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邪道作家第六巻 貧者の牙を食い千切れ 分割版その2

新規用一巻横書き記事

テーマ 非人間讃歌

ジャンル 近未来社会風刺ミステリ(心などという、鬱陶しい謎を解くという意味で)

縦書きファイル(グーグルプレイブックス対応・栞機能付き)全巻及びまとめ記事(推奨)


   2

 空気感というモノがある。
 それは人を殺す空気だったり、誰かに謝る空気だったり、傷の舐め合いをする空気だったり、あるいは人を貶める空気だったりする。
 今まで散々、様々な存在を「始末」してきた。正直私にかかれば誰であろうと、この世からおさらばさせるのに、一瞬もかからない。
 大統領であろうと。
 持つ側であろうと。
 金持ちであろうと。
 「始末」できる。
 だが流石に「空気」を始末しろなどというのは初めてだった。当然だ。そんな依頼が沢山あっては私は既に参っているだろう。
 そんな依頼を受けた。
 宇宙船のファーストクラスで、考える。
 そういえば、だが・・・・・・家庭を持つことによる幸福か。考えなかったわけではない。考えるまでもなく無意味だというだけだ。家庭があろうが無かろうが、喜びを「感じ取れない」私にとっては意味のない話だ。
 家庭があろうが。
 死体があろうが。
 同じ事だ。
 私には。
 だからそんな分かり切ったことよりも、意味のない方策よりも、考えるべきは労働、なのか?
 仮にこの労働をこなしたところで・・・・・・意味があるのだろうか。寿命を延ばし、また次の労働、始末の依頼で呼ばれるだけだ。
 同じ事を延々と繰り返すだけだ。
 それでは意味がない。
 だが、だからといって家庭を持つことであっさり幸福になる。などというのはただ単にそうであったらいいなと言う話であって、それが出来るならば苦労はしていない。
 そういう「幸福」が理解は出来ても感じ取れないからこそ、こうも回りくどい方法をとり続けているのだ。それもいい加減食傷気味だが。
 仮にあの女と家庭を持ったとして、それが何だというのか・・・・・・どうでもいい。人の都合で動く労働が、何種類か増えるだけだ。
 私個人の幸福は、そこにはあるまい。
 無論分かち合うことも無い・・・・・・家族を作り、目から涙を流して「この子は俺が守る」とか、そんな言葉を言う人間ではない。人間かどうかも怪しいと言えば怪しいのだ。人間から離れていっている「私」は、もう人間とは呼べないかもな。
 構わないが。
 実利があれば、どうでもいい。
 「幸福」という「概念」が私には無い。
 だからどう足掻いても「幸福」には成れない。 だが、それでも「幸福」に成りたい。
 妥協して「幸福」だと、そういうことにしておくしか、やはり方法は無さそうだ。仮に偽物だと罵られたところで、私はやはり、金が欲しい。
 安い同情は金にならないしな。
 妥協で満足できる人間だ。だから本物だろうが偽物だろうが、私個人が自己満足できれば、別に内容はどうでもいいのだ。結果が全て。
 結果的に「幸福」だということにできれば。
 横着した考えではあるが、元より存在せず、絶対に手に入らないモノを手にしようというのだ。 これくらいは当然だろう。
 そうでなくても、持たざる者である私には、持たないが故に引きつけられざるを得ないのだ。金を持たない人間が金を求めるように、引力のように私は「幸福」を求める。
 半ば本能だ。
 本能なのかもしれない。
 作家としても私個人としても、金を手に入れて勝たなければなるまい。負けっぱなしは御免だ。 まぁ、私が「敗北する運命」ならば、こうして自身を奮い立たせることそのものが無意味だが、仕方あるまい。諦めようと思って諦められるモノでもない。私が戦う理由はいつだって「屈辱」に対する憤慨が多い。心が無くても屈辱は感じる、いや感じてはいないのかもしれないが、少なくとも自身に屈辱を与えるモノを取り除かんとするのは、生物の本能だろう。
 いずれにせよ私は神ではないのだ。勝てるかどうかなど知るか・・・・・・勝てると思った戦いで負けることなど、私にとっては日常だ。
