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本能寺の変1582 第165話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第165話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 

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信長は、義昭の御所に祗候した。

 同年、三月一日。
 先ずは、上洛の挨拶。
 
  一日、己巳(つちのとみ)、天晴、
  朝飡以後、三條新少将同道せしめ、武家へ参る、
  午時(正午)、御対面、
 
  参らるゝ輩(ともがら)、

  織田弾正忠信長、
 
  畠山左衛門督昭高・同尾張守高政・三好左京大夫義長・
  畠山播磨守・鷲巣﹅﹅﹅・大館左衛門佐・同伊予守以下、
 
  御供衆・御部屋衆・申次、悉く祗候、
 
  公家、
  烏丸一位・久我入道・予(言継)・飛鳥井中納言・同中将・
  烏丸辨・広橋・三條少将・姉小路侍従自綱・藤侍従等なり、
 
  申次、飯川肥後守なり、
                          (「言継卿記」)

二人の関係は、回復した。

 喧嘩 → 五ヵ条の条書 → 触状 → 祗候 → 仲直り。
 これら一連の流れに、光秀の少なからぬ関与があった。

  【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小   160   
    信長と義昭が衝突した。
    「上意(義昭)とせりあいて下りおわんぬ」

次ぎ、参内。

 同日。
 先ず、普請現場を視察。
 その後、内裏へ。
 
  次、信長禁裏へ祗候、
  直ちに参る、
  衣冠を着し、御作事を回覧、
 
  公家、
  三條大納言、中山前大納言、四辻大納言、万里小路大納言、
  予(言継)、勧修寺中納言、新中納言、四辻宰相中将、経元朝臣、
  晴豊朝臣、言経﹅﹅、為仲﹅﹅、親綱﹅﹅、通勝、雅英、橘以継、
  源元仲等祗候なり、
 
  上へ御太刀、一腰、御馬代、千疋(10貫)、
 
  長橋局へ参られ、同宮笥(みやげ)千疋と云々、
  一盞あり、

  次、親王御方へ祗候、御対面、
  御太刀、一腰、御馬代、千疋、進上、
  御盃頂戴、

  次、大典侍(おおすけ)殿、御前に於いて見参、
  折紙千疋、進らす、
  また御盃参る、

  次、退出せられ、
  次、親王御方御酒下されおわんぬ、
  次、各(おのおの)退出しおわんぬ、

 
 信長は、半井驢庵の屋敷に移った。
 
  信長、半井驢庵所へ行かるゝの間、罷り向かい、今日の礼を申す、
                          (「言継卿記」) 

大勢の公家・大名衆が祗候した。

 同、十六日。
 山科言継の証言である。
 先述の「触状」に符合する。
 
  十六日、甲申(きのえさる)、天晴、今日より十方暮、
  織田弾正忠へ各(おのおの)同道せしめ罷り向かふ、
  中山・予・葉室、樽代三十疋、
  倉部、同、
  松木、同、
  白川、同、
  薄二十疋等なり、
 
  都鄙貴賤、これに礼を申す、
 
  三好左京大夫・松永山城守等これを見舞ふ、
 
  先に礼を申す衆、
  豊後大友使僧・但州小田垣兄弟・備州宇喜多・
  和州衆・河州衆廿人ばかり、
  引物・馬代以下、山の如し、
 
  次、公家衆見参、
  栗・串柿等これ出で、暫し雑談しおわんぬ、
                          (「言継卿記」)

  【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前  小   162
    信長は、近隣諸国の大小名へ触状を発した。

徳川家康も上洛していた。

 この時、家康は、三河の軍勢を引き連れていた。
 数は、不明。

  畿内隣国の面々等、三州より家康公御在洛。
  門前市をなす事なり。
                          (『信長公記』)

 言継が桜の馬場でその一部を目撃している。
 その華麗さ・見事さに、驚いたとある。
 二万余の人々が、これを見物したという。

  十七日、乙酉(きのととり)、天晴、申の刻(午後四時頃)より雨降る、
  葉室同道せしめ武家に参る、
  当年の御礼これ申さるゝ、
  申し次、細川兵部大輔(藤孝)なり、

  次、武家、桜御馬場に於いて、三川徳川の内衆、馬ども乗らるゝを、
  御覧さるゝ、
  予、同じく祗候、
  五十疋(匹)、逸馬・鞍・具足以下、驚目ものなり、
  見物の貴賤、二万計(ばか)りこれ有り、
               (「言継卿記」永禄十三年三月十七日条)



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