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過ぎし面影、巴里の日々、アル中の男

美しく、白き友に。この記事を捧ぐ。

不眠なる私は枕頭に立つ思い出を一晩の伴侶にする他無いという悲しき定め。是多多あり。それは確かに、かつての記憶を思い出し、その地に立たせるのだが、いかにも辛いと言わざるを得ないのは、この浮世に長く止まった性か。それは分からん。どんな思い出が立つのか。それは妄想に近い時もあれば、また忠実なる過去の一時をありありと、その上、明瞭に思い出すこともある。
女を思い出すことが多いのだが。そんな時もあるのさ。やはり性欲から逃れられぬ運命。若人の運命。
昨年より折々出掛けし小学生からの旧知の友人。白く、透き通る様な美しさは私の手ではどうしようもないほど繊細だ。されど本日描くべき記憶はそれよりも外にあるもの。否、この国よりも外にあるものなり。

フランスは、その国は日本では無い。当然至極なる事だが、果たしてその真意をどれくらいの人間が知っているのか時折私は疑問に思う。海外というものは一度訪れればわかるが、我々の想像以上に異国な土地だ。
日本は島国である。島国根性未だたけなわなる国民性。良きにせよ悪しきにせよ、一生その定めからは逃れられまい。君が代の国に他ならない。
日本は、日本語なる悠久の言語にprotectされている。それは閉じた、完璧なる言語にして文化なり。
されど、この海より外に出づればそうはいくまい。様々な、あらゆる文化の集合体。あらゆる民族の集合体がそこに立っている。勿論、日本人でさへ元を辿れば朝鮮系の民族に過ぎぬのであるが。だが、ある時を境に日本国民は、否。大和民族は安定して来たというべきだが、海外は違う。絶えずあらゆる血脈が躍動している。

諸君は、モーリス・ユトリロ(1883年12月26日 - 1955年11月5日)なるフランスの画家を知っておられるだろうか。夭折の天才、アル中の馬鹿者。色々彼を彩る言説はあるが少なくとも彼は絵描きであり、絵を描きそれを生業として死んでいった。それは残酷な結末なのかもしれないが至極静かであったのだ。彼が特異なのは、その視点である。それは人の視点に己の画力を託したという点にあり。

過日、私はパリに降り立った。モンマルトルの片隅にある、その旅籠屋はお世辞にも立派とは言えまい。だが私は、あえてそこを選んだ。
パリなるものは、高級なるもの、と錯覚されがちだが実際は違う。芸術家と呼ばれる河原者の集まりである町だ。立派な筈があるまいに。されどだからこそ、美しいのだ。私も比類なき芸術家の一人である。それは、確かに未だ何も残せざる(己の肉体以外)者に相違ないが、この先見ていたまえ。それこそ革命を起こす様な芸術家になることは間違いはないのだ。

「ボンジュール」という拙い私のフランス語は幸いなことに相手に伝わった。相手は五十代の親父。髪は確かだが、皺がその来歴を物語る。チグハグなコミュニュケーションを経て、私はその旅荘の入室を許可された。三階の最奥の部屋。勿論、エレヴェーターなるものはなし。十キロを超える重い旅鞄を抱えつつ一段が異様に高い階段を昇ゆく。「手伝おうか」老婆の白人が声をかけてきた。私は頑なに拒否し気丈に振る舞う。時差に疲れた体に、追い討ちがかかった今。部屋にたどり着くまで(目と鼻の位置にも拘らず)五分程かかった。手のひらは既に真っ赤っか。昼だのに暗い。暗すぎる廊下を経て私の部屋にたどり着いた。息は絶え絶えだ。

モーリス・ユトリロのその半生は知れば知るほど悲惨なもので、アル中、マザコン、出来損ない、生活破綻者、その他。目も当てられない。仮に日本社会ならば直ぐにでも退けられる様な落伍者だ。だが、だからこそ日本文学っぽい。井上井月、葛西善蔵、太宰治、藤澤清造、大杉栄、伊藤野枝、辻潤、その他諸々。死をかけてのダンスをする。それは何も日本文学の特権ではあるまいが、仮にユトリロが日本語を用いれたのであれば凄まじい小説をこしらえていたに違いはあるまい。

