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本能寺の変1582 信長、死す 是非に及ばず 7 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長、死す 是非に及ばず 7 

本能寺、炎上。

 御殿に火の手が上がった。

  既に、御殿に火を懸け、焼け来たり侯。

信長は、納戸に入った。

 ここが最期の場所となる。
 己の死に様を見せたくなかった。

  御姿を御見せ有る間敷(まじ)きと、思し食(め)され侯歟(か)、
  殿中奥深く入り給ひ、
  内よりも御南戸(納戸)の口を引き立て、

夢幻の如く也。

 燃え盛る炎の中で。
 自らの命を絶った。
 
  無情(なさけなく)、御腹めされ、

                      (『信長公記』)

 程なく、本能寺は焼け落ちた。
 全てが灰燼に帰す。

享年、49。

 斯くして、信長の「天下布武」は終わった。
 実に、あっけない最期であった。
 諸行無常。
 万物流転。
 時は、流れるを止めず。
 その終焉は、次代の始まりにすぎない。
 戦国の世は、つづく。

        ⇒ 次回へつづく  信長、死す

目 次
目次大

目次大 信長、死す 1~7 
目次中 信長、死す 1~7
目次小 信長、死す 1~7

信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

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