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足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人にしかわからないのか論

ぐうの音もでない、それを言うと何も反論できない、という言葉がある。水戸黄門の印籠のようにかざせば他者の言葉を封じることはできるが、残念ながらその後に与える心象は最悪だ。吐き出された相手には、「ああ、こういうことを言う人なんだ」「断絶をしたいんだな」とネガティブに受け取られてしまう可能性がある、それほど強い言葉。


「足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人にしかわからない」。


大学時代、学んでいた社会学部内の授業「差別論」での教員の一言だ。これには続きがある。

「それを言ってしまったところで、『本当の痛み』は理解し得ることができるのか?」。先生は、問題提起をしていた。被差別側に抱く感情や心象あるいは言動の、受け手側の対応はいかにすべきか、またその発言の有用性はどこまであるのかという問題提起である。

まちがいなく、痛みの実感は当の本人でしか感じられない。身体で経験をしたことを、いくら言葉で埋め尽くしても相手に届く確証はないし、他者は「寄り添う」と意識したところで頭で理解はできても身体では感じられない。

「痛みは自分自身がよくわかっている」と被差別側の本人が思えば思うほど他者には届かない。


理解してもらいたいという思いには「開いている」か「閉じている」かの2種類があると思う。

開いた心情吐露は、理解してもらうために具体的な解決案を話し合うことができる。足を踏まれると何キロの負荷がかかるよね、その状況でのストレスはどの程度あるから避けられる方法を考えよう、どうして足を踏まれてしまったんだろうねと事実を明らかにして、未来について語る。後者は、何キロの負荷がかかるのはどうなんだと疑問をぶつける、ストレスを感じるんだと所感を告げる。閉じた心情を吐露する。

私は思う。誰しも気持ちが詰まっているときは思いが閉じてしまいやすい。

どうせわからない、私の思いなんて理解できないでしょうと言うのは簡単である。でも視点を変えて、じゃあどうすれば痛みを他者に理解してもらえるかを考えてみる。それは不利益を被る人たちが「世間に理解を求める」「発信する」する上での最低限の礼節なのではないだろうか。

そして受け手である周囲や社会はもちろんその発言を受け止めて、前を向いて不均衡を整えるように努力する必要があるのではないだろうか。

結局相互的な問題なのだ。どうせ理解してもらえないと思いながら他人と共生していくにはあまりにも悲しいし寂しい。「あんたは足を踏まれてないからわかんないだろうけど」と言われても、反射的に苛立つことなく「そんなことを言うなら、お互い歩み寄ろうね」と私は積極的に前向きな議論をできたらなと思うのである。

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