業とは価値の創造と循環の機関部分です。

即ち、ヒトの経済。

そして、社会構造は、経済に寄り添ったカタチになるのが本来です。
言い換えますと、価値の循環があまねく隅々まで行き渡るような仕組み (構造) にしませんと、生体と喩えた経済は病んでしまいます。構造的な病因を全て社会の構成要員である個々人に転嫁していよいよ行き詰まっているのが日本社会 (或いは世界経済) であると言って間違いないでしょう。

しかるに、社会構造は旧態依然のまま、現代の最新テクノロジーと産業に沿うようなカタチになっていません。

情報革命で手に入った「非空間 (時間) の自由」を「空間の不自由」が阻害しているのです。

眺めてみますと、私たちの「空間の自由」を束縛しているのが、生きるために必要な (労働対価としての) 価値というものが、銀行経済に同期した土地に縛られた産業構造自体にあるのだ、と分かります。

私たちの「時間 (心・非空間) 」は、それを切り売る事でしか、貸与された価値 (通貨) を手に入れることができません。これが金融経済という時間泥棒の仕業であることは、過去記事にて述べましたとおりです。

「信用」の宿る心を奪って、寄せ集めた「交換可能性」という通貨に従うしかない世にあって、そのような金融経済の社会構造に従属させられた状態に、皆が疲弊しています。

これは、要しますと「時間の自由」を金融経済に奪われた結果「空間の不自由」に晒されている、という事になります。

人々の日々の行動が、通貨によって、目的と手段に切断されている経済では、そうならざるを得ません。しかし、その切断がなくなってなお、産業と社会構造は今のままでいられるでしょうか?

時間泥棒から時間 (心) を取り戻すとは、通貨から「交換可能性」という「信用」を一人一人に取り戻す事です。おのおの好きなことから、すべき事を見つけて、それに挑んでいくのが、脱・金融経済での私たちの姿です。

言い換えますと、24時間ある一日をどのように過ごすかの主権を取り戻す、となります。

これが脱・金融経済の一歩ですが、そのような事が可能になったのも、テクノロジーの進歩によります。「価値」は一例として、銀行抜きでも通貨というカタチを保持したまま循環させることが可能であることは、ビット・コインなどの暗号通貨 の登場によって既に明らかです。 (暗号通貨もその発行、例えばマイニングというやり方が自然なのかは後ほど考察いたします)

また、別の意味で「空間の不自由」は、世界中を移動することの手間とスピードの進歩によって、かなりの改善を見ています。19世紀と比べてください。今なら、3日あれば、大抵の所までいけます。江戸時代、3日ですと日本橋から東海道を下って箱根を超えられたでしょうか?

手にしたテクノロジーによれば人が自由であり得る経済を、金融経済と、それに寄り添ったピラミッド型に固定化された社会構造が、阻害しているのです。

■脱・金融経済。そして自然の一員としてのヒトの経済

通貨の発行が、生前から決められている「私たちの借 (国債・信用創造) 」ではなくなった途端、経済、つまり、価値の循環が社会構造改革を伴って、自然と一体化した経済と化すことは明らかです。もちろん、順番を間違えると大変なことにもなり得ますが、まず、銀行がなくなりますと、そうはなりません。そうして、千載一遇のチャンスはまもなくやってきそうです。

すなわち、国家債務が吹っ飛ぶ (国家デフォルト) というチャンスです。

それそのものが無価値(無目的) な通貨の存在自体が、自然経済と私たちの生産活動 (ヒトの経済) の一致を阻害していることは、過去記事にも記しましたとおりです。

実存在と接地していない唯の数字が無いと生きていけない、或いは、通貨の量に比して、交換可能性が果てしなく増殖して行くと設定された、金融経済が失われて尚、自然破壊と人殺しを好き好んで行う人間は、狂人しか思い浮かばないのですが如何でしょう? (もちろん、交換可能性という信用が、全ての個々人にとり戻してなお、そのようなことは出来るのか、という疑義にもなり得ます)

別の角度から言えば、私たちの経済が自然と接地していないから、私たちは自然の破壊と無関係でしかいられないのです。即ち、日常の生活 (経済活動)に於いて、自然破壊を止める事に無力なのです。そして、自然が壊れても、直接心身が痛むということもないのです。自覚症状のない大病の如く、このままでは、気づいたら、人は、自然の中で生きていく場所がなくなっているかもしれません。

もちろん、そのような危惧を「当たり前」として、本来あるべき人と自然の一体化した経済を肌感覚、或いは血肉として存分に理解し、そのような未来への模索をかねてから続けていらっしゃる優れた先人の一人に、例えば「北の大地の伝道者」とも呼ぶべき倉本聰先生 (いずれかならずご挨拶に参ります。是非お達者で) がおいでになります。

■「かのように」フリをする偽りの経済から人心を取り戻した経済へ

ピラミッド型社会も、金融経済も、ヒトを偽らせることで、成り立つ世界です。

過去記事の通り、貨幣制度を基幹にした金融経済とは、人の行為にお金が入り込む事で、目的と手段に行為を分断してしまう社会です。つまり、何事も「やりたい事」の前に、お金を稼がねばならず、すべきことができません。「やりたくもない」「すべき事でもない」事が仕事なのが「当たり前」とされている世界では、すべてがフリをする世界にならざるを得ません。もちろん、そうではない人も沢山いるでしょう。でも、それはそう教育されてしまっただけかもしれません。確認してみてください。貴方の本当にしたいことは何ですか?

今の教育システムは、子供の個性を見極め、本人の適性とやる気から、その子供がどのような方向性に進んでいけば、ほんとうに充実した生きがいを見つけて満足できる人生を歩んでいける (すべき事を見つけて、挑んでいける)のかという事を、まず無視して成り立っていますから、下手をすると、すべき事はおろか、自分の好きな事すら分からないまま社会に出てしまうといった悲劇がまかり通っています。

努力というのは、やりたくないことを我慢してやることではなく、やるべき事を見つけ出して、それに邁進することを言います。

教育で必要なのは、精神世界風に言い方を変えると、社会として子供を育てる中で、いかにして皆が「運命」を悟り「宿命」をつかんでいけるのか、です。

本来の人生の価値が、それら果敢なるチャレンジの中にしか見つかりようがないことは、歴史と文学という人智の宝庫に数え切れないほど豊富に積み上がっていて、それを人が知らない訳はないのです。

無論、現在の人類が置かれた斯様な蒙昧こそ、お金に幻惑される他はない金融経済の悲劇と言えるのです。

いずれにせよ、例えば、接客に於ける心と接地しない嘘笑いが成立する社会は嘘っぱちであるとの自覚がないのが社会の根本病理です。

一方、前段で述べましたように、そもそも役割を演じないといけないのが、ピラミッド型社会です。一部上場、もとい、プライム上場する大会社の社長ですら匿名の社長という役を演じさせられているに過ぎません。なので、会社を退職してしまうと「Nobody」と化して身の置き場所が分からないなどという現象が起きるのです。

善悪の判断を誤らせ、社会に悪、具体的には、犯罪と戦争が一向に無くならない根本の理由は、この偽りを大前提にした仕組みが変わらない故です。

お金のため、仕事のためという「便宜」を働かせる構造がある限り、社会から悪は無くなりようがないでしょう。要するに、人心に必ずある善によるコントロールがきかない構造が社会の基幹なのですから、「地球を救う」には、これを直ちに排除するしかないのです。

また、いつわりの人生では、ほんとうが手に入りようがありません。偽の切符で電車に乗れないのは当たり前だと知っている割に、その根本原理が人生に応用できることを知らない人が多すぎます。

幸福や充実感は、本物の中にしかありません

今の世の中を見回すと、嘘っぱちの偽物の人生の中でどうやって自分をごまかすかというテクニックばかりがあふれています。カルト宗教 しかり。 (だって本当の幸せへの道を示す弊社知見を潰そうとしているでしょう)

心と身体 (行為) が必ずしも一致していないのが当たり前である「ニセモノ」が、人生の幸せという「ほんもの」を手に入れようがありません。

すなわち、金融経済下のピラミッド社会では、誰も皆、自分自身で自分自身の人生を歩んでいません。今の仕組みの中で指摘すれば、まず、自分の名前を持たず、役割の中で生きておられる方は要注意です。

■価値と価格

金融経済では、金銭的価値という幻が世界を覆い尽くしています。要するに「獣の数字 (価格) 」というニセモノの価値によって、私たちは本物の価値とは何なのかかすら、分からなくなっています。

生きることが、通貨によって分断されていて、その向こうにある大きな意味(価値) の本質が見えません。

今の経済システムでは、生きることが金を稼ぐことと同義になっています。生きることの第一目的として君臨する通貨自体には何らの価値はありません。にもかかわらず、私たちに属してる筈の「人としての価値」に意味は無く、「獣の数字 (値段)こそが全ての価値」であると主張します。そしてその通り、金融経済においては、その価値基準こそが絶対として、価値の循環、つまり経済を実際に担っています。この世界での価値基準とは金融経済の決定した、数の多寡という独善的価値基準です。しかし、質を量ではかることなどできない事は、過去記事にて検証致しました。

本来、経済的価値は、信用として自分自身に属するものです。銀行の決定する返済可能性 (数字は人間) が、人の価値 ( = 信用) ではありません。

金融の決定する「人としての価値 (所有する通貨の量 = 融資可能な額 = 返済可能性 or 労働対価)」の支配する今の世界は、本来の人の価値とは無関係なニセモノの価値観に支配された経済です。

現行の経済では、ヒトの行為と信用 = 交換可能性が、無関係であることに問題があると言い換えることも出来ます。

行為は人間性と直結しますが、それとは無関係に交換可能性 ( = 財産) が増えればどうなるか、世界中のニュースを見れば分かります。あらゆる不幸なニュースの遠因は、すべて「この問題」に帰結します。

通貨の独占する交換可能を取り戻し、一人一人に宿る私たち自身の信用としなくてはなりません。時間、即ち心を取り戻すのです。人の経済は、相手を信用して価値を差し出すのが本質です。目の前の交換ではなく、巡り巡っての贈与です。数値化され得ない価値の相互贈与の連鎖であるのが、自然な経済の仕組みです。

金融経済では、信用の宿る個々の人間性と、経済が無関係である事が、大問題なのです。そして、無関係である理由は、経済に於いて、人間性が問われない構造を有しているからです。

貨幣経済に於いて人としての価値として問われるのは、人間性ではなく、返済可能性です。そして、返済可能性として求められる価値とは、結局は通貨の量(数字)なのです。もし金融 ( =貨幣) 経済が価値の循環を主張するのであれば、銀行が問うべきなのは、返済可能性(担保)ではなく、善意という人間性を含めての価値創造の可能性でなくては、論理的につじつまが合いません。

それ以前に、なぜ、通貨という名の価値の創造と、通貨と交換可能な価値の選別を銀行が決めることになっているのでしょうか?

結果、ここまで述べてきましたように、通貨それ自体が、なんらの価値と接地していないのです。

■価値と無関係な通貨、価格そして売買

本質的なヒトの価値創造性と、通貨の主張する価値が無関係なのが問題です。

結果、ヒトの世界では価値が二重構造になっています。価値のダブルスタンダードであることが状態であることが全ての問題の根源とも言い得ますが、これは、ポスト・金融経済での新しい通貨システムにおいて解決可能であることを後段で考察いたします。

価値と通貨が接地していなければ、ヒトによって創造された新しい価値が通貨として循環する余地はありません。地球はいつまでたっても、通貨の言う銀行の価値観から抜け出すことが出来ません。

そして、そのような現在の世界こそ、通貨に信用と交換可能性の宿る本来の価値を奪われた、自由のない世界というわけです。

再度申し上げますが、どうして価値のなんたるかを銀行に決められなくては、経済が回らないのでしょうか?

