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 邪道作家第八巻 人類未来を虐殺しろ!! 狂気を超える世界 分割版その4

新規用一巻横書き記事

テーマ 非人間讃歌

ジャンル 近未来社会風刺ミステリ(心などという、鬱陶しい謎を解くという意味で)

縦書きファイル(グーグルプレイブックス対応・栞機能付き)全巻及びまとめ記事(推奨)

   6

 
 誰もが、嘘をついて生きている。
 この世界に何一つ美しいモノなど存在しない。だから美しいモノはある、と自分たちを騙し、高潔に生きていれば報われる、と嘘を重ねる。
 政府が人殺しをしていない、などという戯言を信じる馬鹿が多いのが、その証拠だ。国なんて大きな組織を動かす上で、どうやって人も殺さず人道的に、物事を押し進めるというのだ。
 皆の意見を反映する? 下らない、要は子供同士の集まりと同じだ。誰かの反対を押し切って何かを成し遂げるよりも、付和雷同していた方が、誰かに批判されないからだ。
 批判されるのが嫌なら生きるのをやめろ。
 馬鹿に批判されて、ようやく一人前だ。頭の悪いその他大勢が反対しなければ、むしろ内容に問題があるという事ではないか。革新的なアイデアに対し、その他大勢に属する人間は、必ず何も考えずに反対してきた。
 そのカス共に賞賛されては、むしろ問題だ。
 こと争いごとにおいては、そういう「社会的道義」や「民主主義」は通用しない。争いには、戦争には、戦いには「言い訳」が通用しないのだ。 だから好都合だ。
 馬鹿は放っておいても死ぬ。
 あの女、マリーとか言ったか。も、同じ事だ。綺麗事だけ並べているようなら、早いか遅いかだ・・・・・・死体だけ回収して売るとしよう。
 高値で売れそうだしな。
 あの女の思想が本物か偽物か、それはどうでも良い噺だ。本物か偽物かなど、些細な誤差でしかない。何より、まったく同一の偽物を作れたとするならば、偽物の方が原価は安い。
 だから、奴等の思想が偽物だろうと本物だろうと関係はない。私はそれを利用して、儲けられればそれでいい。

 今回のこの「物語」に意味はあるのだろうか。
 ふと、そんな事を思った。
 過程ほどどうでもいいモノはない。物語をコーヒーとチョコレートを摘みながら、二週間で完成させようが、何年も掛けて完成させようが売り上げ以外に価値などあるまい。
 だが、その「過程」こそが「物語」に求められるモノなのだ。何度でも人を感動させ、感服させ「何か」を教訓とする。だからこその物語だ。
 私は・・・・・・いや私の物語は信念や思想に向いている。本質を理解し、読解する為の初心者向けのマニュアルみたいなものだ。初心者向けと言うより「狂人」向けかもしれないが。
 まあどうでもいい。
 それが金になるかどうかだ。
 今回も、やはり同じだ。金になれば、あいつらの意味不明なレジスタンス活動が、成功しようが失敗しようがどうでもいい。私はそういう非人間なのだから。
 それで散々遠くまで歩いてきたが、金になどなっていないではないか。物語に真に尊い何かがあるなら、とうに金になっているはずだ。
 運不運。
 今回の物語も、そうなのだろうか。
 所詮、それなのか?
 このままでは、そういうことになるが。
 だが、不思議な部分もある。私は未知の事を、労働としてこなすのは大嫌いだ。現状出来ない何かを責任を持ってやる、などと、出来もしないことをやらされるのは、正直不愉快だ。
 だが、こと作家業に関して言えば、それはないのだ。どんなジャンルであろうが、今回のように未知の場所であろうが、一切の「不安」がない。 己で出来て当然だと、傑作が書けて当然、売れて当然という自負がある。
 不安、というのは本来「未知」から来るモノだが、私は作家業に関してのみ、それがない。未知を楽しめるのはそれが娯楽であるからだ。娯楽であれば、無尽蔵に人間はそれが出来る。
 「不安」無く「生きられ」るのだ。
 だから、それこそが、私の求めている何かであるという「可能性」はある。問題は、金になっていないということだ。
 金になっていれば文句ないのだがな。
 言っても仕方がない。
 だが言わせてもらう。

