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思考整理の文章置き場

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日記ではない長文のエッセイや、もぐら会「書くことコース」の原稿などをまとめています。
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#日記

気づかずに通り過ぎることだけは避けたい愛を書き連ねる

気づかずに通り過ぎることだけは避けたい愛を書き連ねる

・夏の早朝の透き通った空気

夏の朝はやく、5時でも6時でもいい。
まだ暑くなる前の透き通った空気、騒音のない静かな雰囲気、誰にも汚されていない時間帯。まだ鳥も人間も目が覚めていないような、世界中がまだ眠っているような、そんなぽっかり穴があいたような空間にただひとり、起きる。この世界をはじめるのはわたしだ、と高らかに宣言しても誰も聞いていないような、そんな見放された時間がとにかく好きだ。

・ヨー

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命の不可逆性についてふと思ったので

命の不可逆性についてふと思ったので

わたしたちは、「あれ・それ・だれ・これ」があることを当たり前だと信じ、失われなわれるはずがないと願う。同じや繰り返しをどこか嫌悪しながら、恒常的な存在を「当然繰り返されるべき事象または現象」と信じる。
あるいはそのような強い思想はなくとも前提条件として意識する。だから、そこから逸脱する出来事にひとつひとつ衝撃を受ける。

誰かの死、事故、突発的な事象におののく。

でもほんとうは、日常で続いている

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巡礼路、大地を踏みしめて歩いたことの確かな記憶。

巡礼路、大地を踏みしめて歩いたことの確かな記憶。

今日、NHK BSプレミアムで「聖なる巡礼路を行く 〜カミーノ・デ・サンティアゴ 1500km〜」という番組が放送されていた。

全三回放送のこのシリーズは、1ヶ月ほど前すでにBS8Kの高画質でヨーロッパの大地、青空、草花、石垣、教会、巡礼路を美しい色合いそのままに視聴者に届けていたらしい。反響があったことからBSプレミアムで放送、初回が本日だった。フランス国内のLe Puy-en-Velay(ル

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主体性と、個人主義と、相互作用。

主体性と、個人主義と、相互作用。

今日、渋谷の街を歩いていたら、百貨店の入口の扉に貼られた「当面の間」まで営業を中止するという案内を見かけた。シャッターは降ろされ内部の様子はうかがうことはできないが、いつもの賑やかさは遠く記憶の向こうに追いやられている。当面の間という言葉の解釈、その具体性、判断は各自に委ねられているのだろう。当面、当分、いつまでかはわからないけれど一定期間。

フランスのカフェやレストランでの張り紙では閉店を顧客

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しなやかな強さを求めて生きたひと。須賀敦子の面影を探して

しなやかな強さを求めて生きたひと。須賀敦子の面影を探して

イタリアのミラノにあるサン・カルロ書店(旧・コルシア・ディ・セルヴィ書店)に訪れたときのことはいまでもはっきりと、覚えている。

作家・エッセイスト須賀敦子の著書に登場するコルシア・ディ・セルヴィ書店。『ミラノ 霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』など作品のなかで何度も舞台となったこの場所は、イタリアのミラノの中心部、ドゥオーモから歩いて10分程度のサン・カルロ教会の建物の右隣にひっそりとたたずん

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正しさを押しつける言葉はひとのためにならない。

正しさを押しつける言葉はひとのためにならない。

「ゆんちゃんが言うことは正しすぎて、何も言われへんくなるよね」。

同級生の結婚式で数年ぶりに再会した高校時代の友人がわたしに向かって言った。テーブルに美しく盛り付けられた料理をよそに、記憶をたぐりよせ、相手に何も言えなくなるような状況を与えていたのかと驚き半分、たしかに正論を盾にして自分の主張を押し付ける側面もあったなと納得半分で「そうやったかもしれへんなあ」と昔の自分を振り返りながら、適当に相

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書くことの原点に立ち戻って、2020。

書くことの原点に立ち戻って、2020。

頭の中に浮かぶアイデアや抽象的にあふれる思いや感情を言語化することはいつだって、重要である。仕事をする上でも友人同士においても、自分が思っていることを人に伝えないでいては、なにもなかったことになる。さらに悪い場合、発言しないことで「なにも考えていない」「その場にいなくてもいいのでは」と捉えられることもあるだろう。