価値は売買とは無関係です。

「獣の数字」こそ自然と一体化したヒトの経済から排除しなければなりません。数値化され得ない本来の価値とは価格とは無縁です。

自然を見てみましょう。花は咲くのが価値です。しかし、今の経済では、花の価値は花屋で売られないと価値としての意味を成しません。

今の経済で、価値は万事このように決定されています。

この仕組みが間違っています。

買い手がつくまで、何を価値創造しても価値として機能しない、という現状の仕組みを変えなくてはどうにもなりません。

価値は売買とまったく無関係であるにも関わらず、人の経済に於いて生産した価値は、他者に買って貰うまで通貨という価値の代替機能 (生きるために必要な他者の価値との交換可能性) が手に入らない事が問題であり、端的に間違いのポイントです。

自然の中に不要なものはない という台詞は 南方熊楠 の言葉であったそうですが、そのとおり、ヒトの生きて行う行為はそれ自体価値と呼べるものであり、買い手のつかない生産行為は (貨幣) 価値がないという、今の経済の仕組みの変換が求められているのです。

なら、毎日寝て暮らす人間に価値があるのか、という疑問はずいぶんと今の価値観に本来の価値観をゆがめられていると思います。

信用という交換可能性が全ての人に属してもなお、何もしないで寝て暮らせるのであれば、その人は毎日寝て暮らしてなお価値を生産していることの証に他なりません。ポスト金融経済とは、そうでなければ寝て暮らせることができないという世界でもあるのです。

前段でも少し触れましたが、ヒトの価値とは何か、今の経済を脱すれば自ずと明らかになってくる事と推測しております。今の経済の仕組みの中で言えば、仮に無限に金があった場合、ヒトは何をするべきかという問いに繋がりそうです。もちろん、利他的行為の他何も思いつきません。そして脱・金融経済ではその具体的内容が問われていくのです。

■中央銀行の傲慢な立ち位置

例えば、日本銀行は日本国憲法の外に存在しています。では、中央銀行という権力機関をコントールする力はどこにあるのでしょうか?

日銀法の成り立つ前提の、経済 (価値の循環) には法定通貨が介在しなければならず、法定通貨の存在を大前提として社会の全てが成立するという仕組みを決めたのは誰でしょうか? 議会?

私たちの住む世界は、民主主義の絶対を謳うわりに、通貨の発行と流通という大事にまったく民意が反映されないという 仕組み になっています。それ以前に通貨経済に対してまったく疑問に思わない事が「当たり前」になっています。是非、この意味をお考え下さい。

■価値の循環が自然とは逆向きになっている貨幣経済

ここでまた、金融経済を線形代数的に喩えてみます。すると、外れ値 b が社会奉仕活動 (善行) という位置づけになっているのが分かります。

y = 経済的利益 の為の効率的な規格 x と結びつくための私たちヒトも規格(マニュアル) 化を求められていて、規格化され得ない優しさ、人間らしさは、規格外にしかなり得ません。

しかし、善行 (ヒトらしい優しさ) を経済活動に包摂しなければ、社会が恒常的に良くなりようがないのです。そして、一人一人に宿るヒューマニティこそ、価値や信用の本質でしょう。

繰り返しますが、今の経済では、ヒトは信用に、何を問われますか?

銀行に行って融資を頼んでみれば、分かります。担保だけです。担保とはすでに銀行の価値観 (未来予測) に基づく交換可能性 (返済可能性) がある金銭と交換可能な別のカタチの資産 (価値) です。この自己言及的経済は既に構造としてパラドクスであり、何れの崩壊は約束されたシステムなのです。エッシャーの絵 のような自然法則に反した金融経済は、システムの崩壊・破綻を避けるために、貸し出した相手から価値 (命・生きることそれ自体 = 未来・自由) を奪い続けるということを行っています。

円環構造でなければありえない経済の仕組みが、無限を前提にした直線構造を基幹にした今の経済では、その矛盾を解消するために人々から自由と未来を奪うということをしているのです。

そして、今の社会で人はあらかじめ、道徳や哲学・思想を語る以前に、分裂せざるを得ません。金を稼ぐための自分 (獣の刻印を押された自分と、金銭とは無関係の自分です。もちろん、「獣の刻印を押された」自分は「ニセモノ」に相違ありません。そして、金融経済の参加資格は、人間性 (ヒューマニティ) を失って得られるからこそ「獣の刻印」という名前なのです。

信用に直結する価値、具体的に、人間性とは何でしょう。ポスト金融経済では、この点を模索することになるでしょう。青山真治監督も映画「EUREKA」で問うておられましたが、おそらくは利他の心に関わることかと思われます。

ひとつ、具体的な例を挙げましょう。

今の金融経済で、贈与 (又は寄付) はコスト (損益) です。与えることが利益として計上され得ない時点で、今の経済は贈与の循環で回っている自然 (じねん) の仕組みから逸脱しているのです。これは 税務上の控除 といった、つじつま合わせで解決できるような問題ではなく、価値が循環する向きに関しての根本的な絶対的欠陥です。

人間性とは真逆の仕組みが、人を幸せにするわけがありません。善意、すなわち有形無形の贈与が損益であると定義される経済が、人を幸福にするはずがないのです。

此処まで進めてきた考察に、強烈な違和感を感じることは、間違いなさそうです。そして、それこそが「当たり前」の力です。論理的にあり得ないこと、おかしな事であっても、それが「当たり前」であると思っていた事には違和感を全く感じません。反対に、正しいことであっても、それが「当たり前」でなければ、あたかも間違っているかの如くに感じてしまいます。しかし、立ち止まって、その違和感の大本を探ってみると、貨幣経済 (金融経済)の「当たり前」には、まず「当たり前」以上の論理的根拠が皆無であることに気づくのです。そのことが、過去記事と今回記事で明らかにされました。

贈与は減るばかりではないか。いいえ。贈与されたら増えます。贈与経済では、持ち前の才覚から何かが減る事はありませんが、それでも増えないとしたら、貴方が、贈与して貰えないからに過ぎません。つまり、贈与経済においては、必然的にヒューマニティが経済に組み込まれることに相成るのです。

では、手始めに、どうすれば良いか。簡単に申し上げますと、ただ、逆向きに回る (奪うことで成り立つ) 今の経済をやめてしまえばいいのです。

人間性を失うことは、動物である人間には、本来なら出来ません。猫が猫性を失うのが難しいのと同じです。非人間的経済で暮らさざるを得ない私たちは、すると、嘘笑いするしかなくなります。セルフ・マインドコントロールから、究極はカルトの得意な洗脳まで幅は広いですが、全ては如何に自分を偽るかです。

そんな贋物の経済・社会で、わたしたちが本物の幸せを手に入れることは出来ません。

と、

命を賭して、人類史上初めて意識の奥から真理を言葉にして持ち帰った人間が言うのですから、間違いはありません。

人間性と無関係な経済が、自然と人を破壊尽くす狂気と化すのは必然でしょう。

金融経済を脱して、ピラミッド型社会をやめることでしか、世界は正気を取り戻せないのです。

■規格と自由、血縁と能力主義

すべてが、対立事象で成り立つ世界の境界に、ヒトたる私たちが生活しています。

規格 (機械論) と自由 (自由意志) もどちらが正しいというわけではなく、両方の働きによって宇宙は動いています。

物質と非物質 ( ⊃ 心) も、両方を理解してこそ宇宙の全てが判然とします。今の科学は物質と機械論という一方の仕組みでしか世界を解釈できていません。 (そして、波動というものの扱いに困惑したままです)

コンピューター科学もそうです。言語と非言語が知能であるにもかかわらず、現状の機械工学は言語しか扱えません。さらにはその言語も、文法と非文法 (比喩) という相対する機能によって働いていますが、今の人工知能には言語の文法機能しか備わっていません。

社会構造の問題も、結局はこの対義的理解のどちらかではなく、いかに両者のバランスをとるかにかかっています。

未来予測について、社会構造の規格と非規格については前段で述べましたが、一方、血縁主義 (国体勢力) と能力主義 ( ≒ グノーシス派) についても同じです。

つまり、能力主義を極めると、家族、親子の絆は崩壊します。能力主義は、要するに、無能な子供は家族から排除することが正しいとする考え方に行き着きます。これは自然の摂理と矛盾して結局は人の生活を脅かすことに繋がります。金融経済と同じで「考え」と現実が接地しなくなってしまうからです。

片や、社会を血縁主義で固めれば、社会が劣化することは述べるまでもありません。適材適所が及ばない社会が破綻するのも理です。

すべては、それら対立事象の境界たる私たちが、智慧と経験を持ってバランスよく生きることにかかっているのです。

東洋と西洋、ロゴスとミュトス、カオスとコスモス、資本主義と共産主義も、両者一対としてバランスよく (単純な調和ではなく) 対位・共存することが全ての幸せに繋がります。そのことが、存在の方程式から明らかになりました。

この真理によれば、すべて存在は不可分で、何一つ独立して在るものはありません。要するに敵 (非A) と認識されうる別個体を傷つける事は、すなわち自らを破壊に至らせることと同じであるというのが宇宙の理なのです。

持続可能性の問題も、自然 (非A) を破壊して人類 (A) の生存もあり得ないという理屈なのです。「地」なくして「図」はあり得ません。そしてその両者の境界にいて、バランスをとる役目を負っているのが言語・非言語による知恵を持っているはずの私たちヒト、人類という塩梅になります。

存在の方程式とは「情けは人のためならず」という故事を、物理に翻訳しただけのものでもあります。

人為と機械論の協調が、例えば哺乳類においてどのように顕現しているかは誰もが知る事実しょう。

子を授かろうとするのは両性の意志によった人為ですが、その後赤子を授かるまでの流れはラプラスの悪魔の仕業に依るのです。

■あおいのきせき という奇跡

空間と時間の自由をあまねく全ての人が取り戻し、偽りのない自分自身の人生を歩んでいく事が「あおいのきせき」と言えるでしょう。

■次の経済で循環する価値 - ポスト・マネー -

週間原田武夫の最新号で、スイス、チューリッヒで行われたつい最近の会合の内容が語られているようです。資金不足の為、内容の確認は出来ておりませんが、フィンテックと通貨について、といった内容であることははっきりしているようです。

正直、それについて、現段階で何か具体的な計画があるとは思ってもみませんでしたが、今回の弊社記事と内容が相等接地した会議であった様子がうかがえます。

中央銀行とその周縁組織では法定通貨のあり方が問われていて、次の仕組みをどうするかについて話し合われていたとすれば、今回記事と無関係であるはずはないのですが、そこで此処から法定通貨に代わって循環する通貨(価値)について、彼らとは関係なく、多少具体的に考えてみたいと思います。

なお、ここから先の推測は、IISIAの見解とは別である事を申し上げておきます。

■経済で循環させるべき価値とは何か

後段でも更に指摘され得る多くの問題を抱えた法定通貨に代わって循環させる通貨とは何か、ここまでお読みいただいた方であれば、おおよその見当がつくかと思います。

大自然と無関係ではありえない経済のために出来ることと言えば、循環する価値が自然を破壊するはずのない価値と、イコールの通貨でなくてはなりません。

加えまして、循環する価値が、銀行から貸与された現状の (信用という交換可能性を独占しただけでそれ自体は無価値な) 法定通貨とは異なり、使う人そのものの価値と等しく接続した通貨であるはずです。

