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主体性と、個人主義と、相互作用。

今日、渋谷の街を歩いていたら、百貨店の入口の扉に貼られた「当面の間」まで営業を中止するという案内を見かけた。シャッターは降ろされ内部の様子はうかがうことはできないが、いつもの賑やかさは遠く記憶の向こうに追いやられている。当面の間という言葉の解釈、その具体性、判断は各自に委ねられているのだろう。当面、当分、いつまでかはわからないけれど一定期間。

フランスのカフェやレストランでの張り紙では閉店を顧客に知らせるため、「ferme la porte jusqu'à nouvel ordre」つまり「次の指令まで扉を閉める」と書いている。数日前にフランス大使館前を通りがかったときにも、建物の扉に似たテキストの案内が掲載されていた。では、誰がその「次の指令」を出すのか。大統領、首相、つまり政府である。nouvel ordreは誰という主体を文字にせずともそれを意識させ、店や施設に掲げられた閉鎖の言葉は自分たちの責任じゃないからねというメッセージにも受け取れる。

主体のぼやけた日本語、誰どのように決定づけるのか見えにくい不明瞭な時間をあらわす当面という言葉、雲をつかむような漠然さ。4月末は当面に含まれるが、5月になったら終着地点がみえるのか、期限のみえない当面下を淡々と生きながら答えあわせをする。

昨年6月から参加している「もぐら会」のことが最近頭のなかを占めている。月に一度、参加者が顔を合わせる「お話会」というリアルイベントがあり、そこで自己紹介やその時の体調、1ヶ月のあいだに起きたことなどをひとりひとりが順番ずつ語る会だ。オープンダイアログの形式で、何を話してもよくて時間も各人のペースに委ねられる。準備していた話を披露してもかまわないし、自分が語る前に誰かが取り上げたキーワードを自分のテーマにするのもいい。示し合わせていないのに不思議と話したかったことが連鎖する、その共時性もお話会の醍醐味である。年齢や性別、背景の異なる他者の話がまるでドラマのような感覚で、どの曜日で、誰と会っても安心できる場となっている。

いまはメンバーが利用できるslackがあったり、リレー形式での執筆で書かれた通称「もぐら本」があったり、常に何かしらが蠢いていて、その様子を眺めているだけでも興味深い。

感染症が広がる前は、そんなふうに顔を合わせて皆とともにお話をすればよかった。今は残念ながら集まることができないので、オンラインでのやり取りが増えている。わたしはといえばこの自粛期間、ふと思い立ち意識的に関わろうと考え始めていて、昨日はひとつのひらめいたアイデアのブレストミーティングを設定してもらい、6人が有志で集まってあれやこれやと話をした。そして終了後あと、皆の考えや思いが知れた喜びや充足感と同時に、自分は単なるお節介をしていたのではないかという内省的な思いが強く残った。不要な話をしてしまったのではないか。自分が強者の論理に立っていなかったか。誰かを傷つけてしまわなかったか。そもそもいらぬところに、いらぬ論を振りかざして迷惑そのものではなかったか。

slackももぐら本も、始まった当初に意気揚々と手をあげたり乗り気になれなかったのは自分の言動が他人に迷惑や嫌悪感を抱かせてしまうという自制心が強かったからだ。そのように捉えるのも傲慢さと過度な自意識の表れなのだが、わたしが個人主義を標榜することの心地よさは他者との関係性を気にしないでいられる自由と結びついていたから。自分らしくいられる環境を集団で実現できるという意識がなかったことも理由のひとつ。ただ最近、あるひとから教えてもらった本の中に「アンガジュマン=engagement」という言葉を見つけ、動かないことには何も手に入れられないのだと気付いた。それが自らを律し、先に述べた「ふと思い立ち意識的に関わろう」につながったのだった。

一般的にアンガジュマンとは「文化人の政治参加/政治的行動」と日本語で訳されるが、仏語辞典で調べてみると以下のように解説している。

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【1】Action de se lier par une promesse ou une convention. 協定や契約によって結びつけられる行動【2】Contrat par lequel un individu s'engage à servir dans l'armée. 軍に従事する義務を負う個人の契約 ....【6】Acte ou attitude d'une personne qui s'engage politiquement. 政治的に結びつく人間の態度または行為

かつてわたしは「engagement」は1や2の解説にある約束事とか契約といった堅苦しい印象を持っていた。しかし解像度をあげて解釈を試みれば、6にあるように行為や態度も含まれる。社会における"約束事に結びつくために提示する概念"だといわれれば、たしかに納得はいく。

相互に関わりあう関係性のなかでわたしはひとりの人間として、どのくらいのことができるだろう。そもそも一体何がしたいのか。名誉や自己顕示といった欲求は、あまりない。仮にあるとすれば「こうであるべきでは」「本当はどうなのか」といった理想への意欲、不均衡の解消、持続可能性、バランスの保持。でもそれは誰の名を騙ったものなのか。それを追求することこそが利己的な欲求ではなかったか。

基準など本当にあるのだろうかと疑う贅沢が許されるのは、
基準に当てはまる人のみです。

「なぜならそれは言葉にできるから -証言することと正義について」
カロリン・エムケ著(浅井 晶子訳)

そもそもが贅沢な悩みであることを承知の上で、考えれば考えるほどわけがからなくなり、とりあえず家を出ることにした。

玄関を出て、右に曲がるか左に曲がるか、南に行くか北に行くかも決めず、とりあえず渋谷方面に進み始めて松濤を通り抜けて、東大駒場前を通り大山交差点までたどり着く。昔住んでいた小さなマンションの一部屋は近くの東北沢のそばにある。家の前を通り、二階にあったその部屋を眺めてみると窓には可愛いシールでデコレーションがなされていて、居住者は愛着を保ちながらその部屋に住んでいるのだろうと、少しだけ嬉しくなった。

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態度の表明により相互作用が生まれるのは自然なことである。内省的になることも外側に何かしらの行為を発露したからで、わたしのシーソーが傾けば、他人のシーソーも合わせて動く。つまり本当の個人主義でいうならば、本当に生きたいように生きるというならば、それは孤独にひとりで、政府や国や機械にも頼らず、誰とも関わらずに死を目指すことだ。それが難しいから、都市に生きる個人主義者には社会をよりよくするためにデモを行い、互いの権利のために集団になる。妥協したり折り合いをつけたりしながら、誰もが生きやすい社会を目指す。

ああすればよかったとか、こうしたほうがよかったとか、そんなことを反芻しながらでしか生きてゆけない。逡巡、それもまた自己の一部であると許容するのにこれから果たして何年かかるのだろう。それとも果たされないまま生涯を終えるのだろうか。かつての慌ただしい日々が過ぎ去り、新しい日常が訪れたいまこそ、自己を見つめなおす良い機会だと捉えたい。


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