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蝉の断章の記憶 第10(最終)話

 急に眩暈がした。その声は目の前の男ではなく、遠くの方から——地の果てから、あるいは地中の奥深くから聞こえるようだった。男が差し出した万年筆を手に取ると、催眠術にかかったようにわたしはその本に上半身を傾けた。意識がぼんやりして……万年筆が、不安定な体勢のわたしを支えるように動いて手を引っ張った。いつの間にか、わたしは自分の名前でなく次作のタイトルを書き始めていた。

       『○○の冒険』

 驚いたわたしは手の動きを止めようと抵抗した。が、無駄だった。ペン先は生き物ように勝手に動いた。その時わたしには見えた。次作のあらゆる情景が——登場人物の仕草、表情、運命、希望、ユーモア、欲望、震える命、愛し合うこと、雲の色、運命の記号、呪い、生と死、白と黒、光の洪水、開いては閉じる時間、動物たちの話し声、哄笑、耳をつんざく悲鳴、誰でもない影、影になる光、残像、光芒、分解、縫合されて美しく微笑む結末が——浮かんだ。

一億分の一秒の間の出来事だったが、それを万年筆は逃さなかった。指先から全てのイメージを吸い込んだかと思うと文字に変換し、信じられないスピードで書き出した。忽ち一ページ目が埋まった。だが、そこで終わらなかった。次々とページが捲られてゆく。それはもう、書くというよりインクを流し込むようだった。いきなり走り出した暴れ馬に乗っているみたいに、指は万年筆の胴に掴まっているのがやっとだった。万年筆を握った手は折れてしまうくらい揺さぶられていた。指先の感覚が麻痺し、人差し指と親指が紫色に腫れ上がった。もはやわたしは道具に過ぎなかった。流れ作業のロボットみたいに腕と指が動いた。

時間の観念が消失して、意識を失いそうになった時、本の最後のページまで来ていた。突然、何かが爆発したみたいに閃光が飛び散って、わたしは目が眩んだ。本は輝いていた。いや、輝いていたのは本ではなかった。記された一文字一文字が光っていた。闇夜に散らばる蛍みたいに。囁き合う満天の星座みたいに。万物が歌っているようで。物語は書き終えられていた。

 男は満足げに本を閉じた。すると本は光るのを止めた。もう一度男が本を開くと、文字は紙の色に同化して見えなくなっていた。わたしは何も喋ることができなかった。マラソンを走り終えたみたいに全身が疲労していた。立っているのがやっとだった。心臓は波打ち、もう動けないと主張していた。とうとう、堪えられなくなって、わたしは倒れ込んだ。男の顔が一瞬視界に入ったが、意識が遠のいて……。

 目を開くと、天井の明かりが見えた。わたしは玄関に横たわっていた。長い間そうしていたのか、足腰が、とりわけ腕が痛かった。わたしは身体を起こした。足元に本が転がっていた。確か古本屋の男がやって来たような……思い出そうとすると、頭がガンガンして邪魔をした。夢を見ていたのか。ようやく立ち上がり、バスルームで顔を洗おうとして、わたしは鏡を見た。何年も過ぎたように皺が増え、目の下に隈ができていた。
 
 部屋に本を持って戻り、自分の作品を読み返えそうと開いた。心臓が止まった。どのページも白紙になっていた。わたしは本棚に駆け寄った。買った全集の一つを抜き出してパラパラと捲る。これも白紙だった。わたしは狂ったように全ての本を抜いては開き、開いては床に投げ捨てた。どれも綺麗な白紙になっていた。

 わたしは呆然とした。目を擦り、瞼を開いたり閉じたりした。それから床に散乱した本に虚な視線を向けた。それはまるで蝉の抜け殻みたいだった。文字は羽が生えたのかどこかへ飛んで行ってしまっていた。窓から風が吹き込むとページがバラバラになり、舞い上がって輝いて頭上をくるくる回った後、散って消えた。わたしは大声で泣いていた。それは歌ではなく、冷たい残響のようだった。わたしは蝉のはずじゃなかったのか? そして残りの人生を思い切り歌うはずじゃなかったのか? だがわたしは羽を広げることができなかった。わたしは背中を割って外へ出ることができずに、死のゴールを迎えた蝉の幼虫のままだった。

 夕暮れの風に紛れて、蝉の鳴く声が聞こえて来た。あの男の笑い声に聞こえた。

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