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本能寺の変1582 目次小 光秀の年齢 1 三人の娘 131~134 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次小 光秀の年齢 1 三人の娘 131~134 

131 光秀は、高齢だった。
   信長は、四十九歳。
   光秀には、三人の娘がいた。
132 光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。
133 光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。
   光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。
134 父親たちの生年と年齢。
   細川藤孝は、四十九歳。
   織田信勝は、死没。
   荒木村重は、四十八歳。
   光秀は、荒木村重と深い関係にあった。
   光秀は、五十歳以上だった。

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 光秀の年齢 131~151 
目次中 光秀の年齢 131~151
目次小 光秀の年齢 131~151


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく  

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