 悩み、苦悩し、それでも前へ進む人間の姿は、きっと「美しい」のだろう。だが私は美しくありたいわけでも、人間になりたい訳でもない。
 誰かに理解されようなどと思ったことも無い。誰かを理解しよう、否、理解はするが、それに何かを思うことなど、ありはしない。
 勘違いするな。
 私は確かに非人間だ。だからといって、「人間如き」に憧れて、そうなりたがる事など、未来永劫有りはしない。私はそういう存在なのだ。
 だから畑違いだ。
 自惚れるな。
 人間にそこまでの価値などない。
 「自分よりも大きな何か」に、左右される。それは「己の道を選び、己で選択し、己で成し遂げた」存在にとっては、侮辱であり屈辱だ。
 悔しい、などという概念は私にはない。だが、気に食わない。私は奴隷ではない。
 私の内には何も無い。人間性も、夢も希望も、思いですらも有りはしない。まさに死人だ。
 だが、死人ですら「己」はある。他でもない、この「私」が遮られるなど、私の存在を否定するようなものだ。
 要は生存本能だ。
 たかが運命如きに、屈している暇も無かった。私は、そういう道を歩いてきたのだ。ならば、その道に「ご褒美」がないのは、それだけの遠回りをさせられて「金にすらならない」なんて、この私が許しはしない。
 何が何でも、取り立てる。
 運命であろうと宿命であろうと、私には金を取り立てる債務者でしかない。不当にも、この私の「傑作」に、金を払わない不届き者だ。
 物語に金を払わせる。
 言ってみれば、当たり前の事をしているだけだ・・・・・・作家として、何一つ特別な事など、無い。 
 ただの、それだけだ。
 私は何一つ特別な事など望んでいない。傑作を書いたのだ。ならば何が何でも金を払わせる。
 それが作家というものだ。
 私は、邪道の作家だがね。
 狂気に満ちて、金の力でそれを押し通したい、なんてのは、もう人間の発想ではないだろう。いや、その「程度」なら、十分人間か。
 それはそれで、面白い。
 面白ければ、それでいい。
 生きるとは自己満足と魂の研鑽だ。だが魂を磨いたところで喜ぶのはどこか雲の上にでもいるお偉い何かであり、どうでもいいことだ。魂なんて入ってるのかどうかも怪しいブツよりも、私には金が必要なのだ。
 金、金、金だ。
 金こそが、正義だからな。
 金が有れば、面白い。
 面白くなければ、面白く出来る。
 それが、「金」だ
 少なくとも、人類の心が成長しない限りは、永続的に必要となるものだ。そして、人類全体が、成長し手と手を取り合う未来など無い。
 可能性すらも、考えるだけ馬鹿馬鹿しい。
 人間が争う以上、金は必要であり、つまりそれは人類が有る限り、金は力を持ち続ける、ということなのだ。
 世の問題が起こる原因はまず「仕組み」そのものに問題がある。システム上発生するからこそ、あらゆる社会問題は発生するのだ。そして、それら社会問題を引き起こすシステム、仕組みそのものを利用しようと考えるのは「人間の心」だ。  だから争いが無くなり社会問題が無くなることなど、あり得ない。人間の心は、成長しない。
 断言できる。無い。
 平和も和解も、物語の中にのみ存在する。仮に和平を打った所で、それは次の為の布石でしかあるまい。現実には平和も和解も「政治的な」手法の一つに過ぎない。
 争わない人間を。最早人間と呼べるのかも、怪しいものだしな。そんな奴は人間であれ何であれ生きては行けないだろう。戦えない生物に、生きる権利は与えられない。
 全ての悪の根底にあるのは人間の心だ。そして人間の心という邪悪の化身も真っ青な、どす黒く救いようのない魂が、問題を起こすのは自然現象だと捉えて良い。人を殺すのも人を騙すのも、人が人を害する全ては人間である以上当然のように発生する当たり前のイベントなのだ。
 今回の争いも、そうだろう。
 宇宙全てを見渡しても、問題を起こすのは人間だけだ。この世界から争いと差別を無くしたければ、人間を消し去るのが早いだろう。
 悪を滅ぼすなど、言葉にしてみればごく単純な事だと言うことか。人間が滅びれば、世界全ての悪は、いとも簡単に消しされる。
 およそ善性の見つからない獣だからな。
 消した方がすっきりするだろう。
 どうでもいいがな。
 人間って生き物はどうにも面倒なモノで、持つ側にいる限り持たざる側の事を、理解できないししようともしない。およそ人間として必要そうなモノを一つも持たずに生まれた私からすれば、意味不明な噺だ。持つか持たないか、それ自体はどうでも良いことなのだ。問題は、実利を得られるかどうかなのだからな。まぁ、往々にして持つ側だけが実利を得るから問題になるのだろうが。
 造形、皮膚の色、学歴、職歴、資格、権力、他にも色々あるが、基本的には「劣等感」から生まれるものだ。
 どうせ人間など心臓が一つしか無く、大して能力差も誤差程度しか出ない生き物なのだが、別に心臓が足りなかったり増えたりするわけでもないのに「他の奴より己が優れている」という、根拠となる「何か」を欲しがる。
 馬鹿な奴等だ。
 所詮内にしかない劣等感、恥から生まれた虚勢でしかない肩書きに、価値など出るものか。人間は「恥」や「劣等感」の為に、色々失ったり、あるいは不必要な努力をする奴が多い。
 誰かに認められなければ、己を認められない。 暇な事で悩める連中だ。己の事は己で評価すればいい。その他大勢のカス共など、いるのかどうかもわからないではないか。デジタルが社会を席巻してからというもの、その傾向は非常に強くなり、いるのかどうかもわからない「第三者」の意見が飛び交うようになった。
 そんな有りもしないモノで、自身の意見を左右されたり、デジタルの狭い世界の中で争う。
 精々参考程度に留めればいいのだが、デジタル世界は主に、「現実に満足できない」人間が、現実を生きていない人間こそが輝く場所だ。
 デジタルの中では誰も彼も無い。己を消失させた上で、仮に無責任な台詞を吐いたとしても、罰せされることすら、無い。
 何の責任も無い。
 だから、「己を大きく見せようと」する。劣等感が募っている人間のわかりやすい兆候だ。自分は凄いんだぞと、ネットの世界で叫ぶことで、認められたいのだろうか。
 現実に何かを変えるには行動が必要だ。形はどうあれ、本当にどうかと思うが、その「狂気」で私はここまで進んできた。
 だが、前へ進む事を怖がり、それでいて人とは違う、あるいは人よりも優れている、と思いこみたがる人間が、デジタル世界に非常にハマる。長々とドブにも劣る道をかき分け、前へ進み、それでも得られず、それでも生き方を曲げず、私はここまで来た。そんな私からすれば片腹痛い。
 生きる事を、舐めている。
 それでいて、賞賛されたい、などと。
 しかもたまたま「幸運」だったりして、それが上手く行ったりするのだから、世も末だ。デジタル世界ではどんな下らない、ゴミにも劣るモノでも、運さえ良ければ金になったりする。冷静に考えれば馬鹿の所行でも、それを持ち上げる馬鹿が多ければ金になり、そしてすぐ忘れられる。
 お前達の方が、余程狂っている。
 それをまずは自覚しろ。
 価値の何たるかを知れ。
 などと、私のような非人間がこんな事を考えなければならない時点で、世も末なのだろうが。
 情けない生き物だ、人間というのは。心なんて持たなくて、本当に良かった。あれでは死んだ後でも、同じような事を繰り返すだろう。
 金は欲しいが、好き好んで猿になるつもりも、私にはないからな。とはいえ、人間社会では品性すら金で買えてしまう。金が有れば人間社会を動かすことは実に容易い。そして金を握る人間が政治を握り、次のルールを決める。だからそういう人間こそが「基準」となり、所謂「真っ当」な人間というのは「異端」になるのだ。
 私のような奴はともかくとして、極々ありきたりな善良なる市民には、この傾向が多く見られるものだ。金は持たないが意見は持つ。市民に出来ることは声を大きくして叫ぶだけだ。
 そんな意見が通るはずもないが。
 叫んでいれば、どうせ民衆は満足する。
 そんなものだ。
 「善良さ」程安く変えるモノも無い。金のあるなしは「人間であるかどうか」さえ、買える。それは事実だ。新興国やインフラの発達していない「未熟な労働力」からは、公然と搾取しても良いのだ。金が有れば「人間を奴隷に」しても、むしろ賞賛される。それが現実だ。
 それを見ようとしない人間も多いが。
 事実は曲げることは出来て、消し去って忘れ去れる事は可能だ。だが流石に事実そのものが、本当にこの世界から消えることは無い。無論、情報統制を行えば、無いも同然ではあるが。
 それでも「事実」だ。老化などがわかりやすいだろう。有る意味、彼らは現実を見なかったのだから、だからこそ、「人間は死ぬ」という事実に恐怖するのかもしれない。
 私はあまり、寿命そのもの、生きる事そのものに拘る事はないので、よくわからないが。
 あの世でもこの世でも、本を書けて「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活」が遅れれば、多少、場所が異なるだけだ。
 何一つ変わらない。まぁ、生きれるのならば、金の力で楽しみながら長生きも、悪くあるまい。 後は書き上げた作品のデータくらいか。それとこの世にある面白い物語だな。精々その位だ。
 本さえ、物語さえ持って行ければいい。
 持って行けなかったところで、渋々、本当にうんざりしながら、また新作を書くだけだろう。
 正直、また最初から書くなんて御免被るので、全くの別作品を書くだろう。読者の都合なんて知らないので、それで構わないがな。
 作家など、そういうものだ。
 金がない人間は人間ではない、というルールがある以上、その「作家」などという商売に身を注がなければならない人種が、金儲けに必死になるのはごく当然といえるだろう。金のない人間は人間ではなくなる。「消耗品」なのだ。作家とて、それは例外ではない。
 金が有れば人間を家畜にしても許される。
