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日本と世界、世界と日本、なんとも大風呂敷なタイトル

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#パレスチナ問題

フランシーヌの場合 〜 ジョン・レノンの場合

フランシーヌの場合 〜 ジョン・レノンの場合

今日 3月30日は, ベトナム戦争とナイジェリア内戦(ビアフラの飢餓)に心を痛めていたとされる フランシーヌ・ルコント(当時30歳)が, パリの路上で 焼身自殺した日(1969年)。同じく 3月30日は, パレスチナの「土地の日」(由来は 1976年のその日, 後述)。さらに 3月30日は, 昨年から今年にかけてライヴ演奏とオンライン配信によるパレスチナ・ガザ支援のキャンペーンを行なったエリック・

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「西洋」の 欺瞞 と 偽善 〜 さらば バーニー・サンダース, さらば リチャード・ドーキンス, くたばれ ユヴァル・ノア・ハラリ, くたばれ ボブ・ディラン, ついでに言うと, ぼのぼの は好きだが, U2 の ボノ は最低だ

「西洋」の 欺瞞 と 偽善 〜 さらば バーニー・サンダース, さらば リチャード・ドーキンス, くたばれ ユヴァル・ノア・ハラリ, くたばれ ボブ・ディラン, ついでに言うと, ぼのぼの は好きだが, U2 の ボノ は最低だ


前説: 本 note は 一言で言うと(一言が長い!) 〜 この秋 あらためて認識した, 今度という今度はつくづく, つくづく, 正真正銘つくづく, つくづく うんざりした, 「西洋」の, 欧米の, 彼らの民主主義・自由・公正・公平・平等といった概念の裏にある 欺瞞 と 偽善 と ダブルスタンダード についての 殴り書き, 走り書き, 端折り書き 〜 要するに, 「西洋」の偽善 に関する, ざっ

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イスラエルの歴史家・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論考批判

イスラエルの歴史家・哲学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「人類と新型コロナウイルスとの闘い」論考批判

序最初にことわっておくと、タイトルの「批判」の意味はおそらくは一般に多用されているような「否定的な評価」というような意味合いでの「批判」だけを意味しているのではありません。「批判」には元々、上記のような使われ方における意味の他に、その対象に検討を加え、判定もしくは評価すること、という意味があります。平たく言えば、良い点、悪い点を見分け、評価なり判定なりを行なうという作業です(その他に哲学における用

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1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集

前説最初に念の為に書いておくと, この前文の下にある 本 note 目次つまり旅 note リンク に付いている, それぞれのタイトルには, 「(写真 .. 枚)」と書いてあったりなかったりするものがあるのだが, 後者であっても, すなわちそうした記載がなくとも, 殆どの note にそれぞれの土地で撮った写真は掲載してある。ではでは。

さて, 以下の前文は, 本 note を投稿する今日 2

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ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日

ガザ地区, 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月16-18日

パレスチナのガザ地区は現在の軍事封鎖下の環境と違い, (当時も今も変わらずイスラエルの軍事占領下にある)パレスチナのヨルダン川西岸地区と同様に, 当時はやはり軍事占領下の地域だった(もちろん同じくイスラエルによる!イスラエルのせいで説明が毎度毎度ごちゃごちゃする地域だね)。1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ諸国を旅し, 1ヶ月いたギリシャを発って中東(西アジア)諸国の旅を始め,

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ナブルスの大学を再訪(被占領地パレスチナ) 〜 1983年10月15日

ナブルスの大学を再訪(被占領地パレスチナ) 〜 1983年10月15日

タイトル写真は, 1983年10月13日のナブルスの街。滞在していたエルサレム(旧市街のある東エルサレム, ヨルダン川西岸地区の他の地域と同様に1967年6月以降イスラエルが複数の国連安保理決議に違反して2021年の今も占領中の地)から日帰りの旅で西岸地区にあるナブルス(ナーブルス)を初めて訪れ, そこでパレスチナの大学 An-Najah National University に行って学生たちと

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大学を訪ねたビルゼイト, ナブルス; 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月12, 13日

大学を訪ねたビルゼイト, ナブルス; 被占領地パレスチナ 〜 1983年10月12, 13日

1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り
1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発って

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ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日

ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日

1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ・トルコ・シリアを旅し, 同年9月19日にシリア・アラブ共和国の首都ダマスカスを発って陸路, ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンへ。ヨルダンではアンマンの他, アカバとペトラに行き, ペトラからアンマンに戻り, その後, アンマンから陸路, というかヨルダン川を渡って, イスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下ヨルダン川西岸地区に入り,

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ダッハウ強制収容所(ナチス・ドイツによる最初の強制収容所)跡を訪ねた, 1983年6月21日

ダッハウ強制収容所(ナチス・ドイツによる最初の強制収容所)跡を訪ねた, 1983年6月21日

ダッハウ強制収容所 跡, 訪問 〜 1983年6月21日(写真7枚)
1983年4月26日に日本を発ってソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, 西ドイツ及び当時はアメリカ合州国・イギリス・フランスの占領下だった西ベルリンと東ドイツの東ベルリン, ベルリン・ケルン経由でフランス, スイス, 再び西ドイツに入りハイデルベルク, ミュンヘン, フュッセン経由でノイシュヴァンシ

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スイス, ジュネーヴ滞在 〜 1983年6月13日, ジュネーヴ第4条約を想起しつつ BGM は King Crimson, Pink Floyd & more ♫

スイス, ジュネーヴ滞在 〜 1983年6月13日, ジュネーヴ第4条約を想起しつつ BGM は King Crimson, Pink Floyd & more ♫

1983年4月26日に日本を発って49日目, 直前10日間滞在したフランス, パリを振り返る1983年6月3日朝6時半頃から 6月12日夜11時59分まで(細かい!)10日間滞在したパリを振り返ろうと思ったのは, 1983年6月12日夜11時59分(日記によれば, だけど筆跡は11時「54分」にも見えて微妙, 細かい!)パリ・リヨン駅発の夜行列車に乗って, 翌6月13日朝(この日は何時何分とか書い

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自称「イスラム思想研究者」 批判 〜 キリないから正直もう面倒くさいのだが, その露骨なテク(略してローテク)があまりに醜悪なのでね

自称「イスラム思想研究者」 批判 〜 キリないから正直もう面倒くさいのだが, その露骨なテク(略してローテク)があまりに醜悪なのでね

自称「イスラム思想研究者」とは広い世間では「知る人ぞ知る」ぐらいの存在ではあるものの, 今や悪名高まった面もあってけっこう名が売れてきてる 飯山陽 のこと。因みにタイトル上のイメージは 飯山陽 とは「直接的な」関係はない, 念のため。あれは本 note 投稿の最後に, しょうもない話題の後には気分転換が必要だよね, 音楽でも聴こう, でもここでは折角だから Musicians For Palest

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