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蝉の断章の記憶 第9話

        『セミの断章の記憶』

 最初に目に飛び込んだ文字にどう反応すべきか? やはり、誰かがわたしと同じタイトルを使っていた。でもそれは、ひょっとしたらそうかもしれないと予想していた結果だった。タイトルがわたしの創作と同じなのは、偶然が重なっただけだとわたしは結論づけた。

次のページに、文字が並んでいるが透けて見えた。落丁本でない完全なやつが見つかったのだな。どんなふうに始まるのだろう、物語は最初と最後が一番重要だ。特に書き出しは作品全体のイメージを俯瞰する、そして読者を自分の世界に導く架け橋になる、わたしはもどかしげに、男が持った本のページを捲った。心臓が止まりかけた。

  『わたしは自分を蝉だと思った。
  自分の人生を蝉の一生に重ね合わせたのだ——』

 そこにはわたしの処女作の冒頭がそのまま記されていた。
「これは……」
私は次々とページめくった。どこまで行っても、わたしの言葉が続いていた。一字一句違わず、わたしの文章だった。最後まで行った時、わたしの顔は驚きを通り越して怒りで真っ赤になっていた。

「君、勝手に人の作品を……これは泥棒……明らかな犯罪だぞ!」
 男は不思議そうな顔をした。
「何か勘違いされているようで」
「何が勘違いだ。待っていろ」
 わたしは急いで部屋に戻った。机の上の書き上げた本を掴むと、取って返し男に向かって叫んだ。
「これを見ろ。これを!」

 本を開いたその瞬間、わたしの目は大きく見開いたままになった。
文字は並んではいた。だが、順序はぐちゃぐちゃになっていた。もはや文章の体は成していなかった。文字は勝手に動き回って、自分の好きな場所に居座っていた。椅子取りゲームみたいに。呆然とわたしは男の顔を見た。彼は表情の無い顔になって、
「先生。それをお書きになったのは確かに先生でしょう。ですが、実際にはその本が書いたとも言えるのではないでしょうか。私どもの本達は皆繋がっておりまして。全体で一つの存在とお考えください。言わば一つの生態系と言いますか。よく起こるのですよ、こういったことが」

 わたしは男の言葉を遮った。男が持っている本を指差し、
「違う、違う、違う! それはわたしが書いたものだ。俺は見なくても全部再現できるぞ。俺が書いたからだ。それをお前はこっそりすり替えたのだろう。このイカサマ野郎!」
 わたしは男に掴み掛かろうと手を伸ばした。男は宥めるようにわたしの腕を握ると、慇懃無礼のまま、
「まあまあ、落ち着いてください、先生。こうも考えられるじゃありませんか。先生は保護色という言葉をご存じでしょう。元々、本には紙と同じ色で文字が並んでいた。だから見えなかった。でも先生のおかげでそれが見えるようになった。先生が文字を目覚めさせたのだと思いませんか。卵が母鳥の情熱で孵るように。草木の芽が太陽の呪文で土を押し上げるように。彼らは先生の愛情に満ちた眼差しを待っていたと思いませんか?」

 わたしは冷静さを完全に失っていた。このままだとわたしの産み落とした大事な子供を横取りされてしまう! そんなことが許される訳がない! 何とかしなければとわたしは焦った。やっとのことで声を絞り出すと、
「ふざけたことを言うな! これは絶対にわたしのものだ、それが証拠に……」

 わたしは口をつぐんだ。次作のことをしゃべろうとしたが、この男がそれも盗むのではと防衛本能が働いたのだ。時間を稼ぐ必要があった。男の持っている第三十巻を何とかして取り返そうとして、
「立ち話も何だから、中へ」
 と言いかけた時、男はまるで手品のように、本を背中に隠し、再びわたしの前に戻した。なぜだろう、白手袋だけが目立って、男の姿がぼんやりと浮かんでいるように見える。白手袋は続いて、表表紙、裏表紙、そして背表紙の順でわたしにそれを見せた。タネも仕掛けも無いことを確認させるように。背表紙の数字は三十一に変わっていた。わたしは目をパチパチさせる。全集の続編? それとも別の? 

頭が整理されないうちに、男は、
「とっておきの提案がございます。ここに、この全集の新作の第三十一巻がございます。私はこれをあなたに差し上げたいのです。あなたがご了解なさればの話ですが。これはお客様にとって、生涯手放せない素晴らしい宝となるでしょう。なぜなら、新しい世界観を世に示す稀有な新作だからです。それが、あなたの手によってなされるということなのです。何かの折にそれを世に示せば、別次元の生活を送ることができましょう。加えて、蔵書もどんどん増えましょう。その代わりと言ってはなんですが、今までお持ちになっていた三十巻を引き取らせて欲しいのです。お買いになられた倍のお値段で結構です。ご了解いただければ、全て丸く治ります。私共もあなた様も未来が美しく輝くのでございます。今までのお客様は残らずご賛同くださいました。お陰様で晴れてこんな全集となったのでございます」

「つまり、蔵書を手放す代わりに、別の一冊をわたしにくれると?」
「左様でございます。その一冊は計り知れない価値を生むと信じております」
 再び、フェスティバルの時のように、わたしの脳みそは非常な勢いで回転し出した。わたしの処女作はただで寄贈され、その代わりに得体の知れない一冊が手元に残る。だが、わたしは抜け目なかった。彼がそんな提案をするということは、わたしの作品の価値がいかに高いか、自ら証明したことになろう。そして、わたしの作品の著作権料収入は、全集の額などとは比較にならないほど高額になるだろう。今までの買い手はきっと目先の僅かな利益に目が眩んだのだ。あるいは、何の才能も無いか、日々の生活に困っていたかで、大局観のない奴らばかりだった。

「人生は幸運か不運かの選択をいつも迫ります。お客様は今、Y字路に立っていらっしゃる、右へ行けば幸運、左は不運でございます。私はそこに立っている人間がどうされるのか見るのがとても好きなのです、その瞬間、人間の生そのものが透けて見えるからでございます。決断は人生に幸運を、躊躇は不運を招きましょう」

「何を言っている! そんな提案、飲める訳がないだろう。とにかく、わたしの作品を返してくれ」
 わたしが再び、男を部屋へ引っ張っていこうとするのを制して彼は、
「お客様、そう、結論をお急ぎにならずに。それでは、これでいかがでしょう。三十巻とは言いません。二十九巻まで引き取らせてください。でも三十巻はお互い様ということで。さらに、特別にお持ちした新発見のD氏の直筆の作品がここに。これはまだ、世に出回っておりません。あなたは、彼の身内以外に初めてこれをご覧になる、これを差し上げましょう。彼の直筆であるという正式な鑑定書もお付けしています。いかがでしょうか?」

 わたしは、もはや聞く耳を持たなかった。何がお互い様だ。わたしのものはわたしのもの。開き直った泥棒猫に取られてたまるか。わたしあからさまに不機嫌になった。頑として譲らない状態で、二人は長い間対峙した。昼下がり。鳴き止んだ蝉に代わって沈黙が訪れ。男はとうとう、諦めたように大きなため息をついた。表情はとても冷たい感じになり、急に早口になると、
「分かりました。ここに先生のサインをお願いしたいのです」
と言って、第三十一巻の最初のページを開いた。風が入り込んでページが捲れた。白紙ばかりが続いていた。
「何これ? 何のために? 何も書いてないじゃないか?」
「大丈夫ですよ、先生。さあ」

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