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『すっぽん発狂』



『すっぽん発狂』



すっぽんが私の手の指を食いちぎった。
だから、私はもう片方の手で暴れるすっぽんを鷲掴みにして、手荒に俎板の上に乗せた。
すると、すっぽんがふたたび甲羅からにゅうっと細長い首を突き出したので、私はすかさず、首に出刃庖丁を当てて、トンと首を切り落とした。
顔は胴からあっさり離れて、ぽとりと落ちた。
あとには真っ赤な鮮血がドバドバと噴き出した。
すっぽんはあっけなく死んだ。


そんな珍奇な夢を見ていると、階下から意味不明な奇声が聞こえてきた。深夜一時をすぎている。
おそるおそる階段を降りていくと、酩酊した父が玄関の土間に仁王立ちしており、その隣には、デッキブラシのような髪型、無闇に鼻が大きい、小太りの男が立っていた。その男は高子さんといって、父の高校時代の唯一の友人らしい。二重まぶたの優しい目をした、人のよさそうな相好の男である。


一階の奥の寝室から母が寝間着姿でやってきた。
母は憂鬱な顔をしていたが、高子さんの顔を見た途端に作り笑顔で挨拶をした。すると、高子さんが、無闇に大きな鼻を指の腹でこねくり回して、
「あ、奥さん、夜分すんません。私、高子と申します。鹿郷君とは高校のときの同級生でして。飲んだ後、鹿郷君がせっかくだからうちに来て飲んでがっしょとか言うので…私、何度も断ったんですが、結局連れて来られました。本当にすんません…あ、あと、来たばかりで大変申し訳ないんですが、ちょっと、お手洗いを拝借してもいいですか?腹の調子が悪いので」と言った。映画俳優のような渋い声だった。



そして、高子さんは革靴を土間に脱ぎ捨てて家に上がりこむと、「あ、こっちですかね?」と言って、廊下の突き当たりにある便所に入っていった。
すぐに便所の中から排泄の音がした。土間でスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外していた父は、その不快な音を聞くと顔をしかめて、上がり框にドスンと腰かけた。その隣で腰を屈めた母が控えめな声で、
「こんな夜中に友達なんか連れてきて……」
「まあ、いいでねぇか。高子と会うのは十三年ぶりなんだから、たまにはいーべや。うるせーな」
「でも、ほら。凌も起きてきちゃったし、奥で寝てるおとうさんとおかあさんにも迷惑がかかるし…」
「えーがら。おう、凌も一緒に飲むべや!」
「ちょっと、何を馬鹿なこと言ってんのよ」
「えーがら。えーがら。凌も飲むべや!」
と言った父は黒ずんだ前歯を見せて、わざとらしく手を叩きながら、がはははっと上機嫌に笑うと、
「おい、凌。ちょっくら、肩を貸してくんろ」
と言い、手汗まみれの手のひらを私の肩に置いた。



長身の父の体は重く、酒臭かった。父は上がり框のところに整然と並べてあるスリッパを踏み荒らし、廊下の壁に肩を擦りつけながら、空気人形のようにクニャクニャと揺れてリビングに入っていった。
そして、アヒアヒとかいう変な笑い声を発しながら台所へ這っていくと、蛇口に口をつけて水道水をごくごくと飲んだ。それから、冷凍庫を開けて、中の氷を素手で掴むと、妙に鼻息を荒くさせながら背後から私に近づいてきて、氷を私の盆の窪に当てた。
びっくりした私は、「何すんだよッ!冷たいな!」と声を尖らせると、父はにやりと笑った。その笑顔が気持ち悪かった。酒に酔うと、こんな幼稚なイタズラを仕掛けてくる父のことを私は軽蔑していた。