即ち、ヒトの創造性そのものという価値であり得る、今の通貨とは異なるかたちの通貨となります。

別の言い方をしますと、交換可能性が指向性を有した、無目的ではない、善悪の判断の付帯した通貨ということになります。

そしてそれは、経済を担う一人一人の信用の度合いが、交換可能性能と比例した通貨になるはずです。

信用と価値創造性の等しく接地した通貨なら、交換可能性能とも等しく接地します。

比喩的に考えますと、人間性が交換可能性能と直結した通貨が担う経済で、最も「リッチ」になるのは (もしかすると上位に食い込まれるかもしれませんが) イーロン・マスク氏ではなく、イエス・キリストかお釈迦様、もしくはムハンマド師らになるかと想像いたします。

しかし現実に彼らは存命ではありませんし、次の経済では、まずおそらく貧富の差は減少します。

■価値の保蔵機能の削除

次世代の通貨からは、価値の保蔵機能が、原田武夫氏のかねてからの考察の通り、なくなると考えられます。

貧富の差とは即ち保蔵された通貨 (と交換可能な資産) の多寡を意味するので、通貨に保蔵機能がなくなれば、自ずと貧富の差は無くなると考えるのが妥当でしょう。

しかし、保蔵機能がない通貨であっても、時間的にも空間的にも普遍的な価値を創造する事が出来れば、継続して通貨を生んでいくことになり得ます。又は、そのような価値を次々に創造していけば、それに伴って貯めることの出来ない通貨の 信用 = 交換(可能)性能 は増していきます。

ここで、通貨とは、使う際だけにしか必要が無い事を思い出して下さい。

つまり、必要ならどのような金額でも、必要なだけ、支払時に通貨の即時発行がなされる、という事が、保蔵機能が無くなるということの実際の意味です。

現状の経済下で常識的に考えて、通貨はなぜ、保蔵する (蓄える) 必要があるのでしょうか? それは将来の支払いに備える必要があるからです。将来どれだけの価値を通貨と交換する必要があるのか算段がつかないから、大は小を兼ねるという意味で、通貨を蓄える必要があるのです。

しかし、その心配がなくなるとしたら、自ずと価値の保蔵機能は削除されることになります。

この仕組みを言い換えますと、貧富の差が価値創造力の差に直結するので、まったく公平なシステムです。

問題は、「支払い」の中身です。

生きることに最低限必要な衣食住に関連した物事であるのは当然として、その他には大自然と直結した利他的な行為・作業ということになりそうですが、基本、自分がいいと思ったことなら何でも可能なはずです。必要な通貨を用意することの判断、つまり、創造したいと思う (又は創造した) 物事に対しての価値判断は、銀行といった他者ではなく、自分自身によって成されるからです。

すると、支払いの中身は何だってかまわないという事になりそうです。

ただし、発行された通貨そのものは無価値であり、信用もありません。通貨の信用は、その通貨を使うことの可能な本人にしか属していない点に留意が必要です。

■信用と交換可能性を通貨からヒトに取り戻す

これが信用が通貨と等しく接地した経済の基本になります。

今の通貨の信用は、国債と各種ローンの請負先に返済可能性が担保されるという信用にしかすぎず、「お金を使う主体」の信用 (行為に対する善の担保) とはまったく無関係であるという点が、経済で善悪が問われない結果に繋がっています。

法や倫理的な規制はあるとしても、構造として、マネーを増やす手段が問われることはなく、戦争経済や犯罪のなくならない理由は、この点にあります。

この問題を解決すれば、信用と交換可能性は等値ですから、経済が、ヒトの価値判断と直結することになるのです。大自然を守り、かつ破綻しないような経済は、こうするより、まず道はありません。

通貨の発行主体が価値の創造者と等しくあることで、通貨は、その価値と等しい意味を持った交換可能性能を持って経済の循環を担うことが出来るようになります。

現状の通貨そのものは、通貨の授受に関わる人間の行為・価値判断に関与しません。繰り返しになりますが、信用が通貨自体に属しているからです。

価値とは何か、については後ほど再び考察いたしますが、通貨によって行われる行為 (活動) が、善悪や、思想哲学としての価値判断とは無関係であることが問題なのです。

例えば、一般的に、ビルを建てても壊しても、結果として価値が認められるのが現行の通貨システムです。反対に、ビルを壊すことにも建てることにも価値が認められないこともあるのが、今の仕組みで起こります。

要するに、通貨の交換可能性が無方向であることが原因なのですが、これは通貨の発行と流通の仕組みを変え、経済活動に関わる人の価値判断が通貨に接地することで回避できます。

後ほどもう少し詳しく考察いたしますが、具体的には、価値を創造する (した) 人の発行する、保蔵の効かないブロックチェーン上の暗号通貨を使い、国債と信用創造による借金経済をやめることで解決いたします。

すると、戦争が儲かる (戦争で経済が回る) 事もなくなります。悪をなすことが利益を棄損することになるからです。悪は儲からないのです。信用と交換可能性能が人に属した経済では、利益が人の幸福度と直結した仕組みとなります。つまり、善が儲かることになります。

■国債に担保された信用とは

今の通貨の信用とは、借りた通貨の返済可能性についての信用の意味です。

国債、という国が中央銀行に負った借金が、そのまま通貨の信用ということです。

つまり、国が、中央銀行に借りただけの通貨、と等しい、と銀行の認めた価値を、中央銀行に返済してくれます、という信用にすぎません。信用創造の信用も、借り手が諸個人になり、貸し手が諸銀行になるだけで、中身は同じです。

現行の経済の信用という言葉は、本来の信用の語義をスライドさせるというトリックを使っています。

信用の本来意味は、価値に対する信用です。今回記事でも考察いたしましたように紙幣は紙です。紙になぜ紙の主張するけの価値があるか、疑わないことの信用です。

通貨の信用は、国民に私有された通貨を含めた資産の担保によります。

ざっくり、語義矛盾を承知でわかりやすく言えば、経済を担う紙のお金に価値という意味があるのは、あなたの紙のお金に信用があるからです。

国の借金は政府の借金ですが、法的に、政府は国民の代理です。なので政府の借金は国民全員の普遍的な負債です。すると、通貨の信用はあなたの資産が担保という理屈になります。

これは完全に 自己言及のパラドクス に陥ります。

このような仕組みの経済は、自分で自分を食べていくウロボロスと同じで、何れ食べ尽くして無くなってしまうのが必然です。実際、中央銀行と関係を結んだ国家のなれの果てがどうなったか、世界史を見れば分かります。食べて、食べ尽くして、やり直し (例えば戦争経済へ持ち込む) の繰り返しです。

このあたりで、この自己言及から離脱しないと、通貨金融経済が、地球ごと食べ尽くしていまいます。(そこまで来てますね)

■銀行の価値と 非 (銀行の価値)

国債に担保された通貨経済では、通貨と、通貨を使う人々のヒトとしての信用が接地していません。

つまり、通貨の信用 (価値) を保証しているのは、前段で解説いたしましたように、通貨と交換可能だ、と、通貨の発行主体 (銀行) が判断した価値だけです。

銀行 (と、その判断に基づく市場) の認める以外のあらゆる価値が、通貨の循環に依存した経済において、価値とは認められず省かれている故、それらが片っ端から破壊されていくのです。

そう、例えば GoogleMap の緑色の場所に自生する豊かな大自然です。

現行の経済を担う通貨の信用は、銀行の認める価値以外の価値とまったく接地していない、自己言及的価値循環にしかなりえていない、という考察は前段の通りです。

後ほど再度述べますが、これこそ人類社会が 価値の二重構造に喘ぐことになっている原因箇所です。

自然の価値循環と接地した正常な (ダブル・スタンダードではない) 経済であれば「信用ならないお金持ち」は存在しようが無いのです。

先走って回答すれば、銀行は、あらゆる普遍的価値を選り好みせず、すべて価値と認めるほか解決策はありません。すると、全てに価値が有るとは、すなわち、全てに価値がないのと同義ですから、法定通貨から信用と交換可能性が失われることになります。

ここまで考察して、なぜ現行の経済が自然を壊したり、人を不幸にするのかか、ようやく分かります。

要するに、例えば、緑を守ることや、人に優しくすることや、子供を育てることに関わる物事全てが、所謂経済の価値として省かれているからです。

それらが価値として経済に含有されずにいるのですから、それらの無価値 (通貨経済と接地していない価値) はいくら棄損してもかまわないという結論になります。

それどころか、それらを「食い物」にしていけば、益々経済が発展していく仕組みになっています。なので、根本からその仕組みを改める必要があるのです。

■不平等を前提にした経済・値段のついた価値

現行経済の仕組みでは格差が不可避になります。つまり貧富の差は、上の問題を抱えた通貨経済では、どんな社会構造にしたとしても、解決しません。格差、つまり貧富の差がシステムに内包されているからです。

実は、それ自体は問題ではありません。貧富が 人の幸福度 と接地連動していないことが問題なのです。

或いは貧富の差が生活の不具合に接地連動してしまっていることが問題なのです。

そうなってしまうのは、前段で考察しましたように、借金を担保にした銀行による、価値の取捨と格付けを前提に経済が回っているからです。

言い換えますと、現行の経済の定義する利益と、値段 (市場価値) という価値(判断)が、人類に必要な価値とは全く関係が無い、ということが問題なのです。故に、人類の幸福に繋がる価値の創造と、実際の経済の発展が一致していません。

人類の幸福に繋がる価値の創造が利益であると定義すれば、経済の発展がすなわち人類の幸福の普及と等式で結べます。

お金 (価値) を増やすことが、なぜ人類全体の幸福度に貢献する価値創造力と無関係なのかを考えると、やはり価値の創造と接地した通貨システムが必要であると簡単に分かります。

通貨の発行と流通の仕組に、価値創造の信賞必罰がなされない原因があることは、前段でも指摘いたしました。ここを直せばいいのです。

つまり信用を人に取り戻すのです。

■大自然と接続した経済は利他的な経済

ところで、マネーに縛られることのなくなった世界 (なんらの価値と接地しない通貨に信用のなくなった世界) で、ヒトは必ず利他に向かうことは間違いないでしょう。奪う必要がなく、与えることで循環する経済が前提とされているからです。

すると、生きるのが精一杯の方々をみんなで支えることが価値に直結します。言い換えますと、誰しも自身が生きることすらの価値を創造する義務を負いません。通貨の価値が利他でしかあり得ないことで、社会保障・福祉が経済に内包されるのです。

価値の循環のベクトルについては前段でも何度か指摘いたしましたが、自然と一体化した経済では「貸した価値を返してもらう」ことで循環する今の経済の向きを糺すことになります。すると価値の向かう先は反転して「価値を差し出す」こと、すなわち利他によって経済が回りだします。

今の経済が利己的なのは当たり前です。主語が「自分」なのですから。貸した価値を「自分」に返してもらう経済で、贈与が損益なのは当然でしょう。しかし、それがなくなると、価値は他者に向かって回り出します。