幸いわたしたちにはブログやnoteというサービスがあるから、専門技術をもたずとも自

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うまくいくかどうか、パスカルの賭け。

うまくいくかどうか、パスカルの賭け。

2019年もそろそろ終わりに近づいて、あと30分ほどで2020年1月の幕が開けようとしている。今年の出来事をどうにか整理してみたいなという気持ちにかられて、いま勢いだけで思いつくままに総括をしてみよう。



そもそも年始にわたしは今年の目標を立てなかった。立てる必要性がなかったのかもしれないし、立てたところでそれは現実から遠く離れた場所にありすぎて手が届くなんておこがましいとも感じていたのかも

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振り返ることは、うしろ向きではない。

振り返ることは、うしろ向きではない。

気分が落ちているときはじっとその波が通り過ぎるのを待つのだけれど、波があまりにも激しいときはそのいきおいで全てを手放したくなる。あれもやめ、これもやめ。ぜーんぶいちからやり直し。だれにも文句はいわせない、だってこれまで社会は散々わたしに面倒を押し付けてきたじゃないか、一度くらい投げ出してもいいんじゃないのって、いま動かなくていつ終わりにできるのかって。

前にむかって進むことだけを考え、成長、進歩

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オルガ・トカルチュク著「昼の家、夜の家」を泣きながら読む。

オルガ・トカルチュク著「昼の家、夜の家」を泣きながら読む。

小説を読む意味ってなんだろう。

それはとても非生産的で効率が悪くてむしろ時間の無駄だと思われるかもしれない。ある人はこう言っていた。「小説は他人の空想。そんなもの限られた自分の時間で読む必要はない」と。でも、出会うべき一冊に出会ってしまったなら彼・彼女の人生にとってその作品と出会えた価値はかけがえがなくて、物語を通じて得た経験は生産的だし、効率的だし、むしろ誰よりも時間を有効に使ったと感じられる

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問いを与えられる喜び。哲学の美しさをバカロレア試験から。

問いを与えられる喜び。哲学の美しさをバカロレア試験から。

こちらに向かってくると思っていなかった質問をふと放り投げられる。立ち止まり、どれどれと題を手にとって考えてみると、頭のなかにあった情報が客観化され整理立てていくうちに自分だけの論が生まれる。それが哲学だ。

哲学をすることは面白い。わたしは、フランスのバカロレア(baccalauréat)試験で必須とされる哲学の出題を毎年何よりも楽しみにしていて、これをフランス人学生たちが18歳の時点で問われるん

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『夜と霧』 "生きる意味を問う"意味についての結論とは。

『夜と霧』 "生きる意味を問う"意味についての結論とは。

ヴィクトール・E・フランクル著の「夜と霧」を読む。もぐら会の参加者が勧めていたもので、この本の前に心理士のエッセイを読んでいたから連続して読むと相乗効果がありそうだと、手に取った。

が、作品の中で書かれた現実はあまりにも深刻すぎて、わたしが想像するだけでは事実に到底及ばない。まったく補えない。苦しい、そして息がつまる。ただ心理学者がこのテキストを書いていることから、文章はどこか客観的でもある。そ

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自分自身で自分の傷を癒すことは可能か、ケアとセラピーを考える。

自分自身で自分の傷を癒すことは可能か、ケアとセラピーを考える。

最近エッセイスト紫原明子さん主催の「もぐら会」というコミュニティに参加することになった。今流行りのオンラインサロンみたいなものにはどちらかというと毛嫌いしていたし、性格としても優柔不断なわりにはピンときたものにはすぐ行動するので、参加してからじわじわと「コミュニティに参加したことの意味」を感じ入っているところである。

さて、その会で主催者の紫原さんがお勧めしていた本、「居るのはつらいよ: ケアと

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足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人にしかわからないのか論

足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人にしかわからないのか論

ぐうの音もでない、それを言うと何も反論できない、という言葉がある。水戸黄門の印籠のようにかざせば他者の言葉を封じることはできるが、残念ながらその後に与える心象は最悪だ。吐き出された相手には、「ああ、こういうことを言う人なんだ」「断絶をしたいんだな」とネガティブに受け取られてしまう可能性がある、それほど強い言葉。

「足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人にしかわからない」。

大学時代、学んでいた社会

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