 資本主義経済の中では、金がなければ何一つ成り立ちはしない。作家とて、同じ事だ。金の力で道楽で物語を書く人間と、生涯を賭けて書く人間とでは、当然ながら前者が優先される。
 金が有れば人間になれる。
 金がなければ、なれない。
 人間である必要など無いが、だからって奴隷として扱われるわけにも行かない。面倒な時代、いや面倒なのはいつも「人間」か。
 不思議なことに人類社会は文化レベルに差が有ればあるほど国が栄えるように出来る。それは支配しやすいからであり、切羽詰まった人間に、何かを変えようとする意志は、実に芽生えにくいからである。 
 思考放棄、いやそれこそ「二重思考」か。有る程度弾圧すればそれをコントロールするのは実に容易い。人間を支配するのに必要なのは軍事力ではなく、迫害による思考力の弱体、それにつけ込んでコントロールする技術だ。
 「常識」さえコントロールしてしまえば後は簡単なのだ。「常識」で有るが故に、それに逆らうモノはいない。たとえそれが、奴隷の常識でもだ・・・・・・外れた思考は淘汰される。「狂気」というのは現に狂っている人間を指すのではなく、そういう「社会全体」から見て外れている思考と行動パターンを指すのだ。
 それが「狂気」の正体だ。
 何のことはない。実に、単純なモノなのさ。
 大多数の人間がなあなあで「合わせよう」という堕落しきった思考に反発する。だから狂気は迫害されてしかるべきだし、迫害されて当然だと世間全体から罵られるのだ。
 そしてそれを何とも思わない。
 だからこそ、理解はされない。
 されたいとも、別に思わないが。
 欲しいのはあくまでも、金。
 それによる豊かさだ。まぁ、「豊かさ」などというのは「ズル」をしているからこそ手に入るものだ。いや、していない、からこそなのか。
 社会全体を利用するか、騙すことで儲けるか、精々そんなところか。作家業も嘘八百を書いて儲ける以上、あるいみ騙して儲ける詐欺師みたいな存在だ。絵画も彫刻も似たようなものだ。それでも豊かでいて人間性が「マシ」なのは、芸術家に多いらしい。
 作家が芸術家なのか、判断しかねるが。
 何かしらの創作物を作り上げる、そしてそれを金にする。奇跡は百は必要だ。そして一切の奇跡なしでそれを成し遂げなければならないのだから狂気を持たない訳が無いのだ。
 あって当然、前提でしかない。
 何かを、何もないところから作り上げるのに、狂気がなければ間違いなく、つまらない出来になってしまう。外れていない思想など、毒にも薬にもなりはしない。
 狂気こそが際だたせる。
 人間は人間を支配したくて仕方がない生き物だ・・・・・・だからこそ「権力」などというつまらないモノを、皆求める。
 だが、狂気は権力からほど遠い。なぜなら狂気とは割に合わないからこそ生まれるのだ。合理的すぎて実利をきちんと得られる立場に有れば、誰も狂気なんて持たない。
 狂気を保ちつつ、実利を握る。
 私なら、余裕でそれが出来る。
 だからこそ、物語には売れて貰わなければ困るのだ。私は狂気のみで満足するつもりはない、金による実益と両立したいのだ。
 本来不可能だが、「作家」なら出来る。
 それが「作家」の「特権」と言っていい。
 作家とは、世界で唯一「金と狂気」を同居させられる存在なのだ。そして、「金という概念」が無くなるとすれば、それは人間同士の手の取り合いなどでは決して無く、「人間が人間で無くなりそれを越える」時だけである。
 人間以上か、あるいは闘争本能そのものをもぎ取り脆弱な何かに成り下がるかは知らないが、いずれにせよ現行の人間性を保つ限り、皮肉なことに人類は永遠に成長しないだろう。
 人間は何かを「支配」する為に生きている。他者を国を宗教を統一したがる。作家なんてやっておきながら言うのも何だが、「思想」は人間を変えたりはしないのだ。 
 「本能」が、それよりも優先されるからだ。
 世界を征服したところで、「劣等感」から生まれる支配など、底が知れる。人間が人間を統一し導くために「支配」を進める必要があるだろう。 人間全体を押し上げる、いつぞやの「教授」みたいな案だな。それか、人類全体がそうせざるを得ないような「思想」を、何とかして広めるか。 テクノロジーそのものは世界に何も影響しないのだ。テクノロジーを使って他者を傷つけやすくなるだけで、何も良くなりはしない。
 人間とは、そういうものだ。
 ここにいる連中も、同じだ。最早争いが概念と化しており、何を求めて戦っているのかさえ、不明瞭だろう。その気になるだけで、気分を変えるだけでここの連中は「平和で豊か」な生活が送れるというのに、それをしない。レジスタンス活動で「自由」を「勝ち取る」為だ。
 自由などどこにもない。それこそ概念でしかなく、形さえないものだ。弾圧されているかのように見えれば、「自由みたいなもの」を目指して争えるからだろう。
 争いそのものに、意味など無い。争うことで利益を得られることも多いが、そもそもが争わずに利益を得る方法を取る方が恒久的に活用出来る。 誰かから奪う、というのは実に簡単そうに見えるもので、それでいて「何かの為」例えば、だが・・・・・・家族の為、国民の為、国の為、何かを適当な理由にして、堂々と人を殺して充足感に満足できる比較的楽な方法なのだ。
 人間は何も変わっていない。原始時代のままであることを、認められないのだ。科学が豊かな生活を作り上げた、と信奉していたい。
 だが、その実体は「肩書き」が増えただけだ。「帝国主義」が「民主主義」という「名前」に、変わった事と、大差は無い。
 人間は相変わらず何一つ成長しないままだ。  呼び方が増えただけで、石器時代から起こしている行動自体は「同じ」だ。
 それが「事実」だが、事実は目をそらして見ないでいるためにのみ、存在する。
 そも、資本主義経済とは「成長を否定」するものだ。成長すれば、人間は社会構造から大きく外れた生き方を取るだろう。社会構造など、奴隷を効率よく作るものだと、気づくからだ。
 社会構造とは「何も考えないように」させる為に存在する。考える暇を与えず「常識」を埋め込んで「立派な社会人」にする為だ。だが、立派な社会人などどこにもいない。社会人という偶像そのものがどこにも存在せず、あくまでもわかりやすい民衆の指針でしかないからだ。
 立派さ、というのは実に便利で、その為ならば多少人間が死のうが、立派でない人間の方が悪いのだと、そう「現実を誤魔化す」事が可能だ。
 現実を見ない人間こそが、奴隷になりうる。
 現実を生きていては、権力者からすれば困るのだ。現実には生涯は一度しかなく、それを国家という形の無い大きな組織の為に費やすことは、まともに考えれば無駄でしかなく、どこにも付き合う義理も義務も、本来存在さえしない。
 だが「立派な社会人」という幻想を持っていれば、話は別だ。彼らはそれになれば「例え幸福とは最も遠い場所」にいても「立派な社会人」という呪文で、それこそが幸福になる為に必要な儀式であると、思いこむことが出来る。
 まさに狂気だ。だからこそ私などより、むしろそういう輩こそが「狂気」で指すに相応しいのだが、あくまで「常識的な社会人」という「狂気」で彼らは誤魔化すのだ。
 現実を生きてすらいない。
 だから、死ぬ寸前になって「こんな人生ではないはずだった」と嘆く。嘆いたところで、それこそ自分で自分の未来を考えることをしなかった自業自得でしかないのだが、彼らの意識にはあくまでも「自分たちは被害者」であり、社会が悪いのだと、根本的に何も成長はしない。
 例え生まれ変わっても、同じ人生を送るであろう事は想像に難くない。つまり彼ら彼女らは、生まれてから、生まれた後、死んでさえも、何一つ成長はしない。
 そんな生き物の集まりが、争いの無い世界を作り上げるなど、戯言である。妄言以外の何でもないのだ。彼らは頑なに手を取り合う未来を夢見ているが・・・・・・実現はあり得ない。それを実現させる方法が暴力で有れば無駄そのものだ。全人類に思想をバラまく、というのも、そこまで高尚な思想があったところで、現行の人類の大半はその成長、進化についてこれないので「間引き」を行う必要はあるだろう。
 それをするなら、成長は可能だ。
 それが「事実」であり「現実」だ。
 政治は最早「過程」を重んずるモノに成り下がった。何をしたいのか、何を成し遂げんとするのかよりも「やっている風に」見えればいい。政治に必要なのはそれらしい「目標」であり「結果」そのものはむしろ、出しては駄目なのだ。
 結果を求めない世界。 
 お前達がなあなあの甘ったるい「全体主義」を貫いた結果が。この様だ。無論、私は作家であり語ることが生き甲斐なので。語るべき事項が増えて、願ったり叶ったりだがな。
 「結果」よりも「過程」を重んずる世界。これは大儀だとか所謂「正義みたいなモノ」を基準とするからこそ生まれるものだ。そういう意味では今回の「レジスタンス」共も、ロクな結末を海はしないだろうから、別に助ける必要はないだろう・・・・・・何か一つの目標を達成することで、それで全てが解決すると思いこんでいる人間は、気楽であり、現実を見はしないからだ。
 金は大切だが、言わば金は食料であり備蓄であり弾丸であり兵器ですらある。それらを活用することで、己の選んだ己の道。その長い長い道のりを戦い、勝ち、奪うのだ。それが「生きる」という概念そのものだ。
 だが、現代では「生きてはならない」のだ。不思議なことに、彼らはそれを求める。何故ならば己で考えることは実に面倒であり、そして己で己の道を考えるよりも、誰かに乗っかって、それは学校であり教師であり会社であり上司であり国であり社会であるのだが・・・・・・任せれば、生きるという尋常でない重圧から、逃げる事が、出来るようになるからだ。
 生きる、という言葉は最早真面目に語られるべき事柄ではなく、むしろ「如何に遠ざけるか」こそが肝要となっている。社会的正しさや道義的正しさを基準にし、小綺麗な理想を追いかけて真面目に生きなかった結果だと言える。