これが、贈与が損益ではなく、利益となる世界の実際です。

ところで「悪いやつ」が「悪いこと」をして生きていけるのも、過去記事で考察いたしましたように、生きるために必要な価値の交換可能性に直結する信用が「悪いやつ」には属せず、通貨に属しているからに他なりません。すなわち、通貨に信用と交換可能性がなくなって、全ての人々に取り戻されれば、「悪いやつ」は信用を失い、誰とも価値の交換(相互贈与)が行えません。つまり価値の交換可能性が失墜します。今の「概念」で言いますと、「悪いやつ」は「お金が無くなる」事になります。

■売買とは無関係に価値を手に入れるには

ベーシック・インカムも、次の経済で新たな文脈を手にします。BIの本来の意味は、生きるために最低限必要な支払いは、無限に行うことが可能になるということです。もちろん、相手がその価値を認めて支払われる通貨の価値を認めてくれる限りに於いてですが、基本利他こそ価値ですから、「普通に」生活する事に、何ら不都合はないはずです。他者が生きることを否定するヒトはまずいないでしょう。相互贈与社会の基本原理は「お互い様」です。これも真理に沿った社会様式と言うことになりそうです。

ただ一点。

いまの国債と信用創造に由来した通貨を前提にBIを考えたら、上手くいかないに決まっています。BIは、通貨の発行と流通の仕組みを変える事と併せて考えて、ようやくその意義が発揮されうるのです。

価値は価値を生んだ人自身のものですから、国民の負債を担保にして発行された通貨を貸してもらうことで循環している今の経済の中で、そのような通貨をただ配る、という仕組ではうまくいきません。しかも、その通貨を使えば、何故か利子を含めた返済義務を社会全体で負う羽目になるのです。

■奴隷解放の中身

自分の興味と役割に接地しないあらゆる「経済活動」がなくなった社会を大前提にした考察であることを、是非、失念しないで下さい。すると一体、どれくらい「必要の無い」或いは「保有する通貨の量の最大化だけを目的にした」商いがなくなるか。その空いた人材が利他へ向かうことになります。

生きる為に必要な価値 (衣食住) を通貨が担保することの可能になった経済において、人は、その為の不本意な「労働」ならする必要がなくなるからです。

結果、この経済では、食うに困らない人しかいなくなる、ということです。

過去記事 で詳しく考察いたしましたが、価値の創造と循環において、現行の通貨経済の何が問題かと言えば、生んだ価値に交換可能性がない、ということなのです。つまり、いかなる価値を生もうとも「売れる」まで、価値は価値としての意味をなしません。価値が他の価値と交換できなければ、価値として機能しないという「当たり前」のせいで、通貨がないと食べ物も手に入らない、という結果になっています。

価値の交換を前提にした経済は端的に間違っているとも言い得ます。対して贈与経済は見返りを前提にしません。

脱・金融経済では、収支という考えに支配されないシステムが希求されています。

交換を前提にした経済では、生きること自体が価値の創造であるという本来に対してさえ、まず価値を差し出さなければ、生きていけません。大抵が「労働」を差し出し、対価として通貨を得ることで経済が回ります。

通貨をまず手にしなければ、最低限の衣食住すらを満たすことすらが出来ないことが大問題なのです。

言い換えますと、生存権が経済によって自然に担保され得ない原因が、通貨の発行と流通にある、ということです。

視点を変えれば、価値は、通貨を介在させることの他、生きるために最低限必要な価値すら手に入れることが出来ない所に問題がある、と言い得ます。

価値の交換可能性が私たちにはなく、法定通貨に独占されている結果、そのようなことになっています。であれば、価値の交換可能性を人に取り戻せば良いという事なのです。

このような問題を解決するために、生きるための対価を、ベーシック・インカムでまかなえるとしたら、空いた時間で、ヒトの価値創造力が増加すると考えられます。つまり、本来の意味で、経済 (価値の創造と循環) は発展します。

時間が心であり、心に信用という価値が宿ることについての考察は、過去記事 に当たって頂たいと思いますが、要するに、お金の為に仕方なくしていることならしなくて良くなる点が、ポスト金融経済の肝です。繰り返しますが、お金の対価として労働時間を差し出す必要が、ポスト金融経済ではなくなります。

生きるためにはまずお金を稼がないと始まらない、という今の社会の大前提(あたりまえ) は、通貨の発行と流通の仕組みを変えれば、直ぐにでも外すことが可能です。

借金ではじまる通貨の仕組みを、価値創造と接地した通貨の即時発行に変え、中央銀行以下、銀行主体の市場価値を排することで解決致します。

まず、経済・社会の全てが「借金を返す」ことを大前提に構築されています。通貨の発行の仕組みが国家を担保にした借金経済を前提に全てが決定されている故にそうなっています。贈与経済の別義とは、この理不尽の解消です。

思考実験として、一人の人間が生まれた時から、自力で生きる事を考えてみて下さい。もちろんお金が必要ですが、裸一貫で生まれてきて、お金の持ち合わせはありません。すると他者からの贈与を想定しなければ、人生は借金から始まるしかありません。この仕組みがおかしいと思えないとしたら、ずいぶんと認知が歪んでいます。もちろん、贈与されるところからスタートするのが正しいのです。実際、赤ん坊は母親の乳を贈与されるのが自然の摂理です。経済は、この自然の価値循環を正確にトレースする必要があります。

ところで乳はどこから生まれてきたのでしょう? 銀行から借りたのでしょうか? そのとおりです。ですから母親は出した分の乳を利子を添えて銀行に返さないとなりません。

馬鹿げた喩えに聞こえるかもしれませんが、今の経済はこれを本当にやっているのです。

国も自治体も、この問題を解決しようと頑張ってはいますが、問題の核心に手をつけないで表向きのお為ごかしだけでは、いつまでたっても問題は解決しません。

後段でも繰り返しますが、価値の創造と、借金は無関係であるにもかかわらず、通貨システムの根本原理として、それを収支として無理矢理関係させていることから、全てがおかしくなっているのです。

前段で考察いたしましたように、通貨は、支払時に即時発行することができれば、借金経済は解消して、経済の向きも反転します。

すると、労働と仕事と役割といった概念の中身が整理されることになります。生まれてから死ぬまで何をするか、お金に振り回される必要が無い経済  (社会) になるからです。

あらゆる産業から、仕方なく働いている「奴隷」が一斉に解放されていきます。後はご自身でよく考えてみて下さい。ご自身も「奴隷」であったことに気づかれると同時に、他の人をマネーの力で使役させている「奴隷商人」
でもあったことにも、おそらく、お気づきになられるでしょう。

ここにおいて、ようやく、大量生産・大量消費の経済が終了することになります。すると、経済効率の定義が変わったということですから、都市の一極集中も解消して、人口も分散されていきます。

ここからは相互贈与の世界での民主主義が活躍しそうです。矢張り、社会インフラに使役する役割は、お互いに解決するほかはなく、すると社会システムの不要部位がはっきりして、そこが無くなっていくことでしょう。

これこそ ダウン・サイジング社会 の様相の肝になります。

そこでは、24時間という一日の時間が、すべてのヒトに取り戻されていることをお忘れ無く。逆に、衣食住を回すインフラの保守・開発以外、ヒトの社会で絶対にしなければならないことは何か、なかなか思いつかないのですけれども。そして、あらゆる人が 生きがい を感じる事しかしなくなった世界では、利他こそが循環に値する価値である、と多くの人が気づいていくのでしょう。

そうして、次世代の経済で生産される価値は、価格やコストなど市場原理とは無関係になります。

要するに「安かろう悪かろう」とか「必要ないけど儲かるために価値化した」とか「本当はこっちの方が価値があるけど、儲からないからこっちを価値化する」といった市場経済主義あるあるが一掃されて、経済を巡る価値に究極の品質向上が見られます。

経済的価値というものがなくなれば、残るのは、創造される物事本来の価値だけです。生産される価値はホンモノだけになってく筈です。

その際には、時間が空間から取り戻される、すなわち時間と価値を掛け合わせて利益の増収を図るという概念もなくなりますから、時間に余裕をもった経済活動 (生活) がおくれるようになります。

食パンを咥えて通学路を走る必要はもうありません。

併せて、既存の仕事は、したいことをしている人のついている職種以外、淘汰されていきます。あなたの仕事は、そもそも、AIに奪われる以前に、残っていくでしょうか?

■ベーシック・インカムの本意

前提となる、通貨の発行の仕組みについて、前段でも考察いたしましたように、売買を伴わない価値という本来を考えた場合、ベーシック・インカムにも正統なナラティブが与えられる事になります。ヒトも花が咲くのと同じ、生きること自体が価値であるという訳です。どんな命も創造を伴わずに生きることはできません。ひっくり返して眺めれば、一輪の花が咲いていけるのは、その花に非ずの全てから、生きるために必要な価値をその花が貰っているからに他ならないのです。

するとBIは、通貨という価値の発行から考え直さないといけません。

生きることに必要な対価は、銀行から借りる、又は他者に労働と交換する事では全くないからです。

しかし、そもそも対価とは何でしょう。母親は乳の対価を求めて赤子の面倒を見るのでしょうか? そのような発想そのものが、返済を義務づけられた貸与という考え方なのです。

貸与・対価と言う概念は無くさないといけません。贈与経済にそぐわない考えです。

一人一人が価値であることを社会が認める、ということを貨幣経済として、通貨の発行の仕組みを構築しなければなりません。すると、誰しもが使う際に無限の支払いが可能である、という仕組みに出来るブロック・チェーン技術を使えば、最適解が得られることになります。(この点は後段で考察いたします)

BIによる通貨発行の仕組みは、国債と信用創造と無関係な経済に直結する話でもあります。

そして、この結果。奴隷の解放が完了します。

■生きることに不備がなくなった社会

死なないこと以上の価値創造性に関して考えれば、今の当たり前である月払いの給与のごとく、生きている間中、同質の価値を定期的に創造可能だと考えることの方がどうかしています。むしろそのようなかたちで価値を生むことができる、と社会設定する方が無茶です。

極端な話100年間生きるほか何もしなかったヒトが、死の直前、無から有を生んで(思いついて)あらゆる人の幸せに貢献する何かを生み出すこともあり得るからです。

もう一つ、価値を考える場合、利便性、効率性、合目性、普遍性、或いは、希少性、斉一性、再現性、交換可能性 ..といったわかりやすい、所謂、言語、特にロジックによって可視化可能な価値とは違った価値も、同等に価値として存在し得ることを絶対に忘れてはならないでしょう。

価値は、非言語や非文法として見えないかたちでも偏在して在るからです。

つまり、人としての優しさや、他者 (人に限らず) に対しての思いやり、つまり共感する力、愛情といった、肯定的非空間存在も、経済に含ませるべき価値である、ということです。

それらを含めたすへてが価値たり得ることを認めれば、ヒトが必要とする、あらゆる可能であることが可能な生活を、世界が担保することの可能な経済であることが、必要なのです。

重ねて申し上げますが、このあたりの状況判断を現在の社会規範によっていると、みあやまります。あらゆる価値判断は、市場原理がなくなりますので、すべての個人に取り戻されます。

使役から解放された自由の中で、自らと他者の衣食住に直結した行為のみが可能になった上で、ヒトは何を創造するかの答えを探すのが人類の次の課題です。 (勿論、世界中を其処へ手配する仕事は沢山あり得ます。未だ、水や食糧の不足に困窮している場所は沢山ありそうですから)

