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うまくいくかどうか、パスカルの賭け。

2019年もそろそろ終わりに近づいて、あと30分ほどで2020年1月の幕が開けようとしている。今年の出来事をどうにか整理してみたいなという気持ちにかられて、いま勢いだけで思いつくままに総括をしてみよう。

そもそも年始にわたしは今年の目標を立てなかった。立てる必要性がなかったのかもしれないし、立てたところでそれは現実から遠く離れた場所にありすぎて手が届くなんておこがましいとも感じていたのかもしれない。目標を立てることすらも忘れていた可能性がある。なぜなら明確にずっと抱く一番の夢&理想は「フランスに(周囲も自分も納得した理由をもって)戻ること」で、それはわたしが帰国した2018年の1月から抱き続けている、存在感のおおきいやつなのだ。残念ながらいま大阪の実家で年越し前ぎりぎりに文章をしたためているとおり、夢は実現していない。無念。

あとは順次「たくさん本を読む」「仕事を頑張る」「人と出会う」「旅行をする」「好きなものを食べる」という平々凡々なもので、それは日常から心がけているものである。そんな通常運転でも今年は本も仕事も人も総じて、いい出会いが数多くあった。

なんといってもオルガ・トカルチュクとの出会いである。たまたま知り合いからの海外文学のおすすめで手に取った彼女の本。冒頭の文章から頭に雷が落ちたかのような衝撃を受け、自分が書きたい文体とは彼女の書き方であると一文一文読むたびに興奮した。短い文章で区切られるリズム感。あいまいな境界線を漂う幻想風景、だけれどもそこに行き交う人々はしっかりと地に根を張っている確かさがある。

わたしの人生に大きく影響を、現在進行形で与え続けている。

そして次に、6月から参加したオフラインサロン「もぐら会」も2019年に強い印象を残している。もともとサロンやコミュニティなど群れることを好まない個人主義な性格にも関わらず「サロン主催者である紫原明子さんのもとに集まっている人に会ってみたい」と飛び込んでみたところそれはやはり、とても興味深い居場所で、さらに年齢や職業など属性の異なる懐の深いひとたちがいて、予想を超えるあたたかな空間が繰り広げられていた。

することといっても、月に1度自分の近況報告をするだけ。しかも半年前に会っただけなのに、なぜか昔からの知り合いのような感覚で接することができる。さらに参加することで自分の問題意識はますます明確になってきた。

それは「誰しもが悩みを抱える。苦しみやつらさを経験する。それに対してわたしは一体、どのようなアプローチができるのだろうか?」ということ。寄り添うだけではきっと足りない、大丈夫だよという言葉も的外れになる。それ以外の答えはなにかを探りたかった。

フランスに留学していた2年前のこと、想像を絶するような経験をして命がけで母国から逃れた人と出会った。クラスメイトのひとりだったその人はわたしと2歳しか年齢が離れていなかったが、とても穏やかで、落ち着いて、周りに対して気配りのできる優しい人で、そういう意識をもてる理由をもっと知りたいと感じていた。とはいえ、わたしが彼の過去や未来にふと踏み込もうとした時、このカードを切り出されるんじゃないかという不安を常に感じていた。「君にはきっと、わからないよ」と。

確かにわからないのだ。環境も背景もなにもかもが違う。だからわたしは自分のできることを探した。自らの態度と行動で証明するしかなかった。そうすることで、相手の立場を尊重した。そんな彼も無事に専門技術を生かせる仕事に就いて、まるで見違えったかのように表情もあかるく変化していた。わたしの不安に沿うような言葉は投げかけられなかった。それを感じられた10月のパリでの再会は心から嬉しかった。(翻ってわたしはなにひとつ前に進んでいないのでは、という気分にもなった)

パスカルの賭け、という考え方が好きだ。フランスの哲学者パスカル「パンセ」によると、神の存在証明において「存在する/存在しない」という軸と「信じる/信じない」の軸でかけあわせたときに「存在する」と信じたほうが懸命な判断なのではないかというもの。それと一緒で、わたしは自分の人生もうまくいく、と賭けてみたい。突然おそいかかるトラブルも不安もすべてひっくるめてなんとかできると考えたい。

だから来年こそはきっちり目標も立てて、うまくやっていく。周囲も自分も納得してフランスに戻ることができると信じる。そこに付随する様々な面倒や手続きも、乗り越えてみせる。覚悟はもう決めているので、あとは時間の流れに飛び込むだけだ。さよなら過去のわたしと2019年、よろしく、未来のわたしと2020年。

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