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正しさを押しつける言葉はひとのためにならない。

「ゆんちゃんが言うことは正しすぎて、何も言われへんくなるよね」。

同級生の結婚式で数年ぶりに再会した高校時代の友人がわたしに向かって言った。テーブルに美しく盛り付けられた料理をよそに、記憶をたぐりよせ、相手に何も言えなくなるような状況を与えていたのかと驚き半分、たしかに正論を盾にして自分の主張を押し付ける側面もあったなと納得半分で「そうやったかもしれへんなあ」と昔の自分を振り返りながら、適当に相槌をうった。

高校時代、わたしはよくクラスメイトに嫌われていた。高得点をとれば恨まれたし、はっきりものをいう性格がとりわけひとを苛立たせたらしい。こちらの立場からすれば、成績がよくて何がいけないのか、自分の主張をなぜ周囲に伝えないのか、わからないのだが、居直るような態度こそが嫌悪感を増幅させたのだろう。そして相手に直接問うと、泣き出してしまったり、ネットで執拗に悪口を書かれたりもした。先生が良き理解者であり、味方でもあった。みんなで仲良くするのは大事、ただし学業はもっと優先事項。信頼できるのは自分自身のみ。そして先生たちに気に入られたほうが自分に対する扱われ方も変わると分かっていた。親切に扱ってくれる大人と出会えた運が良かったというのも前提なのだが。

いまだに友人からは、当時はほんとうにいやな奴だったと言われる。引きずってはいないけれど、若干の反省はしているかもしれない。

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あたらしい年の幕が開けても、年末と変わらず実家の部屋の書類の片付けをしていた。小中高いろんな時代の、いろんな紙の情報類が束になって段ボール箱や机の棚から現れる。当時、自身の思考に影響を与えた本をみつければ、その度にぱらぱらとページをめくって、頭のなかに染み込んだ記憶を立体化して、再構築する。本の一節に感化された自分を思い出す。大江健三郎の「沖縄ノート」を読めば沖縄を知りたくてひめゆり平和祈念資料館に足を運び、野田秀樹の「定本・野田秀樹と夢の遊眠社」を読めば演劇のおもしろさに魅了され、ゲーテの格言のひとつ『歴史を書くのは、過去を脱却する一つの方法である。』のフレーズが気に入れば過去を顧みない生き方に憧れてブログを始め...行動につながったことの記憶を蘇らせた。そして頭をうならせて書いたであろう文集、研究課題、大学時代のレポートは、己の過去の思考の旅へと誘った。

その中でじっくりと読み込んだのが、高校卒業前に教師から頼まれた後輩への進路相談のアドバイスだった。コピーとして保管していたその用紙に堂々とした筆跡で、迷いもなくこう書いてある。

「嫌だと思いつつ長時間ダラダラ勉強して、頭の中には入っていないのに、勉強したという気分になるのは間違いです」。

思慮もあたたかみもなく、決めつけだけが居座る。たった18年しか生きていないあなたにいったい勉強の何がわかって、何を言える権利があるんだと笑ってしまった。まったくもって、えらそうに。

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あらためて考えると、自分が持つ能力は先天的なものではなく後天的に努力で培ってきたものだから、誰でもできることなのだと信じていた。運良く行きたい大学に合格し、理想の道への切符を手にして、親切心のつもりで「勉強とはこうである」などといった見解をあたかも正義のように断定してしまった。

でも、わたしは何かを決めつけられるほどの人間なのか。断定できるほどの責任を持てるのか。そもそもいったい、どの立場からその発言ができるのか。なにを根拠にそう決めつけられるのか?

高校時代のその一文に、こんな自分だったら嫌われて当然だと納得した。「あなたはそうかもしれないけれど、わたしはそうではない」とはっきりと言ってくれる友人だけが今でも付き合いがあるような気もする。裏返せば、いろんなひとを傷つけてきたのだろう、「間違っている」と断定することが必ずしも他者を良い方向に導くとは限らないし、正論を振りかざしてもひとは動かない。

あのひとは絶対にこうだとか、あのひとの考えはおかしいとか、大人になると、経験の量に比例して決めつけてしまうこともあるだろう。脳内のビッグデータを処理し、出てきた解答で反射的に物事をあてはめてしまうことも、出てくるはずだ。

経験が積み上がった今だからこそ、頭はやわらかくありたい。一方的に正しさを押しつける助言は、ひとのためにならない。正しさを訴える自己満足は、相手に不快な印象を抱かせてしまう。頭の中に入らずとも勉強をしている行為が好きで、本人が納得しているならそれで十分だ。間違っていると誰かにとやかく言われる筋合いはないし、好きなように取り組めばいい。そもそも、さまざまな背景や条件が異なるなかで、絶対的な正しさを見つけるのはむずかしい。「こういうひともいるよね」「そういうこともあるよね」と思えるひとの方が他者に対して寛容になれる。もちろん、譲れない場面では戦うことも重要である。その折り合いをつけながら柔軟になれる人こそが人生の不条理に出会ったときも、もしかすると、時間とともに困難を乗り越えられるのかもしれない。

相手がぐうの音もでなくなるほどの、反論できない正しさを押し付けるいやな奴になるのではなく、自戒をこめて、何かを決めつけようとするときに、何度でもこの言葉を思い出そう。

「そうだ、全くぼくは一個の旅人、地上の巡礼に過ぎない。

 君たちはいったいそれ以上のものか。」

(ゲーテ「若きェルテルの悩み」第二部六月十六日、から)


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