しばらくすると、高子さんが申し訳なさそうな顔をして、リビングに入ってきた。高子さんは青ざめていた。唇の血色が悪かった。もう帰ればいいのにと思った。母に手渡されたグラスの水を飲むと、
「すんません、奥さん。本当にすんません。私、便所で吐いてしまいました。便器はトイレットペーパーできれいに拭いたのですが、少し臭いがするかもしれません。私、すぐにおいとましますから…」
と言いながら頭を掻いた。そのとき、テーブルの椅子に座っている父が、太い足を組んで居丈高に、
「おい、おかあさん。せっかく高子が来てくれたんだから何か出せッ!んだな、鮒の甘露煮なんかがいいな。本当はせり鍋が食べない気分なんだが、そこまで腹が減ってないから、鮒の甘露煮を出せッ」
「やかましいわ、ボケ。早く死んでください」
台所にいる母が冷然とそう言い放つと、その日の昼飯の残り物であるワカメの握り飯と玉子焼きを皿に乗せてテーブルに置いた。形のいびつな握り飯だった。それはばあちゃんが拵えたものであり、誰もそれに手を出さなかったから残ったのだ。なぜなら、ばあちゃんは便所から出た後に手を洗わず、不衛生な素手で米を握るからである。無論、父はそのワカメの握り飯には目もくれず、玉子焼きを箸で一切れつまんで口に入れると、「なんだこれ?舌が曲がるほどクソまずい…」と言った。その玉子焼きを拵えたのはじいちゃんである。その日、じいちゃんは台所用のハサミで伸びた鼻毛を切りながら料理をしていたので、鼻毛が玉子焼きに混入していたのだ。


父の隣の席に座った高子さんは苛立っている母に、「あ、奥さん、なんか、すんませんね。おかまいなく。私、す、すぐにおいとましますので…」と言ったが、母はそれを無視した。高子さんが終始、「すみません」ではなくて「すんません」と言うことに私は少し違和感を抱いていたが、そんなことよりも私は翌日も学校があるので高子さんに会釈をして、その場を去ろうとすると、父に腕を掴まれた。腕の骨が粉砕するのではないかと思うほどの力だった。


そのとき、リビングのドアが開き、ステテコ姿のじいちゃんがぬっと顔を出した。寝ぼけたじいちゃんは鳥獣人物戯画の蛙のような顔になっており、
「なんだべまず。こんな時間に騒々しいなや。おい、少し、声のボリュームを下げてけろォ」
と耳障りな濁声で言った。唇の端にくるみゆべしの破片が付着している。寝る直前に食べたのかもしれない。じいちゃんは渋面で高子さんに目礼すると、舌打ちして、尻を掻きながら寝室に戻っていった。
すると、父は苦虫を噛みつぶした表情で、
「…まったく。酒焼け顔のクソじじいがァ。みっともねー顔しやがって。百姓めッ。生きる価値なし!」
と吐き捨てて、グラスについだビールをうまそうに飲むと、外まで聞こえそうな大きな声で、うひゃひゃひゃひゃと愉快に笑ってテーブルを乱打した。


私は父の顔にビニール袋を被せて黙らせてやりたいと思うほど苛立っていた。貧乏揺すりをしていると、母がグラスになみなみと注いだ牛乳を持ってきた。母は自分の背が低いことを昔から気にしていて、昔からやたらと私に牛乳を飲ませた。だから、私は幼稚園の時分から、吐き気を催すほど毎日牛乳ばかりを飲ませられて育った。それが今でも続いているが、私はそれほど背が高くない。長身の父ではなく母に似たのだろう。今は中学三年だが、これからあと何センチくらい背が伸びるのだろうか。


高子さんは、「凌君、すんません。こんな夜中におじさんがお邪魔しちゃったばっかりに迷惑をかけてしまって。本当にすんませんね」と言うと、私にぺこぺこ頭を下げながら、じいちゃんが拵えた玉子焼きを食べた。うまいともまずいとも言わなかった。
父が他人を家に連れてくることなど今まで一度もなかった。父の口から高子さんの話を聞いたことがなかったし、そもそも父には友達がいないのだ。
高子さんは元々、この町の人だが、今は神奈川の工場で働いており、ひとり暮らしをしているという。


不機嫌な母は、台所でガチャガチャとうるさい音を立てて洗い物をしていた。茶碗の擦れる音がする。乱暴に冷蔵庫の開け閉めをする。それらは父と高子さんに対する牽制に他ならない。早く高子さんに帰ってほしいのだ。それを敏感に察した高子さんは母に詫びるような口調で、「すんません。これもいただきます」と言うと、ばあちゃんが拵えたワカメの握り飯を食べて、「これ、うまいなぁ」と言った。


