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散人の作物

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私の執筆した文芸。
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#日記

小高い丘からの眺め

小高い丘からの眺め

狭山丘陵の行き方を私は知らない。

武蔵野台地を考える者にとって件の場所は是非とも見なくてはいけない場所ではあるのだが、如何せん東京の郊外の、それも埼玉となると、生まれも育ちも東京の私は、僅かに進むべき道を知らないのである。

とは言え、周辺に行った事がないという事はない。いつも目前までは行っているのだ。武蔵村山の貯水池には度々その足を運ぶ。

恐らくながら彼処は狭山湖も近かろう。

かつて私の外

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死は未だ来らず、あるは生ばかり

死は未だ来らず、あるは生ばかり

高校生になってまだ二ヶ月ほどしか経っていない、大友絢香と一緒に渋谷を歩いているのはなぜだか無性に、今の彼女をカメラに写したかったからに他ならない。

五月下旬の東京は例年より暑さは甚だしく、行き交う男女の、その衣を薄くしている。もちろん、私もまた彼女も例外ではなかった。

「友達は?」

桜丘町の何ら見栄えしないカフェは、休日の為に騒がしい。添え物のジャズもどきも、今日は一段と音量がデカいのではあ

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机上の記

机上の記

巷は連休中にてどこも、またかしこも大盛況。人だかり。テレビなんぞは連日自動車の混雑具合を報道している。私はわざわざ人混みに飛び込む酔狂な真似はしない。一人京都から外れた寂しい陋屋にて日を送っている。専ら読書に費やすその一日は、忙しない浮世から逃亡する唯一の方法と読んでよかろう。

読書をしている。あるいは人は、それのみ聞いた場合、立派な青年像を思い浮かべる矢も知れぬ。弁解させてもらおう。決して立派

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外出と憂鬱と

外出と憂鬱と

一時期狂ったように外出していた時があった。出先でも少しの暇さえあれば、その見知らぬ町を歩いたものである。

例えば栃木県足利市。これは別になぜそこに行ったのかもう覚えていない。旅行だったか。それにしても日に短い滞在であっった。名の知らぬ川の流れるその町の橋を渡り、市街地に出たが、思いのほか人気なく少しく悲しくなった。だが、足利神社なる有名な神社の近くで何やら製菓専門学校の学生たちが自分らが作ってた

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輪転する原点

輪転する原点

私は自身を語る時、「彼」という人称を用いたくなる事が度々ある。かつて書きかけて、果てに打ち捨てた小説の冒頭にはこう書かれていた。

 彼は(それは俺であるのだが)

何故、そうなのだろうか。これは私の積年の問いでもあった。熟考の果てに私は、かつての私を他人と研究の対象にしている事を発見したのだ。

自己は結局のところ、自己でしかないという意味において、最も複雑かつ不思議な他者は過ぎ去った時の狭間に

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待望の暖気

待望の暖気

路傍の梅花は満開となり、都下には桜花開花宣言がなされた。三月中旬のことである。二十一回目の春を迎えて、私は初めて迎春を喜ぶという事態になった。何も今まで、意固地になって春を否定していたのではない。私にとって春とは何ら意味をなさない退屈の季節であったし、暑きよりも寒きを喜ぶ体質なのである。

華やかよりも地味なものを愛玩する私であるはずなのに何故、今日に及んで春の暖かさを喜ぶのか。それは、己が体調と

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過ぎし面影、巴里の日々、アル中の男

過ぎし面影、巴里の日々、アル中の男

不眠なる私は枕頭に立つ思い出を一晩の伴侶にする他無いという悲しき定め。是多多あり。それは確かに、かつての記憶を思い出し、その地に立たせるのだが、いかにも辛いと言わざるを得ないのは、この浮世に長く止まった性か。それは分からん。どんな思い出が立つのか。それは妄想に近い時もあれば、また忠実なる過去の一時をありありと、その上、明瞭に思い出すこともある。
女を思い出すことが多いのだが。そんな時もあるのさ。や

