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自分自身で自分の傷を癒すことは可能か、ケアとセラピーを考える。

最近エッセイスト紫原明子さん主催の「もぐら会」というコミュニティに参加することになった。今流行りのオンラインサロンみたいなものにはどちらかというと毛嫌いしていたし、性格としても優柔不断なわりにはピンときたものにはすぐ行動するので、参加してからじわじわと「コミュニティに参加したことの意味」を感じ入っているところである。

さて、その会で主催者の紫原さんがお勧めしていた本、「居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書」を読んだ。

著者・東畑開人氏は「ケア」と「セラピー」を以下のように定義をしている。これだけ抜粋してもなんのこっちゃ?なので、ここに至るまでの経緯はぜひ作品を読んでもらいたい。著者が働いていた沖縄のデイケア施設で、この定義を裏付ける様々なエピソードがふんだんに詰まっている。

ケアとは、傷つけないことである。
セラピーとは、傷つきに向き合うことである。

ケアは相手を傷つけず、求めるニーズに応じること、セラピーはニーズの深堀をして、その痛みと向き合うこと。この考え方が興味深い。そもそも今の世の中はいろんな悲しい事件があって、社会の歪みみたいなのが浮き彫りになって、誰しもが痛みすぎていて、それと向き合うセラピーを欲したくないのかもしれないと思った。わたし自身も振り返ってそうだよなと納得する部分がある。「もう十分傷ついているからさ、セラピーじゃなくてケアをしてよ」って。

さらにいえば、「傷ついたままでいい」と思う人も案外多いかもしれない。「その傷が自分の存在証明だ」「自分はこんなに傷ついたんだ」と主張をする人。

わたしはそういう吐露を声高にする人を見ると途方にくれる。何をいえばその対象の傷が回復するのか、ケアをできるのか適切な言葉を、術を、知らないからだ。だから精神科医や心理士はすごい。わたしは傷があるなら、その傷を見せたくない。そもそも言語化できないところの奥深くで、ただそこにあってじわじわと痛めつけてくるだけであって、目に見えるところにはない。存在証明なんて傷じゃなくていいのにな。ただそこに居るだけでいい場所、虚勢を張ったり無理をしない空間が誰しもひとつは、あるといいよなあ。

とはいえ時にはセラピーが必要で、そのタイミングは人それぞれなんだよね。セラピーは強要できない、ある日突然訪れることもあれば、じっくり、じわじわと実践できるものもあるだろう。


紫原さんがこの本を「もぐら会」の参加者に勧めた理由は、おそらく純粋に良い作品だから皆に読んでもらいたい、という考えと同時に(無意識かもしれないけれど)参加者自身がセラピーを実践する場をつくりたかったからかもしれない。

人に自分のことを話して、人の話を聞く。そこで出てきたテーマをより深く掘り下げ、ひとつのまとまりのある文章にする。この一連のプロセスの中で、自分が人生において本当に大事にしたいことは何か、あるいは、自分を生きづらくしているものは何かといった自分自身の課題を発見し、それに向き合っていくためのしなやかさを養っていきます。(CAMPFIRE:「もぐら会〜話して、聞いて、書いて、自分を掘り出す〜」プロジェクト本文より)

課題を発見し、それに向き合っていく。それは自分自身の傷を知ることでもある。

能天気なタイプのわたしは、美味しい食事をしてお酒を飲んで、たっぷりの睡眠をとれば大抵のことは忘れる。ただし、やっぱり深く落ち込むときはあるし自分自身や理想とする人たちの尊厳を踏みにじられたときにはショックを受ける。それは実際、傷がついていたのに見ないふりをしていただけなんだろう、深い傷はそのまま残っているわけで。

改めて思った。もぐら会を通じてでも、そうでなくても、わたしも自分自身の傷にきちんと向き合えますように。傷があることを見ないふりをしないで生きていけますようにと。

「居るのはつらいよ」は、文章にユーモアが満ちていて、読みながらなんども笑ってしまった。それにこの本を読んでいるとある種のセラピーを受けているような気持ちにもなれたので、心が疲れている人だけでなく、まわりから悩み事や相談を受ける人には特にお勧めしたい。

お読みいただきありがとうございます。サポートは社会の役に立つことに使いたいと思います。