父は高子さんに私の学校の成績が悪くて、父が熱望している父と高子さんの母校でもある地元の進学校に合格できる見込みがないことなどの不満や愚痴をこぼすと、高子さんは遠慮がちに苦笑しながら、
「ああ、でも、凌君はお父さんに顔が似ているね。お母さんというよりお父さんだ。声の感じとかもそっくりだね。もし、電話で話したら、お父さんに間違うかもしれないなー。よく言われないかい?」
などと言って微笑みながら話題を変えた。
そのとき、私ははっとして、暗鬱な気持ちになった。なぜなら、それは私が他人から最も言われたくないことであるからだ。父を嫌悪している私にとって、これほど不愉快になる言葉は他になかった。



私の心は高子さんの何気ない会話で深く傷ついた。はたして、この男は本当にそう思って言っているのか、あるいは、父に気を遣ってそう言っているだけなのか。私は高子さんの顔をにらみつけながら、
「どうでしょうか。自分ではそう思いませんが…」
と言うと、テーブルを挟んで私の差し向かいに座っている父が、私の方に半身を乗り出してきて、
「うるせー、タコ。こいつは愚物なんだ。秀才のオレと違ってなァ。絵なんか描くのはうまいんだが、勉強はからきしダメでね。特にオレが学生のときに得意だった日本史と英語が不得手。赤点の連発だ」
と言った父の口から、汚れた金魚鉢を上からのぞいたときのような不快な臭気がした。私は顔をゆがめた。気分が悪くなった。父の隣でビールを飲んでいる高子さんが左手で自分の首筋をさすりながら、
「そんなことはないよね、凌君。お父さんが言うことを鵜呑みにしなくていいんだよ。だって、お父さんと凌君はあくまで別の人間なんだから。凌君には凌君にしかない良さというか、何かしらの武器みたいなものがあるはず。だから、気にしなくて大丈夫だよ。ところで、凌君は学校は楽しいかい?」
と言って私をフォローしながら、ふたたび話題を変えた。リビングは少し肌寒かった。私は急に垂れてきた鼻水を手で拭いながら、「まあ、ふつうです」と答えると、高子さんは、「ああ、そうかぁ、ふつうかぁ」と言って、頭を掻きながら小さく笑った。
そして、高子さんはスーツの上着の袂から皺だらけの五千円札を取り出すと、私に差し出して、
「凌君。今、これしかないけど、もしよかったら、これで何か好きなものでも買ってね」
と言った。それを台所で米を研ぎながら見ていた母が、「高子さん!それはダメです。そんな大金をいただくわけにはいきません!」とぴしゃりと断ったが、それでも高子さんは手を引っ込めずに、
「いや、いいんです。これはおじさんからのお小遣いだから。ゲームのカセットでも買ってね」
と言うと、私の手に皺だらけの五千円札を握らせた。その五千円札は湿り気を帯びており、少し触るとすぐに破けそうなほどフニャフニャしていた。


すると、私たちのそのやり取りをテーブルにだらしなく頬杖をつきながら黙って聞いていた父が、
「ん?ゲーム?あのピコピコのことか?高子!うちはゲーム禁止なんだ。凌にはゲームなんかやらせてない。ただでさえバカな頭がさらにバカになるからな!じゃあ、そうだな。せっかくだから、それで受験勉強用の参考書でも買わせてもらうことにすっからよ。ほら、凌。高子にお礼を言いなさい!」
と言った。私は父の隣に立ち、高子さんに頭をちょこんと下げて礼を言った。しかし、父は私のそのあやふやなお辞儀の仕方に難色を示したらしく、
「おい、凌!何だそれはァ!もっと丁寧にお辞儀をしなさい!オレに恥をかかせるな、このタコ!」
と一喝すると、私の後頭部を上から手のひらで押して、無理矢理、深々と頭を下げさせた。


