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本能寺の変 1582 光秀の年齢 1 133 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 1 三人の娘 

光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。

 信澄は、永禄元年(1558)の生れとされる。
 信長のすぐ下の弟信勝の遺児である。
 織田家の一門。
 近江高島城主。
 その支配地、高島郡は、光秀の志賀郡に北接している。
 婚姻は、正に、ベストマッチングだった。

光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。

 長女は、信澄へ。
 三女は、忠興へ。
 となれば、二女は村次へとなる。
 「惟任日向守むこに候」
 この女性は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された。
 「日向守むすめをうけとられ候」
 後、明智秀満に再嫁。

 天正七年(1579)。
 以下は、その時の様子である。

  天正六年霜月(1578年11月)より、七年の十二月まで、
  せめつめ(攻め詰め)られ、

  其の内に、荒木(村重)は、尼崎へ、九月比(頃)、有岡を忍び出で候、
  女・子供をば、有岡に置き、其の身、忍び出で、
  荒木父子どもは、尼崎に籠城候、

  有岡には、荒木久左衛門(家臣)請け取り、籠城仕り候ところ、

  惟任日向守、丹波の国、ことごとく切り志たが(従)へ、
  荒木新五郎(村次)は、惟任日向守むこ(婿)に候まま、
  則ち、日向守、扱い(調略)を入れられ、種々調(ととの)い、
  共にて、有岡を明けて渡し申すべきに相究め、
  先に、日向守むすめをうけとられ候、
                     (「立入左京亮入道隆佐記」)
 
 
なお、これについては後述する。


          ⇒ 次回へつづく



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