 ・・・・・・こんな風に「語っている時」だけが、私にとって「生きている瞬間」なのかもな

 ふと、思った。私の人生には苦しみと痛み、拷問のような圧迫感のみが、私を取り囲んでいた。だからどうだって噺だが、つまりは「満足感」という存在に、私は無縁だったのだ。金を手にしたところで「平穏」は手に出来るかも知れないが、別にそれで「幸せ」になるかどうかは、とどのつまり本人の「自己満足」でしかない。
 だからこその「作家業」だが。
 作家ほど、自己満足の愉悦に浸れる人種もいないだろう。己の書くべき事と書きたい事、私はその二つを「両立」できる希有な例だ。
 本来で有れば両立は不可能だが、私にはそれを不可能にするはずの「心」が無い。心ないが故に苦悩や葛藤は、やはり「人間のフリ」であって、客観的に眺め、観測し、それを言葉にできる。
 書きたい事として書くべき事を書ける。
 これほどの自己満足はあるまい。
 どこにもないだろう。
 だからこそ、この生き方を主軸にして、金の力で平穏を手にしつつ。先を目指す。誰に何と言われようが、どんな綺麗事を並べられた所で、私の決めた私の道だ。それに文句を言われる覚えも、やはり無い。
 仮にそれを正すことがあるとすれば、私がその生き方に「自己満足できない」と考え「次」を目指したときだろう。その時はその時で、金に代わる何かを、また求めて自己満足に浸ればいい。
 それが「生きる」事だ。
 少なくとも、私にとっては。
 そして私にとって「作家でない時間」などどこにもない。年中無休で常に作家だ。休み無く常に何かを語り、何かを読み解く。
 後は金だけだ。
 クリアしたゲームのようにやりがいが無くなるのではないかという考えは、この場合通じない。私は平穏と豊かさという自己満足を得たいだけであって、そもそもが豊かになり平穏になるという以外の点において、現状でも差異はないのだ。
 金とはまた別問題の噺だ。
 私が豊かさを手にしてはならない理由など、どこにもない。手にしたところでプラスにしかならないのだからな。
 苦境の中で生まれるモノが有るなどと言う綺麗事も聞こえるが、別に私は苦境の中で素晴らしい何かを作りたいと思ったことなど無いのだ。だからそんな言い訳がましい言葉よりも、豊かさと平穏という実利を選ぶ。
 それが、私だ。
 だからこその私だ。
 そうでなくては面白くない。
 面白ければ、いい。
 大体が、「個人の幸福」と「社会の幸福」は絶対に噛み合わない。個人を犠牲にすることで社会は成り立ち、社会を犠牲にすることで、個人の幸福は成り立つのだ。何かを犠牲にしなければ、この世界には勝利がない。
 そして、社会や国、宗教や文化などといった、実際には有りもしないモノに、私は配慮するつもりはない。そんなモノは、本来どこにも存在しないのだ。社会も国も、全て極一部の人間が、他の全てを管理するために生み出した「言い訳」でしかないのだ。
 虚構そのものだ。
 どこにも存在しない。
 そこにもここにもどこかしこにも。
 有りはしない。
 金、金、金だ。人間らしい幸せなど、今更押しつけられても迷惑なだけだ。私にはそんなもの、事実として必要すらない。
 どうでもいい。
 なんであれ、金が有れば幸福を実現できるのは確かなのだ。幸福の形に個人差があるだけで、それには相違ない。だからこそ、金以上に大切なモノなど、どこにもありはしない。
 有ったとしても、いらない。
 いらないゴミは必要ない。
 求めるは実利だ。
 現実問題、世の中は、人間の社会は、「力を持っていれば何をしても良い」のだ。人を殺すことも人を痛めつけることも、人を洗脳することも人を踏みにじることも、人を迫害することも人を差別することも、全て、力があれば許される。
 罰などどこにもない。
 それこそただの幻想だ。
 何人殺しても人間性すら剥奪しても、力が有れば咎める奴はいない。人間社会はそう根本からできている。それが人の世の現実。
 「事実」なのだ。
 良くある物語のように、私は「誰かに理解されたい」だとか「誰かを理解したい」訳ではない。むしろ、逆だ。「人間を支配したい」「邪魔をするであろう全てを叩き潰せる力が欲しい」だろう・・・・・・それも必要だから集めている、という感じではあるが、まぁどうでもいい。問題なのは、どうでも良い上に些細な事で、この「私」がストレスを感じるであろうことだ。
 他のどうでも良いカスの為に、この「私」がストレスを感じるなど、考えるだけで腹立たしい。 排除せずには、いられない。
 いわば正当なる防衛だ。被害者かどうかは知らないが、攻撃される前に殺せば被害はない、という考えからは、どうしても自己防衛を連想する。 殺してしまえば何であれ、邪魔にはならない。 克服する、という形の方が、無論好都合なので私はそう動いてはいるのだが。殺したところで次の脅威にまた備えるのは疲れるからな。一度克服してしまえば、永遠にそれで悩むことはない。
 金も、同じだ。
 物語を金に換えるシステムさえ構築できれば、私からその悩みは永遠になくなる訳だ。無論それで執筆に影響などあろうはずがない。現実問題私は苦悩しているから物語を書けるのではない。単に人間性が非人間だからこそ、書けるのだ。
 金の有る無しは作品の出来に関係ない。
 それが、「私」なのだから。
 物語の結末というのは「綺麗事」で締めなければ終わらないので、私は無理矢理適当な言葉で締めることにしているが、私は何一つとしてそれら綺麗事を許容している訳ではないのだ。現実には金、金、金だ。どんな結末よりも金の方が大切であり、信念とか誇りはどうでもいい。
 事実そうなのだから仕方有るまい。
 金以外に大切なモノなど、何もない。
 それは金になるのか? いいやなるまい。そして金にならない綺麗事など、絵に描いた餅だ。そんなモノで腹は膨れまい。
 それが「事実」だ。
 金こそが全て、という「真実」と言うほど大げさなモノではない。ただ単に、皆綺麗事の方を信じたがるだけ。現実には金が全てだ。
 今回の依頼もそうだ。金にならなければ誰だって、自分以外の人間の依頼など、そうそう引き受けはしないものだ。両者の間に金が絡み、「素晴らしい報酬」を頂けるからこそ、労働をする。
 ・・・・・・そういう意味では、気になる事がある。「素晴らしい事にはリスクがある」これは当然のことだ。今回の依頼もそうだが、リスクがあるからこそ、素晴らしい報酬を頂ける。
 だが、物事には「逆の側面」というものが、それが何であれ存在する。「酷く劣悪な何か」には、逆にメリットがあるからこそ、酷く劣悪な環境である、などと、どうにも信じ難いが。