父の分厚い手のひらの不快な熱が、私の何万本という髪の毛を掻き分けて頭皮に伝播すると、それが頭蓋骨を通して、頭の中に烈しい痛痒を与えた。
それはまるで脳に蛆虫が湧いたのかと錯覚するほどの苦しみだった。そのとき、私は、本当にこの男は自分の父親なのだろうかと疑うほど、父に触れられることを拒絶した。しかし、高子さんがいる手前、父の手を邪険に払いのけることができなかった。私は苦痛を我慢しながら頭を下げ続けていると、高子さんがやじろべえのような動きで狼狽しながら、
「いやいや、いいんだよ!鹿郷、やめろやめろ!凌君がかわいそうだ!なんでそんなことをするんだよ!頼む、鹿郷、もういいから。もういい。俺が悪かった。もうやめてくれ、頼む、もういいから」
と言いながら、私の頭を強引に押さえつけている父の手を振りほどこうとすると、酢でも飲んだような顔をした父が空咳をしながら高子さんをにらんで、
「オレに触るな、このやろうッ!今、オレがこのあんぽんたん息子に躾をしているところだろーがァ。おめーは口を閉じてろ、タコ!他人がしゃしゃりでるなッ!その汗臭い手を引っ込めろォ、貧乏人!」
と言うと、高子さんのカブトムシのようにツヤツヤと脂ぎった顔を手のひらでピシャンと引っ叩いた。


高子さんは一瞬むっとした顔をしたが、怒らずに父の乱暴に耐えていると、父が悪辣な顔をして、
「オレはおめーみたいな安月給男に何も言われたくねーがら。オレはおめーと違って、市役所で着々と出世しているし、市長にも可愛がられてっから。そして、医者の偉い先生の知り合いもいるし、弁護士の従兄弟もいっから。おめーは四十にもなって、独身でふらふらしているなさげねーやろうだッ。ま、この先のおめーの人生、さぞ苦労すっぺなァ!」
などと言って鼻で笑うと、グラスに残っているビールを一息に飲み干して、大きなげっぷをした。
常日頃から人間の価値を職業、地位、収入などで判断し、差別し、損得勘定ばかりで人付き合いをしている父らしい発言だった。私は虫唾が走った。そのときの父の顔がすっぽんにそっくりだった。ただし、不衛生な沼地で育った粗悪なすっぽんである。


父のすごい剣幕にたじろいだ高子さんは萎縮して栄養不良のような青白い顔をしていた。そして、顎にできているブツブツした吹き出物を気にしながら、
「…じゃあ、鹿郷君。俺はそろそろ帰るよ。今日はどうもありがとう。いつかどこかで、また会おう」
そう言って、椅子から立ち上がろうとしたとき、
バシャーンと音がして、高子さんの顔がびしょ濡れになった。母が、きゃあ、という悲鳴を上げた。
私は烈しい怒りが込み上げて武者震いした。こいつを一発ぶん殴ってやらないと気がすまない。
しかし、臆病者の私は指一本動かすことができなかった。リビングの空気が張りつめた。父は高子さんの空のグラスをテーブルに烈しく叩きつけると、
「ああ!なんだもなぐおもしろくねぇ!おめーは学生のときからそうだもんな!いい人ぶって、人気があって。同級生のバカどもはオレよりもおめーにばかりに話しかける。十三年前の同窓会に顔を出したときも、市役所で出世しているオレのことを差し置いて、みんな、くだらねぇおめーの近況を聞きたがる。どいつもこいつもバカばっかりだなァ!!」
とうそぶくと、白濁した唾を高子さんの首筋に吐いた。そのとき私は、父はなんてさびしく、あさましく、あわれな男なのだろうと心の底から思った。
父のような下劣な人間が、ひとりの大人として、ひとりの親として、ひとりの社会人として、この世の中でのうのうと生きていることは忌むべきことである。しかし、こういう人間ほど社会に紛れると、そこに隠れるのがうまくて見つけにくいのだろう。


リビングを出て暗い廊下を歩いていくと、父と母が大声で口論していた。それをとめる高子さんの声も聞こえた。私は手で耳を塞ぎながら廊下を歩いた。ふと足の裏に痛みを感じた。足元には小石のようなものがいくつか落ちていた。埃まみれの金平糖だった。金平糖はばあちゃんの好物である。私は金平糖をかき集めて一気に口に放り込んだ。自棄になっていた。金平糖はカビ臭くてひどくまずかった。



          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。


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