記事一覧
蝉の断章の記憶 第10(最終)話
急に眩暈がした。その声は目の前の男ではなく、遠くの方から——地の果てから、あるいは地中の奥深くから聞こえるようだった。男が差し出した万年筆を手に取ると、催眠術にかかったようにわたしはその本に上半身を傾けた。意識がぼんやりして……万年筆が、不安定な体勢のわたしを支えるように動いて手を引っ張った。いつの間にか、わたしは自分の名前でなく次作のタイトルを書き始めていた。
『○○の冒険』
【詩】どうしようもなく
どうしようもなく生まれたこの世界で
どうしようもなく生きてゆくのは
どうしようもなく奴隷的で
どうしようもなく自分が止まっても
どうしようもなく人も世界も動き続けるので
どうしようもなく逃避するか
どうしようもなく何も考えないか
どうしようもなく刹那的になるか
どうしようもないから立ち上がるしかない
空は今日も青い
どうしようもなく青いから
どうしようもない希望を見つけて
どうしようもない感動を追
蝉の断章の記憶 第8話
「お久しぶりですな。いやあ、全く」
男は右目が義眼であることには変わりなかった。しかし、男がわたしの顔を覗き込むように見ると頭がくらくらした。蛇に睨まれた蛙が感じるような無感情な視線の呪縛。わたしは半歩下がった。
男はしゃべり始めた。
「あの折は良いものを手に入れられましたな。どうですか。その後、何か変わったことは? 無かった? いや、きっと有ったでしょう。分かりますよ。あなたの顔にそう書いて
蝉の断章の記憶 第7話
全集を読み終えると季節は夏だった。強い陽射しが朝の窓から入り込む。蝉の合唱が始まって蒸し暑くなった。あれから自分の作品のことはすっかり忘れて、読者として人生を満喫した。
しかし、ただ漫然と日々を過ごしていたのではなかった。読んだ本には文字の形をした原石が埋もれていた。それを採集し、記憶の標本箱に陳列し、時々、出しては眺めた。飽きると、公園のベンチで太陽の光を浴び、好奇心で近づいてくる小鳥に微笑
蝉の断章の記憶 第2話
(* 過激な表現が有ります。)
中学校では、部活動をきっかけに何人かの男子や女子のグループに分かれた。あるいは、隣同士で友達に。だが、わたしはクラブに入らず、誰とも話が合わず、相変わらず一人だった。休み時間に一人で本を読んでいた。縮れ毛のリョウは空手が得意でいつもそれを見せびらかしていた。いきなり、わたしの机に片手を撃ち下ろすと小さなヒビが入った。彼は唇を歪めながら、
「なあ、金貸してくれない