 単純に考えれば「それで得られる何か」があると、つまりそういう事になる。無論、現実には酷い目に遭おうが何であろうが、因果関係など存在しないのだが。
 苦痛に見返りなど無い。
 苦痛も苦悩も、ただ、それだけだ。
 私はそうだった。他がどうかは知らないが・・・・・・人によって変わる基準など、それこそ意味がないので、参考にする価値が無くなる。
 恵まれた人間を参考にしたところで、そんなのは夢を見ているだけと変わらない。だから、こんな考えに意味なんて無いのだろうが、きっと、あの女ならそれらしい言い分を付けて、きっと正当化するのだろう。
 物事には意味があると。
 物事には価値があると。
 所詮、天上からの目線であり、そんなモノは、ガラスの中に閉じこめた蟻を、幼い子供が眺めているのと、変わらない。人間以上の存在がいるとすれば、だが。いてもいなくても、やはり人絵現の権力者と、何ら変わりはしない。別に我々を助けるわけでも導くわけでもない。ただ、高い所に座っているだけだ。座るだけなら猿でも可能だ。神でも悪魔でも猿でも人間でも、あまり大差はないのだ。少なくとも私のような人間には、いてもいなくても、何の影響もないことは確かだ。
 今のところ、神に助けられて通帳の残高が増えたことは、無いからな。
 そんなもの、いてもいなくても同じだ。
 どちらでも、どうでもいい存在だ。
 偉そうに構えるだけなら、置物でもいい。少なくとも、私には大した違いが理解できそうもない・・・・・・神を信仰する奴は多いが、どうせ何の役にも立たず、どころか人間の信念や行動と関係なく富をバラマき、それでいて綺麗事だけは口にする存在など、いたとしても腹立たしいだけだ。
 それこそ「思いこみ」でしかない。神がいたとして、己を過大評価して、そのくせ人間社会には何の影響も与えられない無能でしかない。少なくとも神や悪魔が貧困を、差別を、戦争を無くしたと言う噺など、歴史上聞いたことも無い。
 肩書きが偉いだけだ。 
 人間の権力者と、やっている事は「同じ」だ。 少なくとも、私よりは良い生活をしているのだろう。忌々しい限りだ、そう考えるとな。
 私は音を「感じる」事が出来る。人間嫌い過ぎるが故の特技だ。人間であれ、それ以外であれ、有る程度「音の所在」が「理解る」のだ。感覚的なモノなので表現が難しいが、感覚のない皮膚に触られているように、何がどの程度あるのか、わかる。
 気配、という奴だ。
 私にはそれがわかる。
 だから今回、例の襲撃者を迎え撃つに当たっても、特に何の警戒もしていない。有る程度心構えさえ出来ていれば、「サムライ」である私が、こと戦闘で敗北することはあり得ないのだ。
 プラズマ砲位なら、生身でも死にはしない。
 当たると少し、痛いがな。
 まぁ痛いだけだ。傷ついたところで「結果」問題ないならば、どんどん前へ進むべきだ。心がないことで心が痛むような事態になっても、傷まみれでも「結果」勝てるならば問題ない。
 そんな在り方は人間ではないと言うかも知れないが、別に無理して人間である必要など、どこにもあるまい。正しいかどうか、それは知らん。ただ、「結果」を求めるのに効率が良いならば、人道的のどう問題が有ろうが、構わない。
 「結果」が「全て」だ。
 そのために、私がどんどん人間から離れる、というのも少し違う。ズレている。私には最初からそんなモノは「無かった」のだ。なら、どれだけ傷つこうが問題有るまい。どこにも問題などありはしない。私が幾ら傷ついたところで、私自身に不利益でなく金と平穏を寄越すならば、「人間としての部分」など、そんな「残りカス」など幾ら削れて無くなろうが、知るか。
 何故そんなどうでもいい部分を気にしなくてはならないのだ。
 馬鹿馬鹿しい。
 私が傷つくことを気にする奴など、いない。あの女にしても、道徳的な言葉を並べ立てているだけで、別に何をするでもない。あんなのはただ、サッカーの観戦中に「選手の人大変そう」とか、無責任に適当な事を言っているようなものだ。
 サッカーの試合なんて見たこと無いが。
 私自身さえ、「人間的な幸福」を、消し炭にしても困らないのだ。そこへ「道義的に問題が」などと、観客席から暢気なことを言われたところで腹立たしいだけだ。
 こちらは勝つ為に、結果を得る為に、戦っているのだ。それを「そんな戦い方は間違っている」だなんて、じゃあ貴様が代わりにやれって噺ではないか。
 私が言いたいのは「口出しなら猿でも出来る」という事と、過程に重きを重んじて「自身が傷つくやり方など、間違っている」などと抜かす輩は大抵が「じゃあ人間的なやり方で結果を出せよ」と言ったところで、何も出来はしないということだ。
 下らない。
 今更人間性などどうでもいい。
 己を傷つける、というと語弊がある。何せ私は現に「プラズマ砲」の直撃でも死なないのだ。幾ら傷ついても大丈夫なら、どんどん利用すべきではないのか?
 最近の物語にはそういう風潮が多い。
 少年少女の下らない物語だ。「君だけが傷つくなんて間違っている」「君が傷つくことで、それを嫌だと思う人間がいる」「君の命は君だけのモノじゃあない」「正しいやり方で前へ進もう」
 下らない。
 仮に、だが・・・・・・本当に仮に、という仮定の話でしかなく、実際そんな人間はいないのだが、私が傷つくことで悲しむ奴がいたとして、だ。
 それが何だ?
 金になるのか?
 助けでも出せるのか?
 ただ、道義的に論理的に、あるいは道徳とかいう中身のない綺麗事の為に、そういう事を言う存在というのは、理解に苦しむ。
 完全に「持つ側」の台詞だ。
 余裕があるから、そういう言葉が出る。
 現に、現実に私は「全ての人間から迫害」されるという、貴重な体験をしてきたのだ。はっきり言ってまるで説得力がない。集団ヒステリーなのか何なのか知らないが、十歳に満たない頃、私は大勢の同級生に「棍棒」みたいなその辺の棒を拾った人間達に、襲われた事がある。
 無論皆殺し、とまでは行かなかったが、こちらもその辺の「大木」を掴んで振り回し、地面に、まぁ人間を狙ったのだが当たらず、叩きつけたという、実に爽快な経験だ。
 楽しかった。
 あれで直撃していれば、面白かったのだが・・・・・・とにかくだ。「集団である以上、それは生物の在り方としてそれは確実にある」と、私は子供ながらに迫害の「本質」を悟ったのだ。
 全ての人間を敵に回す。その可能性はある。
 人間である以上好きな奴もいれば嫌いな奴もいて、どんな悪人であれそれを好きな人間がいる、というのは素人考えだ。現に、歴史を紐解けば、そういう人間は別に珍しくもない。

