本能寺の変1582 信長、死す 是非に及ばず 4 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長、死す 是非に及ばず 4
明智の軍勢が本能寺を取り囲んだ。
光秀は、少し離れたところに本陣を構えた。
既に、信長公御座所本能寺取り巻き、
大喊声が沸き起こった。
攻撃が始まった。
勢衆、四方より乱れ入るなり。
信長は、これに気づいた。
何やら、外が騒々しい。
小姓たちが走った。
慌ただしい空気が流れる。
「もしや」
・・・・・。
不吉な予感。
信長も御小姓衆も、
当座の喧嘩を下々の者ども仕出(しだ)し侯と、
おぼしめされ侯のところ、
「謀叛」
明智勢が鉄砲を打ち込んだ。
信長は、これで、わかった。
「ならば」
頭脳が激しく回転する。
「何者ぞ」
・・・・・。
一向さはなく、
ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ侯。
是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、
御諚のところに、
是非に及ばず。
「惟任光秀」
一瞬、その顔が脳裏を過(よぎ)った。
信長は、覚悟を決めた。
森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と言上侯へば、
是非に及ばずと、上意候。
(『信長公記』)
時は、容赦なく流れていく。
⇒ 次回へつづく 信長、死す 是非に及ばず 5
目次大 信長、死す 1~7
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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