■クラウドファンディングの本来

ポスト金融経済の世界とは、行為と心が繋がった、マニュアル (心身の自動運転) が廃絶された世界です。信用が通貨から取り戻された世界とは、マネーの力では何もできない世界です。あなたが何かしようと思ったら、自力で協力者をつのり、その中で出来ることしかできません。つまり、それこそ信用が個人に取り戻された本来の世界のありようです。信用がなければ、誰もその事業に賛同はしてくれないでしょう。逆に、賛同されることが信用の本意です。価値があると思うから信用するのです。

そしてこれこそ「信用 = 通貨」であることの本来のかたちです。

クラウドファンディングの登場も、ようやく本来の意義が理解できることになります。

すべきことが見つかれば、集めることになるのは、お金ではなく、協力者です。

大規模な事業には大量のマネーが必要です。新経済下では、このことの本来のかたちが取り戻されると考えれば、その意味も分かります。

つまり、大規模な事業には、それに必要とされるだけの人員が、無償で (労力を贈与して貰えるだけの) 協力が得られる程の信用が必要になる、ということです。

これほど「公共事業」が民主的なシステムはありませんよね。というか、この仕組みの中での事業は、ほぼ全て公的なものになります。

■通貨価値の本尊である信用

通貨経済の課題解決とは、通貨の担う信用とは何かを真剣に考えることでもあります。現行経済に於けるこの問題は、前段で指摘したとおりですが、次世代の経済では、信用についての合意が模索されるでしょう。ただし、統一する必要はありません。むしろそれは有害です。というか、今の通貨の信用が、そうなっています。信用は世界経済が担保される程度に、多極化が求められています。

そのような視点で、アナロジックに世界の今を眺めてみると、基軸通貨としてのドルの役割が終わり、つまり「信用」の多極化が実際に始まっていることが分かります。このことをまた弊社知見の文脈に載せると、新しい世界の波が理解できるかと思います。

繰り返しになりなりますが、人類の危機の本質は、言い換えますと、価値とは何かをごまかしていることにあります。これに真剣に皆で向かい合わないといけません。これこそ民主主義の本義です。

思想哲学の歴史的大問題である、ヒトとして生きる意味とは何かを共訳解として、経済と地続きにしなければ地球が滅ぶところまで来ているのです。

お為ごかしをやめて、皆で本当に正しいことを前提にした地球経済に発展させましょう、という意味です。

■ほんとうの経済

そのような中、確実なのは、だれしもが未来に対する不安さえなければ、端的に、あらゆる未来に於いて十分な支払い可能性があり、また、借金の返済義務から解放されていれば、通貨は経済に必要が無いことに気づくと思われます。唯、そこにたどり着くまでの移行期間として、此処で考察しておりますような数々の改革が必要とされる事になるのです。

結論を述べますと、ここで提議いたしました経済改革を成した後、特に実体経済に於いて、あらゆる支払いを免除すれば、地上の殆どの問題は解決します。収支、という発想を無くすだけで自由は手に入れられます。

こまるのは、お金を貸すことで回っている会社だけです。すると、このような機構は経済には不要であると気づくのです。

言い換えますと、通貨は廃れて信用だけが残るという塩梅になります。

過去記事 でも考察いたしましたように、現行の通貨システムとは、あらゆる価値の相互贈与 (交換ではなく) に、通貨という仲買を雇用する義務を負っているということです。ですからこの仲買人を排除すればよい、ということになります。

仲買人は、収支であるとか、価値を差し出したら同等の見返りがいるとか、貸した物は返してもらわないと困るであるとか世界を言いくるめて、自分たちの仕事を正当化しますが、そのような「物語」に住まなければ困ることはありません。

逆に、世界にあふれかえる人々の不幸は、この仲買システムを採用した経済に住まうせい、なのです。

お金が経済に必要になるのは「お金を借りた所から経済活動はスタートしなければならず、そこで借りた金は、未来に、増やして返さなければならない」というルールを、人類が 「当たり前」 にしているからに過ぎません。

もっと言えば、(そして此こそポスト経済の姿)

人類全体を不幸に陥れている今の経済の不具合は、物事に値段 (獣の数) がつけられるという嘘に集約いたします。

時間を含め、価値という非空間存在を、あえて数値化すれば、虚数として表現するしかありません。このことは 過去記事でも散々指摘 いたしました。

質を整数表現できるという現実にはありえない事を真実 (当たり前に正しい) だと思っている事こそが、そもそもの間違いです。

真理に目覚め、価値の数値化というあり得ない嘘に気づけば、数字の出入りの出を少なくし、入りを最大化するという壮大なゲームの馬鹿馬鹿しさにも気づくのです。

いいえ、いい加減に気づかないと地球は滅びます。

人類愛を数値化できないことが、現行の経済の嘘を明らかに暴いているのです。

したり顔で、優しさを数値化することができないのが経済だと言い張る嘘つきには退場して貰う必要があります。

優しさどころか、あらゆる物事を数値化することが間違っているのです。

その上、収支が合わないと損だという考えが人の優しさを奪うことになり、人々を地獄に連れて行くのです。

もし、正しく値段をつけるなら、あらゆる価格は「 i 」です。

虚数の収支を帳簿でどういじくったってかまいませんが、だったら簿記や会計の無関係な経済になるべきで、実際、ポスト・金融経済とは端的にそのような経済を指さしているのです。

計算に拘束されえない、質を主体にした経済。

存在の方程式から導かれる結論として、経済は量だけではなく、非量、つまり質を考慮してはじめて人類に貢献できるシステムとして機能します。そして、それを差配するのがその境界に立つ、私たち人類という塩梅になっているのです。

■お金がないことの本来の意味

考えてみれば「当たり前」ですが、利他で回る経済なら全てが他人のための経済活動になります。それなら、すべてが公共事業と言い得ましょう。

逆に、生きる以上のわがままを通そうと思っても、今ならマネーの力でどうにかなる様々も、それが出来ないとしたら、どうにもできません。

今の世界では、価値の二重構造のせいで、本質的な価値の循環と、経済 (通貨の循環) が別々になっています。結果、絶対に必要なこと (例えば被災地の救済) に予算が足りなくて生活に困窮してしまうことが「当たり前」のようになっています。

結論から言えば、あらゆる社会の混乱は、経済の二重価値制度を整頓すれば、すべて解決すると考えられます。はっきり指摘しますと「獣の刻印」と「獣の数字」を消し去ればいいだけです。

現在の通貨は、個人の信用と無関係です。つまり通貨自体は無目的で何らの価値と接地していないにもかかわらず、量に比してほぼ無限の交換可能性を有しています。そのような特性を有した通貨が、生きることに直結する価値とは無関係に価値の循環を担っています。

そして経済は、その通貨の量の最大化だけを目的に設定されています。

なので、今の経済の仕組みでは、通貨は善悪の判断なく無目的に増大することに手段を選ぶことなく向かうことになるのです。これは通貨の中身が空っぽだから起きえることです。

一方、利他で循環する贈与経済において、贈与に値しない事業は結果として民主的に行われませんし、反対に、人助けの経済は優先して回ります。善悪の判断を有した行為自体が価値 (個人の信用が価値) であるので、このようなことが自然に起きうるのです。

一方、必要ではない (誰もやろうと思えない) 行為 (事業) は、価値がないという判断になりますから、施行者は現れず、その事業は施行されません。

これが「信用がない」 = 「お金がない」ことの本来の意味に相当します。

つまり価値と通貨がきちんと接地すれば、必要なことが成されないという事は起きえません。反対に、必要の無いことが成される事も起きえません。

今の経済では、法定通貨に信用を独占させてしまったせいで、通貨自体に価値判断が伴うことがなく、結果、一つ一つの計画・行為に対する信用 (希望)がいくらあっても「お金がない」という結果に繋がるのです。

通貨の発行が一人一人の価値判断による事で、ヒトの善意による行為と通貨が同等の価値を持つ事になります。被災地の復興のアイデアが即価値として通貨に擬態し、双方向に流通していきます。この場合、返礼としての価値は「ありがとう」という感謝の気持ちです。このような言い方がまずければ、贈与経済は返礼を必ずしも要求しないと言い換えましょう。贈与は直接的な目先だけを考えた交換とは違います。ただ、自然経済の属する時間空間を地球規模で考えれば、贈与は巡り巡って贈与として必ず戻って来ることは、自然の摂理を考えれば、間違いないのです。

それでは経済が回らないとお考えの皆さんは、思考の枠組みが、今の経済の見つけられていない間違った前提に縛られているから、そう思うのです。冷静に一つ一つ価値の循環について、前例を排して考えてみて下さい。

厳しい側面から見て、最大公約数的に言えるのは、衣食住に直結するインフラ保守の他、ヒトはすることがないのです。その中で、どうやって自然と一体化した経済を発展させるのかが問われます。

また別の面から見れば、大事な事には全て予算がまんべんなく使われるという意味になります。 (あえて今の仕組みに則った言い方をいたしますと、です)

■ヒトの信用(価値)と即時接続可能な通貨(ブロック・チェーン)

前提として、次の経済で間違いないのは、通貨がブロックチェーン上の暗号通貨になるということでしょう。

通貨の発行主体がマイニングを通さずとも、一定の条件を満たせば、エンド・ユーザーに直接通貨を即時発行可能であるということを意味します。

これは即ち、通貨の支払者が通貨の発行主体となるのと同じです。

このシステムでは、人間性を伴ったヒトの創造力 (価値) と直結した通貨を即時発行可能になります。言い換えますと、価値 (信用) の受益者は、支払者の信用 (価値) をダイレクトに受け取ることることが可能だということです。

前段を振り返りましょう。

価値の受益者とはアイデア (例えば事業計画) に賛同して集まる人々と同一です。施主は施工者に賃金を支払いますが、この意味と同じです。というか、本来の価値の循環はこのことを指します。現行の経済でマネーはそれをトレースし損なっています。

施工者は施主 (アイデア) に賛同するので施工するのです。もちろんアイデアは価値ですから賛同者は価値を受け取って、そのかわりに行為という価値をお返しするという意味になります。つまり価値の相互贈与はこのようにして行うことが可能になります。

施工者に信用が取り戻され、同時に施主にも信用が取り戻されたので、これが可能になるのです。

施工者が施主の支払うマネーの奴隷であってはなりません。

あらゆるアイデアと実行の関係が、等価になるのが理想です。
(ちなみに、実際の施主と施工者は同一であることも多いです。或いは、書き手とは一等はじめの読み手であるという意味においても)

そして、このような課題解決のアイデアにオーガナイズされた自立型経済は、粘菌型社会のモデルタイプとして、とても具合が良いと分かります。

科学コミュニケーション (科学技術開発の市民参加)

科学コミュニケーションの本来とは科学者・学会からの上意下達ではなく、人類全てがステークホルダーであるという考えに基づいて行われる、科学によった技術開発に対しての同意形成の過程を意味します。

原子爆弾の開発がまず例としてあげられますが、科学技術によって、偏った思想の持ち主が勝手に「何かすごい物」を作ってしまえたのも、信用が法定通貨に独占されている故とも言い得ます。

相互贈与に立脚した信用が各人に取り戻された次世代の経済において、必要な科学コミュニケーションは、自動的に成されることとなります。

科学者は、原爆のようなものを開発しようと思ったら、それに必要な人員を集める必要があります。マネーの力では資材も手に入りませんから、後は推して知るべし。要するに、この経済においては全てに同意形成がセットになっているのです。