 歴史に相容れない狂人だ。

 無論、そんな些末な事を気にもしない、私と似たり寄ったりの奴もいれば、そうでない人間、人間かどうかはともかくとして、そうでない奴も確かにいる。地球は実は丸いとか、ああいうのだ。 全てを敵に回すことが出来る。
 なぜなら、敵は「社会そのもの」だからだ。
 前述の集団ヒステリーと、原理は同じだ。自分たちが相容れない人間、それも全体がそう認識していれば「排除しよう」いや「殺そう」という、確固たる意志が全員に芽生えるのだ。
 これは生物の基本だ。
 なので、私にはそういう綺麗事を、押しつけるのは勘弁して欲しいものだ。押しつけられたところで、買う事が出来ないし、したくもない。 
 幸いプラズマ砲位なら、あまり痛くはない。過程はどうでも良いのだ。私は基本的にも応用敵にも、金以外に執着を持たない非人間である。
 人間性など、金になるなら喜んで捨てる。
 別にいらないからな。
 あの女にいつも言われているが、普遍的で人間らしい幸せ、の押し売りは迷惑だ。根本的に人間から外れている私に、押しつけるのは違う。
 それは違うのだ。
 仮に私が「自分を人間でない」と思いこんでいるだけで、案外「誰よりも人間らしい情緒あふれた人間」だとしても、やはり違う。
 だとしても、だ。金の無い状況下で、その方が幸せになれるからと、そう押しつけるのは違う。大体が私は既に傑作を幾つも書いているのだ。人間的であろうが非人間的であろうが、金が払われないのはただの契約不履行だ。
 それらしい理由をつけるんじゃない。
 お前達は「人間性」を言い訳にしているだけだ・・・・・・人間性の有る無しは、人間らしいかどうかの基準は、当人の行動を否定するモノでは、決してないのだ。
 あってたまるか。
 貴方を幸せにするために貴方を不幸にしなければならない、などという考えが広まっている。それはただ単に「結果」邪魔しているだけだ。
 それ以外に意味など無い。
 それらしい理屈で誤魔化すな。
 この嘘吐きの詐欺師が。
 何事にも例外はあり、私の人生はよろしくない意味でそれが多かった。だからわかるのだ。そういう「綺麗事」には「例外」が欠けている。無論悪人であろうと誰かに好かれたり、非人間であろうと人間性を追い求める輩もいるのだろうが、そうではない存在を、念頭にすら置いていない。
 実に、迷惑だ。
 金さえあれば、それでいいのに。
 金は幸せなんかじゃないよ、と偉そうに。
 余裕有る立場で、抜かすのだ。
 鬱陶しい。
 噺が逸れてしまったが、要は「全ての人間に嫌われる人間はいない」とか、そういう類の綺麗事には、必ず例外があるという事だ。
 全ての人間に嫌われる事、そのものはむしろ、私にとって「望むところ」でしかない。ワクワクしかしないだろう。全人類を相手取って、どう人類を滅ぼすのか? それを考えるだけで楽しくて楽しくて仕方がない。
 ただ、そこへしたり顔で「綺麗事の戯れ言」を語られれば、虫酸が走る。
 殺意しか、沸かない。
 噺を聞くから時間給を払え。
 噺はそれからだ。
 たったの五億でいいぞ。無論、ドルで、だ。
 私にとって「人間」とは、現実には存在さえしない概念でしかないのだ。「人間」などそれこそ物語の中にしかいない。漫画やアニメの見過ぎだぞお前等・・・・・・人間賛歌は紙の上にだけある。
 現実には本能で生きる、自分の事以外は考えているフリをしているだけの獣が、大勢存在するだけだ。どれもこれもが己の利益を考え、それでいて恥ずかしげも無く、体現すら出来もしない愛と平和と友情と努力と夢と希望を語るのだ。
 そんな生き物、憧れろというのが無理な噺だ。 現実にはそんな崇高な「人間」などいない。
 存在さえしないのだ。
 それをとって付けたような綺麗事で、人間らしい幸せはああでもないこうでもない、だから金を持つべきではないし手と手を取り合う事こそが、「本当の幸福」なのだと押しつける。
 本当も何もお前達が勝手に信奉しているだけではないか。
 知るか、馬鹿馬鹿しい。それは金を手にしてから暇つぶし感覚で追えばいいモノだ。
 あの女にまた綺麗事を偉そうに語られるのかと思うだけで、何だかやる気が失せる噺だ。語るだけで良い、という点においては、作家も似たような存在ではあるのだが。
 語る内容に説得力があるか、どうか。これは、とどのつまり当人の「深み」みたいなもので、決まるのだろう。まぁどうでもいい。深かろうが浅かろうが、人間性の善し悪しは金には関係がないし、むしろ浅い人間の方が金を簡単に手にしているように思える。
 だから、あの女の綺麗事には価値がないし、無論意味など伴わない。子供の戯れ言だ。
 現実には、金が全てだ。
 価値があるのは金だけだ。食料や衣服が有るではないかと思うだろうが、金よりもそんなモノが重要視される時点で、それは紙幣の代わりに食料や衣服や水が重要視されているだけだ。
 金とは「現時点でもっとも価値のあるモノ」なのだ。時代によってそれが紙幣であったり、金や銀であったりするだけだ。
 それが「金」だ。
 私は長い長い遠回りを経て、確かに「成長」したし「達成」もした。やるべき事をやり、成し遂げるべき事柄を成し遂げた。
 何の意味も、価値も無かった。
 そんなモノは一円にもならず、無駄な事だったのだ。それが「事実」だ。
 私自身は確かに「成長」した。
 だが、「成長」など、何の役にも立たなかったのだ。何の意味も価値もない。眺める側は満足かも知れないが、現実に成し遂げた側からすれば、たまったものではない。
 それも、もう、疲れた。
 どうせ私の意志は関係なく、無駄なのだから。 運不運なのだから。
 ただ、疲れるだけだ。
 それを止める権利も、私には無いのだが。
 つまらない、な。どうにも。
 こんなものか。
 結局、意志を貫いたところで、幸運がなければこんなもの、か。無駄だった、何せ、金にならなかったのだから。
 やらない方が遙かにマシだ。
 何もしていないのと変わらない。
 私という存在が、いてもいなくても、結局は、同じ、ということなのか。
 実に、つまらない結末だ。
 こんな下らない出来レースに、私は参加させられていたのか。
 面白くもない。
 あくまでも作家業は金儲けの手段であり、自己満足による充実の方法の一つでしかないのだが、今のところそれ以外の方法で、大もうけをするアテは無い。
 だからこそ本を金に換えようとしていたのだが・・・・・・中々上手く行かないものだ。
 あのレジスタンス共に本を売ってやろうかとも考えたが、恐らく無理だろう。私は悪人を口説くことは得意だ。相手が悪であれば、ほぼ無条件で口説き落とせるだろう。
 悪のカリスマなのだろうか。
 だが、その反面、私は善人を説得できたためしがない。一度として、「大儀」だとかを振りかざす人間とは、相容れなかった。
 彼らは私の本を買うような人間ではない。
 残念だが、仕方有るまい。
 我ながらバランスの悪いカリスマ性だ。とはいえ、善人なんて大体ロクでもない連中と、関わりをあまり持つべきでもないだろう。
 私は頻繁に移動しつつ、先ほどの敵が出てこないか、周囲を索敵する。索敵そのものはジャックが行ってはいるが、機械による索敵は機械によって無効化出来るのは世の常だ。
 結局、人間の第六感は、どの戦場でも必要になるものだ。とはいえ「戦争そのもの」は既に在り方が激変しているので、策士のような人間が、その第六感で舞台を指揮する訳ではない。
 現代の「戦争」は経済の流れの一パーツにすぎないからだ。「戦争」とは、科学が発展し、蒸気機関車を動かせるようになった遙か過去の時点で「生産をコントロールし、国民の意思統一を計る経済活動」に成り下がっている。
 今や、全ての情報がデジタルで支配、計測、演算すらも可能だ。それは戦争とて例外ではない。国民の同意を得る為であったり、あるいは侵略したい国の資源を貪る事が、現代の「戦争」だ。戦争そのものに何の意味も付随しない。大昔なら、どこそこの国は敵だから戦う、なんてシンプルな理由で殺し合っていたかも知れないが、現代社会では戦争はむしろ「口実を付ける理由」でしか、ないものだ。
 兵器の性能自体は、大昔に頭打ちだ。利便性の差こそあれ、根本はあまり変わらない。それでいて「ドローン」や「自立型アンドロイド」が出てきてからは、完全に「消費」と「予測」で戦争が出来るようになった。
 天気予報みたいなモノだ。
 どれだけの資源を費やせばどの程度の戦果が得られて、どの程度時刻が有利になるのか。それら全てがデジタル上で計測できる。
 事前の演算で予測すらも。
 予定通りに行われる「作業」なのだ。信念や思想、文化や思い、そういったあれこれは必要すらないのだ。「結果が全て」だというならば、別に人間が直接殺し合う必要も、あるまい。
 代わりに兵士の精神は軟弱になった。直接戦いもせず、ゲーム感覚でドローンを動かし、それでいて高給取りで、己の命の危機感も、無い。そんな人間がどうなるか? そもそも「兵士」と呼べるような精神を作り上げていない以上、間接的にとは言え「人殺し」の片棒を担ぐことに、耐えられなくなってしまう。
