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本能寺の変1582 第110話 13上総介信長 8兄、信広の謀叛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第110話 13上総介信長 8兄、信広の謀叛 

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三郎五郎殿、御謀叛の事。

 弘治三年1557。
 勝利の翌年である。
 春。
 束の間の平穏。

 今度は、兄(庶兄)が背いた。

  一、上総介殿、別腹の御舎兄、三郎五郎(信広)殿、
    既に、御謀叛おぼしめし立ち、

信広は、斎藤義龍と通じていた。

 美濃から、魔の手が伸びた。
 「調略」
 信広を唆(そそのか)した。
 清洲城乗っ取りを策す。
 
  美濃国(義龍)と仰せ合はされ侯様子は、

 信長を誘き出し。
 その「隙」を衝く。 

  何時も、御敵罷り出で侯へば、軽々と、信長、懸け向はせられ侯。
  左様に侯時、彼の三郎五郎殿、御出陣侯へば、
  清洲町通りを御通りなされ侯。
  必ず、城に留主に置かれ侯佐脇藤右衛門、罷り出で、馳走申し侯。

  定めて、何(いつ)もの如く、罷り出づべく侯。
  其の時、佐脇を生害させ、付入りに城を乗つ取り、相図の煙を揚ぐ
  べく侯。

 そして、挟み撃ち。
 
  則ち、美濃衆、川をこし、近々と懸け向ふべく侯。
  三郎五郎殿も、人数出だされ、御身方の様にして、合戦に及び侯はゞ、
  後切り(=後ろから切り懸かる)なさるべしと、

 信広は、義龍と手を組んだ。

  御巧みにて、仰せ合せられ候。

義龍が尾張へ向かった。

 いつになく、落ち着かぬ様子だったという。
 早速、信長の知るところとなった。
 
 美濃衆、何々(いついつ)より、うきうきと(そわそわと)、(川を)渡り、
 い(あ)たり(付近)へ、人数を詰め侯と注進これあり、

信長は、用心深い。

 兄弟とて、信じられぬ世の中だった。
 一寸先は、闇。
 伏兵は、どこに潜んでいるかわからない。 
 信長は、怖れた。
 「謀叛」。
 出陣も、ままならぬ状況だった。
 
  爰(ここ)にて、信長御諚には、
  さては、家中に謀叛これありとおぼしめされ、

 
信長は、留守居役、佐脇藤右衛門に厳命した。
 何人たりとも城中に入れるべからず。

  佐脇、城を一切出づるべからず。
  町人も、惣構をよく(城下の警固を厳重に)、城(木)戸をさし堅め、
  信長御帰陣侯まで、人を入るべからずと、仰せられ侯て、

信長、出陣。

 美濃勢へ向かった。

  懸け出させられ、御人数出だし侯を、

信広は、清洲へ向かった。

 いよいよ、乗っ取りである。

  三郎五郎殿きかせられ、人数打ちふるひ(残さず)清洲へ御出陣なり。

 
しかし、入城を拒否された。

  三郎五郎殿御出でと申し候へども、入れ立て侯はず、

信広の謀叛は、失敗に終わった。

 野心は、潰えた。

  謀叛聞こえ候かと、御不審におぼしめし、急ぎ早々御帰り、

義龍は、軍勢を引いた。

 謀議は、水泡に帰す。

  美濃衆も、引き取り侯ひき。

信長は、帰陣した。

 信長の予期した通り。
 用心深くなければ、生き残れない時代だった。

  信長も、御帰陣候なり。

信長は、孤立していた。

 この時、二十四歳。
 四囲は、皆敵。
 戦いは、つづく。

  一、三郎五郎殿御敵の色を立てさせられ、
    御取合半に候(戦いの最中である)。

    (信長が)御迷惑なる(苦戦している)時、
    見次(継)者は、稀なり(味方する者はいない)。

信長の家臣は、七、八百。

 これが、直臣。
 信長の親衛隊である。
 
精鋭揃えだった。
 「一度も不覚これなし」
 太田牛一の自慢である。

    ケ様に、攻め一仁(一人=集中攻撃される状態)に御成り候へども、
    究竟の度々の覚えの侍衆七、八百、甍(いらか)を並べ御座候の間、
    御合戦に及び、一度も不覚これなし。
                          (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第111話 13上総介信長 9斯波義銀の裏切り 


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