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“君”と呼びか掛けられし僕から君へ

“君”と呼びか掛けられし僕から君へ

言葉を弄して僕は一体何を語るというのか。或いは山水画のような壮大な景色を、或いは浮世絵のような耽美なる人間を、或いは風景画のように緻密な光を、そして或いはシュルレアリスムのような私という現象を。

美しい物語を読んでいる訳では僕は決してないのだ。僕は一貫して、探しているものがある。荒野という現世に一人投げださえれてしまったあの日から。僕は一つ、ただ美しい言葉を探している。それはもっというならば僕を

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日記を読むという事、日記を書くという事

日記を読むという事、日記を書くという事

#読書の秋2022
年の瀬に押し迫ってただでさへ慌ただしい日常に拍車がかかる。労働や勉学から帰るべき場所に帰って来た安堵。明日が始まるその前に今日を思い出す。そして思い出を書き記す。日記とは畢竟、その繰り返しである。進行する未来に従って積もり行く諸事。書いて記したその日々に自分たるものが存在して居たと再確認する作業。消えるだけの日々を可視化するという事に日記の最たる楽しみがあるというべきではなか

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パリの街の風に吹かれて 或は新帰朝者の世迷言

パリの街の風に吹かれて 或は新帰朝者の世迷言

巴里に行ってきた。フランスに行ってきた。フランスに行ってきた、それが先行するのが当たり前であるのかもしれないが、語弊を恐れない俺は巴里に行ってきたというベキ。俺は俺にとってフランスは巴里だ。なんと言っても。リヨンもオンフルールもノルマンディーも差し置いて。うん。そうだ。巴里だ。何はなくとも。阿呆なる私の周辺が生きている。そうだ。性懲りもなく生きているのだ。そんな中、私は遠く、遠く離れた巴里に行った

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ベンチよりの景

ベンチよりの景

長い事、散歩している。そこに目的なんぞはありはしない。そもそも目的がないから"散歩"なのだ。行く当てを決める事なくある時は自然の中を、又ある時は摩天楼をゆく。感動する景色にであることもあるのだが往々にして得られるのは自分の現在地に対しての嫌悪である。なぜ、私は歩かなくてはいけないのか?であるとか、私一体どこに居てどこに向かっているのか?などである。人生の羅針盤をとうの昔に売り飛ばした私はそう思うこ

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近況報告 冷え込む師走に少しばかりの暖かさ

近況報告 冷え込む師走に少しばかりの暖かさ

近況報告の記事なんぞ果たして必要なのかとも思ったけれど他に書こうと思っている記事は些か時間がかかってしまうのでとりあえず近況報告の記事を書こうと思った。

気がつけば(という言い古されてしまった表現しか思いつかないが)今年ももう終わりである。早かった様な短かった様な、と毎年同様の感慨に耽るのである。今年はどんな一年であっただろうか。おそらく実に濃い一年だったのではないだろうか。いろいろな変化があっ

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短編小説『アルバムを捲る様に』

短編小説『アルバムを捲る様に』

毎日ぶらぶらそこらを散歩している僕は時としてアルバムを捲る様に昔日の日々を思い出すことによって暇を潰すことがある。その思い出のアルバムの中身は、例えば告白出来ずじまいで終わった七菜香という女性への恋慕や自分の命さへ差し出したかった沙希という女性との思い出がある。それが何だといえば何でもないのだが。
兎角、人間には個人的な思い出というものは全くつきものであるし、思い出の中でのみ生きているという人間の

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2021年度拙作俳句集 謹賀新年に変えて

2021年度拙作俳句集 謹賀新年に変えて

第一部春嵐来たりて路傍の花落ちる 三月廿一日
雨瀟瀟未だ一人の我が身哉  四月十四日
飛び立つに羽毛スゝ゛メ哉  四月十五日
春雨を聴きつゝ独りの我身哉 四月十七日

吉祥寺及井之頭線ノ景

春風に独り打たれて井の頭  四月十八日
子供泣く背中濡れたる親父哉 四月十八日
我目見て泣き止みたる子に罪は無し 四月十八日
窓の内いつかの我等は窓の外 四月十八日

久方の祖父の震える指みたり 四月十九日

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