 良心の呵責。
 実にお笑い草だ。自分たちは仕方なくやっているだけであって、だからこんな制度はなくしてほしいと、彼らは口にする。なら何で兵士になんかなるのかと言えば、ただ単に「皆がやっているから」という答えが返る。あるいは、給料が高いとか待遇がよいとか、そんな理由だ。
 邪魔者を始末するだけ、それも己は危険に身をさらさずに「実利だけを」得られる、なんて。私からすれば羨ましい限りだ。毎度どこか遠くへ出かけて、言われたとおり標的を始末し、それでピンハネされた金を貰う、私にすれば。
 私も好きでやっている訳ではなく、金の為にやっている。だが、罪悪感など当然無いし、それを理由に善人ぶるつもりも、当然無い。
 殺すことで利益が出るなら、私には何の負担もないしな。どこの誰が何人死のうが、知ったことではない。人間などどうせその辺で結構死んでいるのだから、今更百万や二百万殺したところで、私一人が非難されるつもりもないしな。
 非難された所で、知らないが。
 どうでもいいしな。
 それで金になるなら、別に構わない。非難など耳障りなだけだ。道徳などと言うゴミよりも、私は実利を選ぶ。
 その結果何人死のうが、知るか。
 私の口座残高には関係ない。
 どうでも、良さすぎる。
 罪悪感を抱いて後悔するほど、私は人間をやっていないしな。実際知ったことではない。人間も植物も似たようなモノだ。放っておいても、じき増える。増えるモノを幾ら刈り取ろうが、全体のバランスが崩れなければ問題有るまい。
 少なくとも、この「私」にとっては。
 何の問題も生じない。
 だから、どうでもいいのだ。そんな、些末な上気にしても金にならない事柄は、な。
 兵器のテクノロジーが進むにつれて、人間の意識、というか「兵士としての意識」はどんどんと薄れていった。現代社会でまともに「軍人」をやっている奴はかなり少数派だろう。ハイテクであればあるほど、労力は少ない。そこに人間の意志が介入する余地はない。何故なら最新鋭の自動照準機能があり、敵味方識別コードが有れば、スイッチ一つ、「すらも」必要ないからだ。
 全て機械がやってくれる。
 人間が何かを「選択」する必要性は、もうどこにもないのだ。「結果」は機械が運んでくれる。だから、兵士としての素質よりも、如何に効率よく進めるか、なのだ。
 だからおかしいのだ。
 あんな風に、ミュータントに武器を持たせて戦う、なんていうのは意味がない。あれではドローンを動かして、あるいはアンドロイドを指揮した方が、かなり戦果に違いが出るだろう。
 そんな非効率的な行動をとる理由は、今も昔も一つしか存在しない。
「実験、か」
 非効率的な環境下での「イレギュラー」な情報の蓄積は、機械のトラブルを避ける上で必須の科目だ。落とせば落第、間違いなく実践で悲惨な目に合うだろう。
 テクノロジーを遊ばせる。
 これは想像以上に重要な事なのだ。その過程で新たな用途が見つかれば汎用性も増え、その過程で新たな欠点が見つかれば、先の損失を未然に防ぐことが可能だ。
 ましてその相手が「サムライ」なら。
 罠かどうかはわからないが、まぁやるしかないだろう。向こう側が私を捕獲する、などという無謀な計画を立てているのかさえ、現状では不明なままだ。
 だからと言って、他でもないこの「私」が、ミュータント共に手心を加えたりする、などと言うことは可能性からしてない。倫理的、道義的にどうなのか、それは考えたい奴が考えればいい。少なくとも私にとって、人間の、あるいは人間でなくても、「邪魔者を始末」する為に、何万人何億人何兆人殺そうが、文明ごと滅ぼそうが、宇宙丸ごと全生命体を消し去ろうが、世界を滅ぼしたところで、「私個人の保身と実利」さえ確保できていれば、そんな些細な事は「今日は昼をスパゲティーにしたが、あれはカレーの方がコーヒーに合っていたなぁ」と考える事と同じくらい、どうでもいいことなのだ。
 どうでもいいモノはどうでもいい。
 それに道徳だとか倫理だとか、狂っているとか人間じゃないだとか、言いたければ言えばいいが・・・・・・事実は事実だ。あれこれ言われたところで迷惑なだけだ。
 守るべき者は無い。欲しい物も存在し得ない。助ける相手もいない。目的や野望では無く、己の都合のみを考える。
 考えてみれば、これは珍しくも何ともない。
 よくある噺だ。
 人間は本来、そういう生き物なのだ。時々で代わる「道徳」や「法律」の為に、「人間性」を、私でなくても、演じているだけに過ぎない。
 人間性など、物語の中にしか存在しない。
 現実にそれを持つ人間など、初めから無い。
 自分達を「良い人間」であるよう「思いこむ」為、自身を過大評価しているだけだ。
 それに付き合わせるんじゃない。
 やりたければ勝手にやれ。
 私はどうでもいいのだ。
 作家という立場で考えれば、本来「良い人間」というのは招来する奴は多い。だが、物語における主人公、というもの、その存在は、少し考えればどれだけ歪んでいるか、分かるはずだ。
 あらゆる人間に賞賛され。
 全ての敵を仲間にする。
 逆境でも必ず打ち勝つ。
 惚れない女はおらず。
 勝てない相手もいない。
 そんな存在、気持ちが悪くて仕方がない。
 あらゆる存在に出鼻を挫かれ、しかも逆境では必ずこけて、他者には敵意のみを向け、勝てた事が生まれて一度もない私からすれば、ただ、ただただ、忌々しい限りだ。
 そんな奴が勝つのか?
 それでいいのか?
 そう、思ってしまう。
 現実にはそんな人間、「幸運」というバックボーンがなければ、生きることさえ難しいだろう。 まぁ、以前そういう類の奴に大敗を喫した私が言うと、何だか説得力が薄れてしまうが・・・・・・そんな人間に、誰が学ぶのかという噺だ。実際、そういう主人公は読み手が自己投影をして、その気になって楽しむだけで、何一つ、学びはしない。 その姿から何も教訓を得ないのだ。
 それでは意味があるまい。
 価値もない。
 私は「人間らしさ」に拘るつもりもないが、そういう主人公こそ、「人間ではない」と思う。人間の美化、というよりも「理想」の姿を、ただそれらしく描いているだけだ。
 私の物語は大抵が、邪道だ。だからあまり売れないのだが、「読者の思想」に大きく影響を及ぼせるような、嫌な位現実味を帯びていて、それでいて暗雲立ちこめる未来を想起させ、それを放置すればどれだけの絶望が未来を覆うのか。常にそれを意識して書いている。
 未来にある絶望を。
 希望を述べ立てるのは簡単だ。適当な綺麗事を並べれば、誰でも希望を持てる。だが、それは現実を生き抜く上で「持たざる者」の指針には、なり得ないのだ。
 未来の事は分からない。
 案外、あっさり私はこの先敗北を繰り返し、狂気のまま無惨に倒れるのかも知れない。だが、それでも「理不尽に屈する」事を否とするならば、どうにかしてその絶望に打ち勝つしかない。
 運命を克服しなければ未来はないのだ。
 正直、方法なんてないのかもしれない。あらゆる方策を試した私が言うのだ間違いない。だが、「勝てないなら勝つまでやる」それが狂人の変えられない生き方だ。
 変えられないし変えるつもりもない。
 困難だ。不可能かも知れない。どう考えたって無謀そのものだろう。だが、それは本来生きる事と向き合っていれば、当たり前のことなのだ。
 私の場合は金だった。そうでない奴もいるだろう。綺麗事を言うつもりはない。誰であれ、その試みが無駄に終わり、全てが無駄だった。挑戦しなければ良かったと、「運不運」などという下らないモノで、そうなってしまう可能性はある。
 私はまさにそうだ。
 だが、それでもやるしかないのだ。最早私個人の意志すら越えて、引き戻せないくらいには、私は「作家業」という旅の果てまで、来てしまったからな。
 今更どう戻ればいいのかさえ、不明だ。
 もう、やるしかないのだ。
 それを信じて、己のやり遂げた事、成し遂げた真実を、信じる以外に出来ることはない。例え、それが何の成果も出さず、誰にも理解され無かろうと、だ。
 前へ進み、戦い、勝利する。
 言葉にすれば簡単だが、随分と、長い旅だった気がする。思えば、私の人生は最初からそうだったのだ。非人間として生まれ、自覚し、馴染めずに歩き続けて、それでも己を信じた。
 その結果。物語が生まれた。
 ならば、それを信じなければなるまい。
 精神的に老けているみたいで、何だか嫌な噺ではあるが・・・・・・気のせいだ。私は若々しいし、まだまだ子供っぽい。
 筈だ。
 違ったとしても、そういう事にしておこう。成長を急ぎ「大人である事」に固執する若者は非常に多いが、何故老けたがるんだ? 成長しても老けても、増えるのは悩みだけだ。金の多寡に成長や精神は関係がないからな。
 そう言う人間は嫌と言うほど見てきた。実際そういう人間はいるのだから、そうなのだろう。
 私の前を走り、案内役を買って出た少女は、きっとその類だろう。大人ぶることで権威を得るよりも、無能を振る舞うことで楽をする方が、どう考えてもお得だが、それをしないのがお子様だ。
 
