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本能寺の変1582 第74話 11光秀の年齢 4最大の敵 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第74話 11光秀の年齢 4最大の敵 

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二つの大遠征。

 天正十年(1582)の内に、二つ。
 何れも、予期されていたものである。

間を置かず。

 その間隔が、あまりにも短かすぎた。
 結果的に、そうなるのだが・・・・・。 

一、甲斐遠征。

 三月五日、出陣。
 四月二十一日、帰陣。
 総延長、およそ、1000㎞。
 これは、無事、完了する 

  四月廿一日、安土に御帰陣。 

一、中国遠征。

 その、わずか一ヶ月後。
 五月十七日、発令。
 行程・兵力等々、全てにおいて、前回を大きく上回る規模。
 織田家の威信をかけ、総力を上げた、戦いとなる。

 同じ頃、備中では、秀吉が高松城を攻めていた。
 秀吉は、信長へ現地の戦況を頻繁に報告していた。

  中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
  すくも塚の城、あらあらと取り寄せ、攻め落し、数多討ち捕り、
  並びに、ゑつたが城へ、又、取り懸け侯ところ、降参申し、
  罷り退き、
  高松の城へ一所に楯籠るなり。

  又、高松へ取り詰め、見下墨(みさげすみ)、
  くも津川・ゑつた川、両河を関切り、水を湛へ、
  水攻めに申しつけられ侯。

 そこに、毛利の本軍が現れた。
 秀吉は、巧妙だった。
 高松城を囮にして、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景を誘い出した。

  芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。

信長は、好機を逃さない。

 即座に、決断した。 

  信長公、此等の趣聞こしめし及ばれ、
  今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
  御動座なされ、

                          (『信長公記』)

光秀は、石谷頼辰を土佐へ派していた。

 そもそも、信長は、中国攻めを「来秋」としていた。
 光秀は、それに合わせて、石谷頼辰を土佐へ派した。

   【参照】8光秀の苦悩 6守るべき者 50   

光秀は、窮地に追い込まれた。

 ところが、信長は、それを「急変」した。
 このことにより、光秀は、絶体絶命の窮地に陥ることになる。

 これらについては、後述する。

信長の脳裏には、武田勝頼の首。

 すなわち、「武田効果」。

  此の如く、卅日・四十日際に一偏に属するの事、
  我ながら驚き入る計りに候、
          (「松井友閑宛黒印状写」「織田信長文書の研究」)

   【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 66    
   【参照】11光秀の年齢 2柴田勝家と滝川一益 71   

信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。

 斯くすれば、「天下布武」は、成る。
 信長は、そう、思っていた。

  中国の歴々討ち果たし、 

信長は、さらに九州を平定しようとた。

 それからの、残敵掃討。
 光秀の軍勢は、中国から九州へ。

  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

信長は、光秀に先陣を命じた。

 光秀は、信長直属の軍勢である。
 西国攻めは、「天下布武」の総仕上げ。
 総指揮官は、あくまでも信長自身。

 秀吉の下につくに、あらず。
 その指揮下に入るのではない。

  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。
                             
 光秀は、準備のため坂本へ帰った。

  五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
  何れも々々々(他の面々も)、同事に本国へ罷り帰り侯て、
  御陣用意侯なり。

                          (『信長公記』)

 これらについては、後述する。


 ⇒ 次へつづく 第75話 11光秀の年齢 4最大の敵 








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