 恐らくは、私に意志に関係なく、どうにもならないのだろう。足掻いてもきっと無駄だろう。ただ諦めが悪すぎるだけだ。
 往生際が悪いとも取れるが。
 私はそういう悪だからな。
 邪道の作家なんて、そんなものだ。
 人間が追い求めるのは結局のところ「豊かで充実した時間」なのだろう。ともすると私は、ただそういう時間を手にするために動いているとも取れる。それが意味することは、時間は金で買えるという事実だ。こうして優雅でリッチなひとときこそを、金で買い続けるべきなのだろう。
 そもそも前提として私は「生きている」とは言い難い事実があるのだ。生きている人間の幸せを「死者」が望むべくもないということか。
 「思い出」が「生きている実感」だとすれば、私にはそれは一切無い。何も、だ。本当に無いのだ・・・・・・嫌な思い出すらも風化して、「楽しいことは何もなかった」という事実だけ「記録」されていく。
 実際、何もなかった。
 思い出して楽しむ記憶など、あるはずがない・・・・・・何度も言うが、そんな人間なら作家などというモノを目指したりしない。
 私には。
 何も。
 無かったのだ。
 それは事実。
 現実に何も無い。
 私は「死人」だ。目的だけが先行している死者・・・・・・だから失敗する。
 だがどうしろというのだ? 好きでこうなったわけではない。いや、こうでなかったら私は、私という人間は居なかっただろう。
 それが罪なのか?
 存在自体が害悪か?
 別にそれでも構わないが、だからといって金にならないのは御免だ。悲劇が金になるというならば、私の悲劇とて「金に換えられる」はずだ。
 いや、換えなければなるまい。
 何が何でも、だ。
 「生まれついての悪」だと言うだけで、体よく切り捨てられてたまるか・・・・・・まぁ、実状はどう足掻いても「持つ側」には勝てないのだが。
 どうすればあのクソカス共に勝てるのか。
 私はいつも「それ」を考えている。
 答えはない。
 どう足掻いても、やはり勝てない。
 だから私のように勝てないことは承知で、ひたすら試行錯誤するしかない。無論、試行錯誤したところで勝てないが、他に出来ることは無い。
 敗北を承知で挑むくらいしか。
 「持たざる者」には出来ないのか。
 長い長い旅路の中でたどり着いたのは「勝てない」という最初から分かっていた答えだった。負ける側にいれば、何をどう足掻いても、無駄だ。「・・・・・・嫌な噺だな」
 物語のようには、いや物語こそ「勝つべくして勝つ」と言うべきか。主人公は勝てるから勝つのだ。正しいからではない。
 悪役は思想が間違っているのではなく、「負けるように」作られているのだ。だから、どう策を弄しようが、勝てない。
 負けるべくして負ける。
 私はその運命を覆す為、あれこれやったが、どうやらそれも無駄だったらしい。
 我ながら、無駄な足掻きをしたものだ。
 まぁ私は魂の分身と言える己の作品ですら、豊かさと充実がある生活の為ならば、捨てても良いと思える作家なのだ。だから、これから先、何かに打ち勝つために、捨てることが「持つ側」の存在に勝てる方法ならば、私は「作家業」も、己の書き上げた物語も、捨てて構わない。
 人間性など必要ない。
 勝てればそれが正義だ。
 これ以上捨てるモノがあるのか、という気もするがな。そもそも、物語や作家業に、捨てるほどの価値があるものか。
 私はソファに座り直して考える・・・・・・「真摯に一つのことに取り組めば成功する」訳ではない。結果というモノは大抵が、運がいいだけの奴が手にするモノだ。後付けのような理由で「自分はこうしていた」だの抜かす奴がいるが、どうしていたところで、ただのそれだけで「結果」が伴うことはあるまい。
 私が証明だ。
 刀鍛冶にでも成った方が良かったんじゃないかというくらい、作家業を長く続けているが・・・・・・・・・・・・信念があろうがなりふり構わず続けていようが真剣にやろうが、同じ事だ。
 私が心血を注いだ作品よりも、有名人が薦める本の方が、売れる。内容がゴミでも、下らなくても、思いつきでも、売れる。
 この差はなんだろうか。
 だから運不運だ。
 しかしそれで全てが決まるのか?
