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ベンチよりの景

今、という時間は、人間の決断を除いては存在しない。私たちが「今だ」と直感し、「今でなくてはならぬ」と決断する瞬間だけ、今が私たちにとって存在する。

石原吉郎『一九五六年から一九五八年までのノートから』

長い事、散歩している。そこに目的なんぞはありはしない。そもそも目的がないから"散歩"なのだ。行く当てを決める事なくある時は自然の中を、又ある時は摩天楼をゆく。感動する景色にであることもあるのだが往々にして得られるのは自分の現在地に対しての嫌悪である。なぜ、私は歩かなくてはいけないのか?であるとか、私一体どこに居てどこに向かっているのか?などである。人生の羅針盤をとうの昔に売り飛ばした私はそう思うことで自分の道筋を不器用ながらに照らしてると言わねばなるまい。

朝から晩までの散歩。時として数十キロ歩いている時さへある。すると当然に疲労というのが蓄積していく。何も激しい運動をしているわけではないのだから今すぐに休まねばならないという程疲れる事は滅多にない。とはいえ流石に疲れたその時はあたりに良い塩梅の腰掛ける場所がないか探すのだ。東京は大きな公園が多い。(他県の公園事情に詳らかではない私であるから比較はできないが。)小金井公園、善福寺公園、石神井公園、井の頭公園、武蔵野の森公園、野川公園、昭和記念公園、平山城址公園、代々木公園、檜木公園、日比谷公園、上野公園等々。公園と名を冠する場所は枚挙に遑がない。そして園内にはベンチが備え付けられている。疲労を感じた私はそこにてそれが減退するのを待つのである。

今。私はベンチに座って目の前を過ぎ去る人々の足取りを眺めている。老婦人、母親、幼児、制服姿の男子高校生、スーツ姿のサラリーマン。当然ながらその中に私は居ない。私は今ベンチに座っているのだから。目の前に走り去るのは何も人だけに限らない。猫、犬、見えないがもしかしたら虫、極小の細菌、そして風。何よりも時。それらが目の前を絶えず過ぎ去っている。

一頻りそれらを眺めやると今度は空を打ち仰ぐ。空は青い時もあれば灰色の時もある。又は真っ暗な時もある。その時見た空はひたすら青い。どこまでも青。それが広がり続けている。時に白い雲が一筋流れた。そして僅かに風が吹く。それが頬を撫でる。無数の時を過ごしてきた私の感覚はこうして初めて覚醒される。風があり空があり時があり私がある。改めて言う事でもないがそれは改めて感じられる事では決してありはしない。自分の神経を鋭く、鋭敏に空の様な茫漠としたものに投げていないと決して理解できぬ事だ。

ある時。私はある人と二人でベンチに腰掛けた。それはもう暮れかかる陽の中で夕闇を待つ時刻であった。遠くの喧騒は相変わらず響いており都会の闇ならぬ闇の到来を告げている。恙ない言葉を交わし、会話と言う行為はそもそも実存に触れるものだと気付かされる。その中で、いつもの通り大空を見る。暮なずむ空を見る。勿論変わりはしない。それは空という名称が付与された漠々たる空間。人類が憧れてきた"ここ"の外へと向かう通路。そして我々の肉体が死せば向かう彼方。
私は座りながらにして立ち止まった。そうだ。"今"だ私には"今"しかありはしない。過去は過ぎ去りし時だ。未来は未だ来ざる時だ。今。私には今しかないのだ。私はある人の肩を抱き寄せた。

ベンチに腰掛け眼前に景色を見るその"時"それは"今"だ。その時は"今"に他ならないのだ。

(了)



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