 
 

 まぁお子様というのは言い過ぎか。少なくともあれだけの組織をまとめているのだ。それなりの策謀は有るのだろう。
 無論、組織をまとめているから有能とも限らないが。上に立つだけなら猿でも出来る。問題は利益を出しつつ導き、それでいて失脚しないかどうかだ。
 武装したミュータントと戦う、か。
 正直、この女がミュータントとの混血で、性能が桁外れだろうが、それこそ私レベルの戦闘力でもない限り、数の差は埋まらない。
 それも武装している、となると尚更だ。
 私の考えでは、恐らく彼女たちは「わざと生きたまま放置」されている。そういうゲリラ的な存在が、どういう手段に出るのかは、非常に有用なデータになるからだ。
 籠の中の小鳥。それも、自覚の無いままに。
 私には関係ないがね。いや、私だからこそ関係があるのか。私は、それこそ「運命」という籠の中に閉じこめられ続けてきた。
 彼女たちを支援することで、何か対策に、はならないだろう。彼女たちは集団で、私は個人だ。 協力プレイが実装されていない以上、参考にすらなるまい。私は誰と出会おうが、何の影響も受けない非人間だ。私が誰が死のうが悲しむことが出来ない事と同様、私が死んで悲しむことができる存在も、やはりいない。
 何が言いたいのかと言えば、そんな「存在」は最早人どころか、「地獄そのもの」という事だ。地獄という概念が「あらゆる幸福を排した」存在ならば、私はまさにそれだ。何一つとして幸福を決して感じられず、それでいて悔やむ事も悲しむ事も哀れむ事も慈しむ事も、何も出来ない。
 何一つとして「人の幸福」を味わえない。
 まさに地獄だ。地獄そのものを無理矢理人の形にしたからこそ、非人間などというズレた存在が出来るのだろう。実際、私はこの上なく「悪」だ・・・・・・どんな人間的感情も一切感じず、それでいて全ての幸福を否定し、絶対に幸福そのものを感じ取ることは無く、人間の在り方、夢想ではあるが人間の「美しさ」に焦がれる事も、出来ない。 それでいて、何も感じはしない。
 そうであることを、間違っていると思わず、むしろ率先して人間性を排除し、必要とせず、ゴミのように捨ててしまえる。
 これが「悪」で無くて何なのか。
 まさに地獄そのものだ。
 嬉しくもない。
 無論金の多寡に比べれば、そんな問題は些細な事でしかない。物語によって金を儲けられていない以上、問題と言うことだ。
 このまま、何一つとして得られずに終わるのかと思ったが、考えてみれば私は何を手にしたところで充足も充実も感じ得ないのだ。そういう意味では全てが徒労と言っていい。このまま物語を金にも換えられず終わるとは、つまりそういう結末を迎えると、いうことだ。
 人間の物真似をして、怪物にすら心がある事を知り、混ざれず、それでいて孤独であることを、一切問題とせず、金の力で生きようとする。
 誰に理解されることもなく、誰を理解することもなく。その時点で十分破綻している上、破綻した上で求めた金による幸福も、物語が金にならないと言う理由で、失敗している。
 何度目の挑戦だろうか。
 金を儲けようと言うアプローチは、物語だけでは断じてない。私とて楽観的に物語を金に換えられる、とは思っていなかった。無論出来映えには絶対の自信があるが、売れるかどうかは別だ。
 だから予備のプランを幾つも走らせていた。その全てが無駄に終わって久しいが、作家業でないからと、手を抜いたわけでもない。
 消去法、まさにそれだ。私には大金を稼ぎ、それを現実にしうる方法論が、物語しか、もうどこにもないし、それ以外に可能性すらない。
 全く持って嫌な噺だ。
 ただ、豊かで平穏に暮らしたい、だけだというのに、人間らしい生活を非人間が真似をしようとするから失敗するのか?
 わからない。
 分からなかった。
 それが分かれば苦労はしない。
 何時だって、そうだった。
 仮初めの希望を見せられて、飽き飽きとして意私は「どうせ無駄だろう」と思い、一応試みだけはしておいて、結果無駄であることを確認する。確認、そう確認だ。作業と化している。何かを試みたところで、無駄なのだ。
 それを私は知っている。
 だから、綺麗事には吐き気がする。
 どう行動したところで、無駄なモノは無駄だ。それを私は知っているのだ。試みをしようがしまいが、成功する奴は成功するし、幸せになれる奴は幸せになれる。
 最初から決まっている「運命」だ。
 成るべくして成る。幸福とは、与えられる事が決まっている人間の「特権」でしかない。
 成れない奴は、どう足掻いても、成れない。
 挑戦権そのものが、そも存在しないのだ。
 成れる訳が無い。
 知っていて、覆そうとして、無駄だと悟り、それでも繰り返し、再確認した。
 それを繰り返した。
 何度も何度も狂気のように。
 我ながら馬鹿な事をしたものだ。成れない人間は何をどうしたところで、幸福には成れない。全て決まっていることだ。
 持つ側か持たざる側か。
 生まれついての特権は、揺るがないと。
 知っていて、それでも諦めが悪かった。
 我ながら、子供の考えだった訳だ。方法はあるはずだと、頑なに信じた。それが無駄でもまた繰り返した。私が賢い大人だったなら、さっさと諦めて死体としてこなしただろう。
 要は己の道を信じた訳だ。それが「結果」間違いだったと言える。己の道すらも、結局は運不運と持つ側か持たざる側かで、正しいのか間違っているのか、決められてしまう。持たざる側には己の道を突き進む権利すら、無かった。
 だから金を欲した。
 結局、信念は無意味だったからだ。役に立たない信念や誇り、そういった綺麗事のゴミよりも、現実に何かを変えられる「力」の方が、私個人の自己満足の幸福だとしても、まだ現実味があるからだ。
 それも、失敗したが。
 変えられない生き方と言えば聞こえは良いが、金にならず失敗すれば、ただ惨めなだけだ。誰一人として見向きもしない人間の末路など、こんなものなのか。だが、私は己を惨めだとも、こんな末路如きで終わるとも、思えない。
 思うことが、出来ない。
 今更、そんな殊勝な考えを、持てない。
 難儀なものだ。本当にな。
 信じたところで裏切られるだけで、信じなければならないような時点で、それは人間であれ現象であれ、成し遂げた事柄であれ、「結果」には決して結びつかないのだ。
 信じなければ成らない時点で、綺麗事だ。
 勝てる力が有れば、信仰など不要だ。
 何も信じなくても、金もそうだが「勝てるだけの莫大な力」があれば、勝てる。現実問題、力があり成し得ない事柄など聞いたことがない。
 金の力で変えないモノなどあるのか? まぁあるとしても、精々が人間同士、人類皆平等で手を取り合う未来位のものだろう。人間同士の結束は決して金では買えない。未来永劫殺し合い奪い合い騙し合う。人類は平和を買えないのではなく、買わないからだ。
 実際、人類が団結して、不可能は無い。どんな願いでも叶えられるだろう。まさに聖杯だ。無論人類が仲良くするなどあり得ないが。
 それは、皆知っているからだ。所詮世の中は金や権力が「全て」だと。美しい人間の手の取り合いなど存在しない事を、皆知っている。
 信じるべきは力だけだ。
 金、暴力、権力、政治力、情報力、何か現実に未来を切り開く何かとは、例外なく力だ。そして金はもっともわかりやすく人間を幸福にしてくれる、魔法のアイテムだ。
 だから求め続けたのだが、どうやらそれも、持てる人間が決まっているらしい。そうとしか思えないくらいには、失敗した。
 非人間、として存在している以上、私に未来なんて最初から無かったのかも知れないが。言っても仕方がない。無理だと承知で挑むことくらいしか、もう出来る事も無い。いや、挑むことも、もう意味はないだろう。ただ、流されるだけだ。
 何も出来る事は無い。
 なら、私がどう足掻いたところで、同じか。
 信じるべきは力、即ち金だ。だがそれも持つ側と持たざる側で区分けされているなら、どうにもなるまい。どうにも成らない事なのだとすれば、私のこの行動も、あってもなくても、きっと最初から同じだったのだろう。
 無駄な労力を掛けたものだ。
 本当に、何から何まで無駄だった。
 そういうことか。
 私が無駄を被ることで誰が特をするのか知らないが、最早どうでもいいことだ。その考えにすらも、結局は意味がないのだから。
「今夜はここらで野営しよう」
 私はそう言って、マリーとジャックに休憩の指示を出した。彼らは渋々従った。






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