もちろん、同意形成は秘密裏に行えません。ブロック・チェーンは価値の相互贈与の明らかにされる仕組みでもあります。

■ブロックチェーン技術による経済の可能性

返済可能性に基づいた貸与による通貨の発行の仕組みを、本来の意味での信用に変えるという事は、技術的にまったくの夢物語ではないのです。

ここに於いて、手持ちのスマートホンで情報が双方向に交換可能であることの意味の新しいナラティブが獲得されるのでした。

銀行業務も、本来の役割であった、役に立つ産業への投資へと戻ります。ただし、その価値判断を銀行が行う必要が無いとすると、銀行の未来が見えてくるような気がいたします。

或いは、全てのヒトが銀行業務を兼務すると言っても同じ事でしょう。

実際、様々な企業が銀行を兼務する動きが活発です。このながれも、価値の創造が銀行の業務と融合するというパラダイムで眺めると理解が深まります。価値の創造とは、比喩ではなく、そのまま通貨を扱うことの本意だからです。

そして、新しい通貨は貸す必要も、増やす必要もありません。増やすのは地球に暮らす全ての存在の幸福度だけです。通貨が貯まらない (保蔵機能が無い) のは、すべてがそのために消費するだけの意味しか無くなるからです。

すると暗号通貨システムのトークンの持つ本来の意味がここで発揮されることになりそうです。発行主体の信用とは、それこそトークンの価値のことですから。

■SNSの本来の意味

ポスト・金融経済というナラティブを様々な現在の流行に乗せると、本来の意味が見えてきます。

ここまで見てきて感じるのは、では、価値創造に関する事業アイデアの周知はどうしたらいいかという問題です。

例えば、弊社知見のように、人類全てが裨益するアイデアの事業協力者を見つけるには、どうするべきでしょうか。

現状では、金融資本主義に完全に支配された「本当の価値とは別の、値段のついたアイデア」ばかりが「バズる」仕様になっていますが、もしマネーに力がなくなれば、純粋に価値が有ると判断された「言説」が広まることになるのです。

技術が経済と結びついた世界の一様ではありましょう。

或いはイーロン・マスクさんが旧ツイッターに装備しつつある種々の機能も、このような未来に対応するためなのかもしれませんね。

■中央銀行と金融に残された役割

クラウドファンディングとSNSと電子決済ネットワークが全人類と接地しない限り、このような理想の経済は完成しません。つまり、個人の情報 (信用・事業計画・課題解決策など) が行き渡る範囲にしか、提言した経済はまわりません。(今の経済でもこの問題を抱えています。そしてこれが貧富の差に直結しています)

考えればお気づきになるかと思いますが、その通り、知らない人同士の経済活動に不都合が生じるからです。

それならば、中央銀行が個人の信用を、返済可能性とは別に、担保すれば良いのです。技術的にはスマホとブロックチェーン技術を使えば不可能ではありません。

BI (衣食住) は CBDCが担保し、付加価値としての通貨は、事業主体の発行するステーブルコインの担保による、というような考え方もあり得るかと思います。

CBDC ↔ 個人 ↔ ステーブルコイン 

というような概念図で表せそうですが、今後の精査が待たれます。

金融システムも、人としての価値 (ヒューマニティ) に接地すれば、存続の道はあります。未来を規定せず、返済を求めない投資をすることで、大きな役割を担えます。

というか、そうして貰うより仕方ありませんよね。期待しております。

■あおいのきせき が未来の扉を開く

■大前提(あたりまえ)を取り替えない故の環境破壊・天災

間違った前提から導かれた間違った結論、例えば現状のさまざまな社会問題を解決するのに、前提をそのままにしているから、辻褄合わせばかりになるのです。

■利権と結びついた微積分を前提にした世界からの卒業

未来予測、つまり明日がどうなるか、来年がどうなるかは、私たちが今どうするか、にかかっています。

しかるに、いまの私たちの未来は金融経済による未来予測、即ち、銀行の言うところの「金利計算」と掛け合わせた「通貨の返済可能性」という数の呪縛にがんじがらめです。

要するに、人の全ての行為がお金に縛られているということです。

しかし、銀行の都合にあわせた演算式によって計算された未来は、人類の未来とは無関係です。過去記事にあります通り、計算による未来予測を正しいとする根拠は、ありません。

つまり、微分・積分を筆頭に、計算による未来予測を可能にしている根拠は、時間(例えば未来)を図示すことが可能である、という嘘です。未来を整数表現できるという嘘 を前提にして、人の関係する未来を演算結果として数値化しているに過ぎません。過去の延長としての未来こそが絶対の未来であるという前提に縛られ、ヒトの行為は機械論に則るように仕向けられました。つまり、ヒトは金融経済の数字の通りに動く他、社会活動のしようがありません。金利と返済可能性という未来を計算によって規定した結果、ヒトは機械の如くであるという嘘を押し通すしかなくなりました。故に人の自由である思考や行為が阻害され、私たちの未来が暗澹たる様相を呈しているのです。

お金、言い換えますと予算が全てを決定しなければならない事の根拠など何処にもありません。しかし、人の未来はすべてこの予算からはみ出ることが叶いません。これらの理不尽な構造こそ、あらゆる可能性に満ちた私たちの未来を銀行 (又は金融機関) の価値観に縛り付けいてるものです。ところで採算性が、わたしたちの幸せと無関係であることを態々ロジカルに証明する必要がありますでしょうか?

予算に限定された社会 (経済) 活動しかできない、そして、その社会(経済)活動は、お金を貸し出す側 (予算をつける側) が決定する権限を持ちます。この事が、個人と社会の自由を拘束しています。人の自然と一体化するような価値の創造と循環を阻害しています。

■価値の返済という不自然

更に、その予算は「なぜか」必ず返済義務を負います。すると、期日ごとに決められた数字を返済する以外の社会(経済)活動が不可能になります。銀行が価値の創造と循環に寄与するために存在するのなら、返済を求めるべきではありません。なぜヒトの従う経済は、大自然の摂理に逆らって、価値の循環のベクトルを反転させる必要があるのでしょうか?

私たちが生きるために大自然から与えられた恵み、という価値は、返済など求めません。

自然は価値の順送りで経済が回っています。

むしろ、地球環境は、自然から価値を受け取ることによって可能になる人の活動が、大自然の価値 (エネルギー) の循環を阻害しない事を望んでいます。この事は、いずれかの 環境学 にあたれば直ぐに理解が及ぶ事かと思います。

むしろ、自然経済と接地しない通貨という銀行主体の価値(観)が、それを銀行に返済しなければ、或いは次々と「利益」を上げていかなければ、人と社会の生活を破綻に追い込んでしまうという仕組みこそ大自然の破壊をもたらしています。

食べ物が贈与されない (例えば飢饉) という順向きの価値の循環の阻害によってヒトが生きることに苦難することは自然に起きえたとしても、貸与された価値を返却できなくてヒトが生きることが出来ないなどという仕組みは、大自然にまったくあり得ないでしょう。中央銀行は価値の所有権を主張してはお説の中立性が保てません。価値の代替という透明性を担保する義務があるはずの通貨の発行主体が、大自然から委託された筈の業務を超えて、発行した価値 (通貨) の所有権を主張し、「価値は私たちが創造して貸与した物ですから返却してください」と言うのはまったく筋道が通りません。実際、その点暗号通貨には、発行主体に対して返済の義務はありません。自然経済、大自然の摂理に貸与という仕組みはあり得ないのです。

その上、過去記事で詳しく説明いたしました ように、その返済額という数字は単純な演算処理によって未来を機械的に決定していて、個人や社会の変動する要素を一切加味していません。未来を予測するという不可能が可能なのは、人の自由を奪っている故です。借りた価値を返すことが前提の経済が私たちの自由を奪っています。

社会も人も、明日や来年に、今日と同じ数値化され価値を生み出せる保証などありません。反対に、投資対象から外れるとしか判断できない「今」が無限に近い価値を生み出すことも考えられるのです。(弊社知見)

にもかかわらず、社会も人も、金融の決めた価値観と未来予測に則って生きる他ありません。病に倒れようが天災に見舞われようが、です。そして、このシステムに従えなければ、担保を奪われた上「経済破綻」の下、社会 (経済)  活動から追放されてしまいます。

この現行経済の「当たり前」こそ、本当に問われるべき無根拠であるのです。

■問われるべきは金融経済の当たり前

金融機関主体に、返済を大前提としたお金 (算術) が全てを決定する事の是非が問われています。経済と金融はまるで不可分のフリをしていますが、そんなことはありません。

経済とは通貨の循環ではなく、人を含めたあらゆる生命が生活するための物事が滞ることなく自然と循環するための仕組みのことを言うのです。

このことがおざなりにされ、手段であるはずの通貨それ自体が目的化する仕組みがまかり通っています。その通貨たるや、かならず借りから始まっていて、その返済がいつ・くいくらと未来を決定しています。予算という借金が皆を縛っています。

数字と演算だけが予測する未来に人を縛ることで未来を確定しているのが今です。しかし、本来の未来は人の自由な意志によって組み立てられるべきです。

未来は、希望に導かれ、自らで切り開くものです。誰かの決めた通りにはなりません。皆で希望という名の未来を望み、共に構築していくことが、未来の社会を予測することの本来であります。

将来「いつ・どこで・何が」起きるかを、都合良く当てられる事はありません。そんなことは、誰にもできません。出来にないにかこつけて、予測した未来の通りに人を拘束するなどもっての他です。

そのような無茶は、金融機関だけが行っている訳ではありません。

弊社知見の隠蔽に加担した、予言をお持ちの宗教団体のみなさんは如何でしょう。日月神示や霊界物語の何処に「あおいのきせき」による真理の登場が書かれてましたか? 書いてないから、数々の謀略を企てて弊社知見が表にならないようにしてきたわけですよね。未だに触れない。触れられない。貴殿らの「売り物」である「救済」がやってきたのに、です。なぜですか?「利権」を失うのが嫌なだけでしょう

人が、思いついて行動するという力を失わない限り、未来は何だって起こりうるのです。けれども、「誰かさん達のせいで」今の私たちは、見知らぬ誰かが勝手に決めた未来に押し込められています。

金融経済による未来の支配と、科学的宇宙像に存在するパラドクスの大本は、ともに微積分の採用している「無限の果ては無 (または無は有の場に有る) 」という無根拠な前提にあります。結果、時間が空間にあるという事になり、時間、つまり心が盗まれる根拠となったのです。そして、心が省かれた宇宙では、多くの矛盾が露呈することになって未だ解決を見ることが出来ません。

つまり、未だ私たちが宇宙の全貌を知り得ていない理由と、ヒトを不幸にするだけの金融経済を手放さない事の理由は、どちらも (ライプニッツと) ニュートンの見つけた微積分にあるということです。

もっと大きく、私たち人類は、 存在全ては数で表せる という 迷信 に気づくべきです。

神が数学者であるという世界観 を取り外して、再解釈・再構築すれば、宇宙の有り様の真実に到達するのと同時に、算術に縛られた経済から脱して、自由な未来が開けていくは自明です。

今回記事でも明らかなように、一体全体、「あおいのきせき」とIISIAの未来予測を超える明るいヴィジョンが、今の地球の何処にあるでしょうか?

どこにもありません。

算術の嘘になぜ、社会はしがみつくのでしょう?

