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問いを与えられる喜び。哲学の美しさをバカロレア試験から。

こちらに向かってくると思っていなかった質問をふと放り投げられる。立ち止まり、どれどれと題を手にとって考えてみると、頭のなかにあった情報が客観化され整理立てていくうちに自分だけの論が生まれる。それが哲学だ。

哲学をすることは面白い。わたしは、フランスのバカロレア(baccalauréat)試験で必須とされる哲学の出題を毎年何よりも楽しみにしていて、これをフランス人学生たちが18歳の時点で問われるんだから、まったく楽しさでしかないよなあと思う。当時のわたしはこういう疑問を投げかけてくれる大人を常に探していたような気がするから。

今年の人文系における題は特に美しかった。

「Est-il possible d'échapper au temps?」

日本語に訳すと「時間から逃れることは可能か」。このような類の質問をされたときにまず最初にするのは、その動詞や行為の定義をさがすこと。だが今回は直感的に答えが出た。可能であると。なぜか、それはわたしたちはすでに往来しているのだという確信があったからだ。例えば過去をふりかえるとき、わたしたちは思い出の中を探る、記憶にたどりついてその情景や光景をありありと思い浮かぶことができる。その時間にアクセスすることはすでに現在という時間から脱出できているのではないだろうか。例えば未来を考えるとき、こういうふうになりたい、あるいはこんな光景を見たい、あってほしいと想像することは現実にない現実を想像するわけである。これは未来に移動しているといえないだろうか。

時間という尺度は一定で、誰しもが1時間60分の世界、1日24時間の世界を生きている。そのなかでも自己という枠組みにおいては時間を自由に行き来できる旅人でもあるはずだ。だからわたしは「時間から逃れることは可能である」と答える。そんなふうにして哲学をする。あまりに素晴らしい質問だったから友人にも聞いてみたくなった、どんな回答があるかなと。

もちろんバカロレアの哲学試験は個人的な感想や思いを伝えるだけでは不十分である。叙情的に記すだけでは点数はもらえない。過去の哲学者の言論や文献を引用したり、論理立てて文章を書くことが求められる。とはいえ自分の頭で考えることを若い頃から学んでいることに違いはなくて、だからフランス人は自分の意見を持っているともいえるし、「意見と人格は別問題」だという意識も強いともいえる。議論をしても後にねちねちと残ることはなく、あくまでも討論(débat)は討論であって、それが終われば普通の人同士の関係になる。そういう場に出くわすとわたしはいつも、スポーツみたいだなあと思う。カラッとしている、そもそも区分がしっかりしているというか。日本でわたしが誰かの意見を否定したとすると、相手は「人格否定に繋がる」と受け止められてその後も気まずくなる場合が多いのだが、フランスではあくまでも見解は見解、人となりは別。だから議論ができるという根底の安心感、信頼があったような感覚があった。

そもそもフランス語で"討論"「débat」の動詞が「débattre」といって、いや、バトルすんのかい!って考えが面白くて好きなんだけどね。

バカロレアの哲学試験は他にもゆっくりと考えたい問いがたくさんある。回答したところで何が発展するか、変化するかはわからないけれど、自分の頭で考える力だけは養い続けたい。

Travailler moins, est-ce vivre mieux ?(2016.理系)

労働を減らすことは、よりよく生きることなのか?

Le désir est-il la marque de notre imperfection ?(2018.理系)

欲望は、私たちの不完全さの証なのか?

Peut-on renoncer à la vérité ?(2018.人文系)

私たちは真実を放棄することができるのか?

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