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蝉の断章の記憶 第8話

「お久しぶりですな。いやあ、全く」
男は右目が義眼であることには変わりなかった。しかし、男がわたしの顔を覗き込むように見ると頭がくらくらした。蛇に睨まれた蛙が感じるような無感情な視線の呪縛。わたしは半歩下がった。
 男はしゃべり始めた。

「あの折は良いものを手に入れられましたな。どうですか。その後、何か変わったことは? 無かった? いや、きっと有ったでしょう。分かりますよ。あなたの顔にそう書いてある。とても充実した人生を過ごされているのですな。今までとは違う別の! あなたは生まれ変わったような表情だ! そりゃそうでしょう。何しろ、何ものにも代え難いものを手に入れたのですから」

 男は口元に愛想笑いを浮かべていた。後手に組んでいる腕はそのままだったから、わたしの視線は彼が喋っている間中、そちらを向いていた。彼が隠しているものの正体が知りたい。

「ああ、なぜ来たのかとお聞きになりたい。そうでしょうね。そりゃそうでしょうね。私だってそのために来たのですから。あなたはワクワクしていませんか? ですが、あなたが思っている以上に私もワクワクしているのですよ。これからどうなるかなと思うと」
 男は口を閉じた。

「どうなるって、何が?」
 自分が話すチャンスを逃すまいとわたしは聞き返した。
「実は、あなたが帰られてから、見つけまして」
 わたしは鼓動が早くなるのを感じた。
「見つけたって、何を?」
 男はニヤリとした。

「『何を?』ですって? いやあ、『何を?』ですって? 実はその件で今日お伺いした次第でして」
 男は後手に隠していたそれをようやくわたしに見せた。フェスティバルで買ったのと全く同じ装丁の本だった。豪華で、金箔で、ウッドの香り。男は本を、白手袋をした両手で持つと、まず表表紙を、次に裏表紙を、最後に背表紙をわたしに見せた。そこには、わたしが買った物と同じ仕様で数字が刻印されていた。「三十」だった。わたしはドキッとした。あの時買った全集は三十巻。そして最後の一巻が白紙だった。とすると……そうか! わたしは記憶を手繰り寄せた。確かこの全集の第三十巻は落丁していたのだ。とすると、落丁本でないものが見つかった? 

「そうなのです。ご想像の通り、いや全くその通りで。さすがですね。最早あなたは以前のあなたではない。どこにでもいる人間じゃない。ひとかどの人物。そう、その名前を聞けば誰でも知っているような人になる人」

 わたしは頭がくらくらした。わたしを幻惑するつもり? だめだ、相手のペースから逃れなければ。そこで勿体ぶって聞いた。
「こりゃ、ぼくの持っているやつと同じじゃないか。ちゃんとしたやつが見つかったってことなのかい?」
「左様で。完全な状態で。先生にこれをぜひお目にかけたいと思いまして」

 わたしは驚いた。聞き返そうとしたが、男があまりにも当然のようにそう言ったので踏みとどまった。「先生」? ああ、「先生」––––なんと心地よい響きだろう。今、彼はわたしをそう呼んだ。わたしは先生に値する人間になったのか。そうか、わたしはもう作家なのだ。嘘でもそう呼ばれたいと願っていたことが今現実に始まろうとしている。

待てよ。どうしてわたしが今までやってきたことや、考えたり思ったりしてきたことを、この男は知っているのだ? どこかからこっそり覗き見していたのか? わたしは男の顔と本を交互に見ながら、我慢できずに、
「先生って? それはどういう意味?」
「とぼけなくてもいいですよ。あなたがあれからどんなことをなさっていたかは存じておりますから」
 慇懃無礼な態度で男は本を開いた。

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