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『夜と霧』 "生きる意味を問う"意味についての結論とは。

ヴィクトール・E・フランクル著の「夜と霧」を読む。もぐら会の参加者が勧めていたもので、この本の前に心理士のエッセイを読んでいたから連続して読むと相乗効果がありそうだと、手に取った。

が、作品の中で書かれた現実はあまりにも深刻すぎて、わたしが想像するだけでは事実に到底及ばない。まったく補えない。苦しい、そして息がつまる。ただ心理学者がこのテキストを書いていることから、文章はどこか客観的でもある。その場で行われた出来事が淡々と描かれるだけである。わたしには、とてもではないけれどこのように描写できないと感じた。よりメッセージが感情的になるからだ。それ以前にアウシュヴィッツ収容所にいたならば、絶望的になって、そもそも生き延びてなどいないだろう。

アウシュヴィッツは単なる強制収容所ではない。一般的に訳されているのは「強制収容所」ではあるが、原語に近い形でみると「絶滅収容所」である。絶滅という言葉の強さを考えるとどうだろう。その場にたどり着いてしまえばもう終わり、終着地点と考えるとどれほど酷い場所で希望を持てないかは想像にかたくない。

人間がただの記号になること、理不尽極まりない世界へ追いやられること。なにかに執着をしても正当な理由などない。いいや、生きていること自体にも無意味を強要される。なぜと問うても答えはないが、筆者は壮絶な体験を生き抜いた結果、生きる意味をこのように結論づけた。

「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」

「もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

ああ、なるほどと腑に落ちた。わたしたちはただその問いの前に立ち、己自身が問われているのだということを自覚すべきだったのだ。答えを問うても、答えはないのだ。なぜなら自分自身が回答者であるからで、むしろ内部でなく外部に正解を求めるのはおこがましいとすら感じたのだった。同時にこの言葉も素晴らしく胸を打ったので紹介したい。スピノザのエチカ第5部、「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三。

「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる。」

苦悩は人を情動的にさせてしまう。「これからの人生どうなるだろう」「自分の存在意義はなんだろう」などは漠然とわからないことに対する不安だろうし、答えを知りようがない限りどうしても心を揺さぶるものなのだ。だけれどもそれを明晰判明に表象させればいくぶんか困惑は減るような気がする。これって、普遍的な考え方かもしれない。いまのわたしにもできるかもと希望は持てる。

詰め込まれた列車の、小さな窓越しから見えるウィーンの光景、著者の視点。窓からみえる薄暗い雲と灰色の街並み。今わたしの手元にあるのはこのような過ちを二度と繰り返してはいけないという覚悟。これだけは誰が何を言おうと持ち続けなければならないと誓った。目をとじて耳をふさぐのは簡単だからこそ、歴史と向き合い、人生の意味の問いに対して行動を示していくのが、現在を生きる者に課せられた責任でもある。

いつかわたしもアウシュヴィッツに行ける日がきたらと願う。そこで起きてしまった過去に対して哀悼の意を捧げ、自分なりの生きる意味の答えを体現したい。

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