部屋に入ってた時、まず驚いたのは日が全く当たっていないということだ。今は昼。真昼にも拘らず、暗い。まるで夕方の如し。電気をつけねば平常なる生活を送られないのだ。
まずは手を洗おう。件の流行病に罹ったらつまらない。持ってきた石鹸を使えば安泰。そこで予想だにせぬ先客を目撃した。蜘蛛である。それも日本にはいないか、なり大きい蜘蛛。洗面台の窄んだそこに鎮座していた。気色悪くすね毛がびっしりだ。勘弁してくれ。私は部屋に備え付けられていたティッシュで持って先客を追い出すべく唯一ある部屋の窓を全開にした。

ユトリロ。他人が描いた、或は写した商品をそのまま、自分のものとして表現した(それに成功した)芸術家がいただろうか。深からぬ知識を持つ私にとってモーリス・ユトリロ以外にその様な人物を知らない。ユトリロは自身の窮地を救うべく絵を描いた。皮肉にもそれが、自身を死に追いやる術になるのだが。
彼が描いたパリの街角。それは何よりも実直で、悲惨で、孤独で、痛い。

扉を開け放って見た、そのパリの裏路地。袋小路のその路地は黄色い、無感情な、小さな壁がただあるのみだった。そして何よりも辛いのはその中にも懸命な生活の跡が刻まれている事だった。向かいの壁の、唯一の、窓が開いた。白人の若い娘が顔を覗かせいた。私を見て、珍しいアジア人を目撃して、引き攣った笑顔。そして手を振った。

パリは幸いにも愛煙国である。私はヘビースモーカーでありはしないが、それでも時に吸いたくなる事がある。殊更に散歩をしている時など。そんな私にとってパリは、都合の良い町であった。モンパルナスの街角で、バスティーユ監獄記念塔の下で、何の憚りもなく吸う事が出来たのだ。

サン・クール寺院に至る、左方に壁がある通りにて私は、その壁にもたれてタバコを吸っていた時のことだ。私の元に十四、五の金髪で碧い瞳をした少女が寄ってきた。そして「タバコを一本下さい。一ユーロ払います。」と言う。右手には黄金に光るコイン。「いや、いいよ。一本でも、二本でもタダであげるよ。」そう言った時の明るい彼女の顔。私は吸ってた、ロングピースを箱ごと差し出した。女は「メルシィ」と言いながら、一本取り出して口に指す。私はすかさず火をやった。
「お兄さん、どこから来たの。中国?」問う少女。「いや、違うよ。日本だよ」アジア人は一概に中国人に見えるらしい。「そう。日本人は優しいって聞くけど」少女は言った。「さあね。どうだろう。俺だってそうありたいと思うけどな」沈黙が支配した。もしかしたら私はこの少女に恋しているのかも知れない。
「ありがとう、お兄さん。私はポーリーヌ」そう、少女らしくハニカミ人混みに消えてった。

一時の旅行なんぞ、忙しない日常の中では直ぐ様に忘却に溶けてしまう。パリの日々は、そのfactのみ私のなかに残り、detailなんぞは直ちに思い出すべくもない事柄に陥ってしまったのは反省すべきことだ。特に日々、飲酒をし続ける私は(あるいは昔からかも知れぬが)長期記憶が点でだめなのだ。だからこそ忘れた。

時に私は、福島は裏磐梯の山中にある諸橋近代美術館なる場所を愛している。もう六年ほど前から通っている。然し件の病は、二年ほど私をその場から遠ざけた。東北なる土地は汚ない政治家たちの手によって遠ざけられた歴史あるが、この後に及んで疫病の被害にあるとは嘆くべき事だ。
ある日、久しぶりに尋ねた時、その絵はあった。ユトリロの『モンマルトルのソル通り』である。私が少女にタバコを分け与えた場所の限りなく、近い所。私は一気に自身の確かなる記憶を、印象を思い出さずにはいられなかった。その時、過去は確かに私の眼前に広がり、与えていた。忘れられぬ一時を。



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