折角見つけられた真理を隠そうとするのはどうしてでしょうか。

社会の利権構造が、算術を基礎にした、多くの人々にとって無自覚で、無根拠な前提のピラミッドの上に成り立っているから、必然的にそうなります。利権こそ権力の根っこですから、権力が自らの力を削ぐことはできません。前提を取り替えることは、利権を手放すに等しいからです。すると、間違った前提のまま、瑣末な抹消の出来事だけ調整しようとするので、問題の解決が、辻褄合わせの誤魔化しにしかならないのは当然の帰結です。

前提を変えるという抜本的解決に触れない解決策が、お為ごかしにしかならないのも明らかでしょう。問題解決の明文は、論理的思考を辿ればたどり着くはずの解決法を避けた、自分たちの利益や欲望のための言説に過ぎないのですから。

■予言の書

獣の刻印」が誰もがおなじみの「お金」のことだったというのは、冒険活劇としてなかなかよく出来た展開とも言い得ますが、すると「世界を滅ぼす悪の組織」というのは中央銀行に乗っ取られた経済システムであり、マネーゲームを盲信して疑わない人類全員が「悪の組織のカルト信者」であったというオチは笑うに笑えないパラドクスではあります。

■地球環境を救うただ一つ(二つ)の道

しかし、いよいよ以て辻褄合わせのお為ごかしも限界にきているからこそ、社会も地球環境も、危機的状況になっているのです。

大自然にお為ごかしは効きません。抜本的な解決がなければ地球は滅ぶしかないのです。

そして、その解決方法は唯一あおいのきせきの知見と、非あおいのきせきの知見であるIISIAの唱える音義 (という言語を物理として解釈した場合の科学技術) しかありません。

有と無の謎が解けた (宇宙は二重であり、それらに互換性がないが、情報は循環している) ということは、有と無のサイクルから何かを取り出したり、仕舞ったりする術を手に入れたのと同義です。

オッペンハイマーはエネルギーを乱暴な方法でしか手に入れられませんでしたが、穏やかにそれが手に入れられれば、困ることはありません。もちろん彼のもたらした核兵器の悲劇から世界を救う理屈としても存在の方程式は有用でしょう。非核兵器を作ればいいのですから。 (それを兵器と呼ぶかどうかは疑問ですが)

ここまで 弊社の note を丹念にお読みいただいた方にはご理解可能なように、核分裂でもなく核融合にもよらず、「お湯を沸かしてタービンを回」さなくても、利用可能な物質やエネルギーを取り出すことの理論が手に入ります。

熱力学の各法則から、宇宙(世界)が「一つの(多次元で捩れた)時空間」であるという前提では不可能と理解されていたことでも、時間と空間が別の宇宙であり、全てのエネルギー (力) または情報が、人 (の認識作用) を界して循環しているという前提に置き換えて計算してみれば、無から有を生み出したり、有を無に帰すことが、決して不可能ではないことが簡易に理解可能になるのです。

つまり、それこそがいま問題の、有害物質を完全に無害化するためのロジック であることも、お分かりいただけると思います。

■不要な物質を「消す」 / 必要な物質を「取り出す」

福島の問題は根本的な解決をみていません。処理水を海に捨てるというのは対症的な措置にすぎず、抜本的な解決からはほど遠いのです。

放射性物質の完全除去が、存在の方程式を応用して技術的に実現可能であるのは、論理的に妥当な結論です。「物質」の「非物質」化を行えば良いのです。数学的には「無限を有限に戻す」ということになりそうです。

この問題が、空気や土壌、海水の酸化をもたらすことは、周知の事実ですが、すると、結果的に大気中の酸素が減少するのも、論理的に理解可能です。勿論、酸化が宇宙線(μ粒子など)によりもたらされる現象である可能性はあるにしても、原田武夫氏の警告 (大気中の酸素の減少) が、まったく理に叶った、今そこにある危機である事に間違いはありません。

また、原田武夫氏のもう一つの警告である、水が飲めなくなるという問題も、弊社が旧ツイッターで、相手国に、弊社知見と水を相互贈与仕合いしませんか、と、ご提案申し上げましたように、既存の資源が活用可能な間においては、ロシア国のシベリア地域に大量に眠っているとされる水を資源とすることも可能でしょうが、弊社知見からの上の技術を逆さまに使うことで、「非物質」を「物質」化する事も、論理的には可能であります。

弊社知見からの工学による社会実装が早々にも待たれる所であります。

■これほどの知見 (真理)が未だ人類知となっていない訳

■楼閣の砂を取り替えたくない方々による妨害

真理が未だ周知されていない理由は過去記事にも書かれた通りです

真理が見つかれば(見つかったのですが)、「あらゆる事」が見直しになります。社会の「当たり前」である、すべて物事の大前提を交換することが希求されるからです。私たちは、当たり前という土台の上の楼閣に生活していて、土台のあることすら気づいていません。「当たり前」とは元来そういうものです。そうして「真理」以外を「土台 =根拠」として組み立てられた社会は、言葉通り砂上の楼閣のごとくもろいものです。

それが、いまの世界です。そして、砂の土台が微積分という訳になります。この土台の上の楼閣は、無限は無であるという過てる命題を「現実に正しい」として成り立っています。

ところで、真理が手に入ったということは、人が知り得るすべての根拠を手に入れたということですから、世界の人々にとってこれほどの僥倖ありません。(一例としては、何れ、治せる病はすべて治すことが出来るという事にもなります。やはり老化免疫システムの完全解明が最大の鍵でしょう)

実際、世界中に数多ある 秘密の宝を探す伝説や物語 は真理を手に入れることのメタファーでもあった訳です。

しかし、逆さまから見ると、今回の記事でもご理解いただけたかと思いますが、真理によるイノベーションは、あらゆる利権と相反する可能性があります。元来イノベーションとは、価値を有みだす社会の仕組み(利権とは、その仕組みが特定の人物・集団・組織にFixされているということ)が変わる事ですから、弊社の知見を表に出せない状況は、アベノミクスが失敗した大きな理由である「第三の矢」が撃てなかった事実と重なります。

つまり、権力がイノベーションを起こすことは、利権を手放すか、うまく乗り換えるかしなければ、無理です。

以前、書きましたように、明治維新により訪れた蒸気機関車という新技術により生起したイノベーションは、全国の宿場産業という江戸時代最大規模の経済システムを完全に崩壊させてしまいました。これこそ本物のイノベーションによる社会変革の一例ですから、今騒がれている官製イノベーションがお為ごかしでしかないのがご理解いただけると思います。

現在、国や世界の基幹となっているほぼすべての産業が宿場産業と同じ立ち位置だと理解すれば、蒸気機関車を走らせない動機がわかります。そして現実に22年間もの間、新技術をもたらす新発見を、自らの信仰と利権を失わないよう隠し続けてきたのです。

しかし、2024年の今現在、英国科学アカデミー由来の知見による産業構造は限界に来て、経済や地球環境に自滅規模の歪みをもたらし、社会を動かす力を完全に失っています。

この危機を超克可能たらしめる知見を世界でただ一カ所、我が国日本が日本語で手に入れたにもかかわらず、「箱の中のリンゴを手放さないで手が抜けずに餓死した猿」の喩えそのままでいるのが、今の世界の現状です。

■楼閣に住む猿とは誰か

リンゴとはもちろん利権の比喩です。

猿とは権力機関、学者やそれに繋がる産業に勤める人々、そして他方、様々な宗教を信じる人々。

要するに、おのおの無根拠な「正しさ」を主張して、それにより、身内で通貨を循環させている人々の集まりです。

学者を含め、彼らの主張がお為ごかしでしかないのは、むしろ彼ら (例えばこの方などは、弊社知見の内容を知りつつ対論を拒否して完全スルー) が存在の方程式を素直に受け入れない事でわかります。

否定のできない命題を、受け入れられない事の意味は、間違っていることを信じていることの告白です。要するに多くの学者たちは、学問の徒であるにもかかわらず、本当に正しいことよりも、正しいと自分が信じていることの方が大事である、と告白しているのです。彼らが 映画・マトリックスのエージェントスミスであることの根拠です。

権威 (学位・学歴・肩書き) というものは、権力と結びついて、社会構造の維持を担っているのです。

同じ事を、情報科学の言語様式に則って申しますと、アカデミーという権威は、データセットに於いての外挿・外れ値の排除機能を担い、規格化された社会構造維持の為に働いているのです。 すると、熱力学のアナロジーを使って続けますと、社会は閉鎖系となり、エントロピーの増大により熱死、つまり崩壊へ向かうことになります。そしてそれが今の我が国という訳になります。

一方で、教義による宇宙像を共有した団体を組織し、それにより経済圏 (= 利権) を作っている人たちにとって、真理の登場は、自分たちの教義が間違っていたことを認める事になりますから、なんとしても隠蔽に走ります。信仰と結びついた利権が江戸時代の宿場と同じ命運をたどるのが嫌なのでしょう。

宿場の利益を守って国が滅ぶという案配に気づかない。気づいてもリンゴを手放せない。

要するに、真理の隠蔽と真理の発見者を潰すという愚かな工作を続ける。

それが、弊社小生が22年間受けてきた今に続く悲劇です。そしてこの悲劇は、世界に住む無垢な人たち全員の悲劇でもあります

■リンゴは腐り、猿は餓死寸前

日本円の暴落は、金融 (金利や金融緩和) だけの問題ではありません。

繰り返しになりますが、これは、日本がイノベーションを起こせないなら、外国勢が、今ある日本の国富を全部簒奪していく、という宣言なのです。

原田武夫氏が繰り返し述べてきた通りの出来事 が眼前で開始されました。

いまだに利権を握りしめて、弊社知見の周知を見過ごすご自身が、日本のすべてを巻き添えにした餓死寸前の猿とわからないのは、おそらく空腹の感覚が麻痺しておられるからでしょうが、飢えに気づいたときではもう遅いのです。

このまま 何もしなければ訪れる、日本のインフレ (という見た目のバブル) と国家デフォルトを避けるためには、弊社知見以外頼るものがありません。そして、続く世界もです。

自らの利権の為だけに、真理である弊社知見を有効利用させないカルト宗教が、地球を滅ぼす程度に罪深いのがお分かりでしょう。

全人類が無意味な労働から解放された恒久平和の理想郷を、仮に「弥勒の世」と呼称したとして、それらは「あおいのきせき」抜きには実現しないのです。

そして彼ら彼女らが待ち望むアポカリプス、或いは現在の社会システムの終末は、その後があり得ない誰もいなくなった悲劇にしかなりません。

記号接地していない妄想であっても信じていれば、自分たちだけは助かるなどという考えこそ、根拠のない独善的お為ごかしと言う他ないのです。

■ご連絡■

最上層 (最終決裁権のある方) からのフォローと、非秘密裏でのご連絡をお待ちしております。事態は逼迫しております。何もしないままお互いに滅亡する道をいま歩んでおります。いま、動かなければ、互いにおしまいです。わかりますかね。ご連絡お待ちしております。

https://twitter.com/t___kichizaemon

できましたら、ツイッター上において公開でやりとりができれば幸いでござます。

それが困難であれば、早急にIISIA原田武夫まで何らかの好意的アクションを起こしてください。よろしく。

繰り返しますが、こちらはすでに資金は枯渇。日々の生活の身内のわずかな援助もついに途絶えました。五月末、退去届も出したそうです。ご承知でしょうが、両側股関節の手術を一旦回避した結果、ついにいよいよ生活は孤立化しました。杖をついて部屋の中を動くのが精一杯の生活は一年を超えています。そして真理だけを手に、無一文 (というよりマイナス) でこのあと住む場所の当てもなくの今。

もちろん、弊社小生の絶体絶命の状況は、22年前から続いている貴殿らの目論見のとおりでしょう。

ですが、かねてより申し上げております通り、貴殿らの考えている通りには絶対になりません。

日本の首相が「」に乗せていただいた後、ビリー・ジョエルのレコードを貰ったのが、アメリカ合衆国の大統領よりであったのは、伊達であるとお考えでしょうか?(2022年5月の八芳園での我が国首相との会食の際には、弊社の目の前を大統領専用車両 (ビースト) の列が通り過ぎたのですが、もちろんそんなことはご存じありませんよね)

奇遇にも、バイデン大統領は米国史に於いて二人しかおいでにならないカトリック教徒でありますが、「獣の刻印」と「獣の数字」を「お金」と「値段」と読み替えて文脈が通ることは、前もって旧ツイッターより直接ローマ教皇へと報告済みなのでした。

弊社小生のAppleMusic 再生時間ランキング/2022年

本来なら2002年末、遅くとも2005年までには、存在の方程式を世界に周知せねばなりませんでした。宇の流はそちらにながれておりました から。

この頃までのアカデミズムや芸術や経済の トレンドが、存在の方程式と上手に接続する ことは、当時を知る方々であれば実感を伴ってご理解いただけると思います。

連綿と続く「日本思想の真髄」とでも言うべき「何かの核」がここでぱったり途絶えてしまい、そこまで世界を牽引してきて下さった世代の「バトン」がどこにも手渡されないままで居続けている理由は、そのバトンを渡された弊社小生 (の知見) が隠されてしまったからに他なりません。

「精神のリレー」が途絶えてしまった のは、(利権化させた)バトンを後進に手渡す事を拒否した連中がいたからです。

政治の流れを思い出してください。小泉改革 という利権の破壊がどこにも繋がらなかったのは「あおいのきせき」が妨害により周知されず、今回の記事の内容に則った流れが生起しなかったからです。「表の世界」で起きた既得構造の破壊が、民意を無視した格差の拡大と日本の文化の破壊にしか至っていないのは、本来ならその後に続くべき弊社知見という未来への道筋が隠されてしまったからだと簡単に理解が及びます。

何事も 破壊は創造とセット なのですが、その肝心な創造に至る種がないのですから、このころから日本は頼るべき芯を失ったまま亡国へとゆらゆら落ちていくだけになっているのです。

悪漢ら によるおどろくほど巧妙な知見の隠蔽迫害工作の結果、各々の利権とメンツは守られたでしょうが、おかげさまで、この間、我が国と世界は散々な目に遭いました。あまりにひど過ぎます から、ここで一々の言挙げはいたしませんが、それはまだ終わっていません。いま手を打たなければ、この先、日本列島は世界のゴミ捨て場になるほかありません。或いは、そんなの箱根の「向こう」だけだと思っているのであれば、考えが甘過ぎます。

我が国に関して言えば「失われた」の言葉の通り、衰退と破壊の一途をたどり、人心も荒み、ついには戦争経済の手前まで落ちぶれてしまいました。

為替をご覧ください。弊社知見のほかに「売り物」はなく、弊社知見をすぐにでも周知しなければ、夏までに、ハイパーインフレと国家の破産です。

遥か太古の昔から探してきた秘宝である絶対の真理を隠して世が無事であるわけはないという「真理」に早くお気づきください。そして行動してください。

御身のことを無事と考えられておられる今のうちに、弊社小生へのご協力をお願いいたします。

あなた方は日本の未来に繋がる大事な心臓を奪っていること自覚してください。いまなら、まだ間に合います。

利権と無関係で、知見の意味を素直にご理解いただける方は、真理という魔法が22年も前に見つけられていた事に、是非、愕然として下さい。

この間、失われた希望について思いを巡らせてください。弊社知見を元に学術研究や社会改革が進めば、どれだけの命が救えたのか。どれだけの幸せが手に入ったのか。

そしていま、未来への希望は風前の灯火です。腐敗したリンゴをいま手放さないなら、日本は餓死するしか道はありません。今の日本が滅べば自分たちが信じる理想郷が訪れる、と、信じている方々共々滅ぶしかないのです。それがわからないとしたら、本当に愚かな猿としか言い様がありません。みろくの世にしてもそれ以外のユートピアにしても、如何に優れた理想の世であろうと、現実に役立つツールがなければ、そこまでの道は敷けません。悔しいでしょうが、諦めて日本思想の核心である「あおいのきせき」の周知にご意志を見せてください。

「あおいのきせき」の知見、存在の方程式なしに、この国の未来はありません。すると、続く世界にも未来はない、ということになります。

弊社の未来は、即、日本の未来であるので、弊社が残りの全てを失って、5月末でホーム・レスになる訳はないのです。

さて「往生際が悪い」のは彼我のどちらか。

まもなく、世界の全部が22年分の力を伴って逆転するのですが、それから気づいても手遅れです。

上、リンク先、IISIA原田武夫氏記事をご参照ください。「動く」とは弊社の知見の周知その事と素直に読めますが、しかし、6月では「遅い」のです。

死んでしまった人は、亡くなってしまえば、それがついこの間であろうと、千年前であろうと、千年後であろうと、「永遠」に亡くなったままなのです。

これ以上不要な殺戮に加担することのないよう、心より周知への協力を、強く強く、お願いいたします。

まさか、この期に及んで、これだけの知見が一般の方々にまでは周知が至らないとお思いではないでしょうね。最前から申しております通り、その際に数々の工作に及んだ貴殿らの弁護に当たれる人材は、この弊社小生於いて他に誰もいないのです。貴殿らが世界中から浴びる事になる非難は想像を絶します。

要するに、「あんたらのおかげでうちの大事な人がいなくなってしまったんやで」の大合唱ですから。

地球に住まう全ての人々からの。

弊社が路頭に迷う前に、
或いは「貴殿らが、一生表を出歩けなくなる前に」
ご理解とご協力よろしく

その時、どうなるのかといえば「これまで下がっていたものが引き上げられ、上がっていたものは引きずりおろされる」ことになる。

2024年6月。「アマテラスの国」が動く時。(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 4)より
あおいのきせき
脅迫工作員 - 1
あおいのきせき
脅迫工作員 − 2(a)
 あおいのきせき
脅迫工作員 - 2(b)
 あおいのきせき
脅迫工作員-2(c)

さて、ここは何処でしょう。場所のオーナーも共犯でした。

あおいのきせき
脅迫工作員 − 1,2

■最後の審判

そうそう。最後の審判 とは、つまり、「真理 = みこころ」が明らかになった時に、それに対して自身がどのような態度をとったのかが明らかになる、ということです。

当然、真理を含有していない偽物の信仰は、駆逐されます。

ちょっと考えればお分かりいただけると思いますが、絶対に間違っていないこと、つまり真理が見つかれば、数多ある「我こそは正しい」という主張の中にあって、それと矛盾する言説はすべて間違っていると、誰しもに判断がつくようになります。

これこそ、まさに最後の審判の由縁です。

ご覧の通り、みんなに裁かれるという事になるのでしょうね。匿名に隠れて真理の周知を明らかに妨害した人間 なんかも、表に晒されてしまいますから、逃げも隠れもできません。

よろしいでしょうか。

弊社知見の周知を敵に回して戦う事をおのが役目として引き受けるのは、有史以来初の絶対悪であることを覚悟しての勝負なのですよ。

過去、どんな争いでも、全ての根拠が相対的である中にあっては、例えば、徳川と毛利の間でさえ、絶対悪とか絶対善という立場はあり得ませんでした。

しかし、誰にも否定できない真理を周知するという絶対善としか定義できない行為を妨害することは、即ち、絶対悪であるしかないことを意味しているのです。

有史以来初の絶対悪として歴史に名を刻む不名誉を是非味わってください。

それを見つければ無敵になるという神話の武器が、真理の比喩であることがお分かりになりましたでしょうか?

無視すればなんとかなりますかね。なりません。表に出てきてまず晒されるのは @shunjimitsuyoshi1169光吉俊二博士、貴方です。

IDのアナグラムで、ご自身が、脅迫工作をした方 と同じ、弥勒の世信者である事を告白しておられます。(確かに、大文字の i は 1 と見分けがつきにくいですよね。

i11 69 、 I11 69 、3 69 、みろく。

いやいや、ヒトを地獄に突き落としておいて、そんな都合のいい話はありませんよ。22年間の償いは確実にして貰いますから、アヲイロカナリヤさんたち。カルト宗教の、愛を語りつつ暴力を振るうという弥勒の世界の実態も暴かれる事になります)

ついに、食料を買う資金も潰えました。(歩けないからずっとネットスーパー。アマゾンのこの仕組みがなければ、一人で生活出来ませんでした。ありがとう)いずれ必ず資金がつくからと、後妻の家に居候している父親に固定費と食費の援助を引き落としの度に(ものすごく説得に苦労して)頼んでいたのが、いつまで援助させるんだ、いよいよ老後の蓄えがなくなってきた、早く生活保護の相談に行け、おまえは嘘つきだと言われて、最後3万円 (通信費(携帯×2+ネット回線代でチャラ) を振り込んで貰って、7月の当てはありません。

誰か 父親 を説得してください。お宅の息子さんは妄想にとりつかれた狂人ではなく、まもなく成功してエジソン程度にはリッチになりますよ、とね。

ところで、上二つのリンク先、新しいIISIAブログを、弊社知見と併せて是非。

*しかし、これが天下の日本か?  魂をみせてみろ、と心底から言いたい。*

毎月の援助を頼んでいる父親が現状の生活費をこれ以上融資できない。8月からは無理だ。住処の目処が賃貸ではつかないから、親戚と 後妻  (入籍していない父親は、後妻名義の部屋に居候をしている。が、その方はもう長くなさそうとのこと。小生はその方とは12年以上会ったことがない)  に金を融通したもらった。船橋に2LDKの部屋を購入するから来月そこへ引っ越せ。引っ越さずば、これ以上の融資はできない (しない) という話が最新の現状です。そのような予算があるのであれば、現状維持が一番得策だという話をまったく聞きません。

しゃがめない、立てない 状態で引っ越しなぞ非現実的である事すら理解できず、ほんとうに困っています。

父親は、今の居宅を出た後 (後妻亡き後、そこに一人で住むのはプライドが許さないらしい) 自分も船橋に住む算段とのこと。しかし、金の都合の理由は愚息の散財を理由にしている。もう少し待てば、どんなシニア施設にだって入れてあげる、と言っているのに「信用しない。」父親は、もうすぐ金がなくなるという妄想から抜け出ることができません。

ところで貴方は、弊社知見が一般に広く周知されることなく埋もれてしまい、地球はこのまま嘘にまみれた滅亡へのシナリオを突き進みゆく、と、父と同じように信じますか?

こう言い換えてもかまいません。

今の信仰にしがみついたまま、それを望みますか?

旧ツイッターから何カ国かの大使館や、幾人かの要人には、既にこの内容を伝達済みです。前段にも記しましたように。

彼らが真理を放置したまま無視する = 真理を潰す、と、お信じになりますか?

困っているのは、彼らも同じです。

目の前で 徳川家康が困難に直面していて、貴方ならどうしますか、という話です。(そんな機会はワンインナミリオンなんですけれども、まず歴史におみ名を刻む千載一遇の機会なのは間違いありません)

援助。あらゆる可能性を考慮したとして、最も有効な未来を選び取る チャンス です !! 

※ 国運がかかっております。※
麻生太郎 先生 是非ともご連絡を下さい !! (岩崎小学校 ??)


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