 だとすれば、やはり無意味だ・・・・・・今回の依頼にしたってそうだが「こなす」しかない。努力が足りないなど言い訳だ。そもそもが、己の道を歩いている人間は「努力」などという下らない免罪符など使いはしない。
 当たり前なのだ。
 少なくとも、私にとっては。
 だが、その当たり前が否定されるようならば、どうしろというのか・・・・・・私という存在が否定されているようなものだ。どうしようもない。
 綺麗事はいらない。「結果」が、「金」が欲しい。だが、それを手に入れるのはおよそ、今まで何一つしなかった人間、だが「持つ側」だというだけで実利を得る人間だ。
 成功するかどうかが「運命」ならば、その過程に意味はない。どれだけ小綺麗に取り繕おうが、「信念」や「誇り」や「道徳」などという綺麗事など、何の価値もない戯れ言だ。
 仮にそれが「人間らしさ」ならば、私は「人間でなくても」いい。勝利が欲しい。
 金が欲しい。
 そうでなくては嘘ではないか。
 人に嘘をつくのは良いが、己に嘘を押し付けられるのだけは御免だ。私は他人の都合、嘘の為に人生を捧げるほど、愚かになるつもりはない。
 金だ。
 何をどう言おうとも、結局は金。
 資本主義経済が自分達の利益のために共産主義や社会主義を「悪」とするように、綺麗事の裏側には当人達の都合「しか」ない。
 そんなモノに翻弄されるのは、御免だ。
 何をするにも金がいる。だが、立ち位置は重要だ・・・・・・作家もそうだが、「搾取される側」即ち「持たざる側」では永遠に幸せになどなれない。 奪わなければ。
 搾取しなければ。
 独占しなければ。
 勝てない。
 作家も同じだ。読者の喜びなどどうでもいい。重要なのは金だ、数字だ。仮に私の作品で読者共が喜んだり人生の糧にしたとして、だから何だ? 私には関係あるまい。
 少なくとも読者が都合良く儲け話を持ってくることは、今のところ無い。今後もないだろう。読者からすれば金を払わないで読みたいだろうし、作品のことを知っていても、作者がどれくらい儲けているか、生活は大丈夫かを心配する奴は、いないだろう。
 そういうことだ。
 読者も作者も、己の都合で生きている。
 だから、互いの都合がかみ合うだけだ。
 ただのそれだけ。
 感動や信念を演出し、金を儲ける。それが作家本来のあり方なのだが、しかし電子世界の発達に伴って「サービスは無料で使うもの」という意識が、顧客に芽生え始めてきた。物語など金を払うものではなく、無料で楽しむものだと。
 笑えない。
 何が悲しくて金も貰わず顔も知らない奴らに、物語を魅せなければならないのか・・・・・・金だ。
 金を儲けるために決まっているだろう。
 読者共のことなどどうでも良い。
 私の生活が豊かになると信じて、書くのだ。
 無論、売るためにな・・・・・・だが「モノを売る」というのは「良いモノが売れる」訳ではなく、むしろ「ゴミを良いものだと思わせて」売るのが、モノを売ることの基本だ。現に周りを見れば、ただのゴミにしか見えないサービスに金を払う奴は多く、いるだろう。ブランドだとか口コミだとか評判だとか「中身の無い情報」を、信じることに疑いを覚えない。
 テレビで見たから何なのだ?
 むしろ、テレビなど「見て貰う」ことで儲けるメディアなのだから、真実の方が不必要だろう。「皆が見たそう」な「虚実」を売る。それを信じてどうするのだ?
 未来のことまで、最近の人間達は「そういう噺を聞いたから」などと言う理由や、酷い場合は、ただの思いつきにもっともらしい理由を付けて、「自分ではない人間の体験談」を持ち出して、それを押し付けようとしたりする。自分では何一つやったことのない人間が増えてきているのだ。決まって、「持つ側」なだけの、偶々運が良かっただけの「中身の無い人間」が言うのだから、かなり始末の悪い噺だ。
 だが、社会的にはただのクズでも、持つ側なら正義だと言うから驚きだ。結局は「クズ」でも、やはり「持つ側」であればもうなんでもいいと、そういう「事実」なのだろう。
 だから人間はますます薄っぺらくなっていく。 中身の無い世界が広がっていく。
 そんな世界で、人間に問いかける物語など、書いているから売れないのだとすれば、私に居場所は、恐らくは最初からあるまい。
 底の浅い物語など、私には書けない。
 書かない。
 これは大きな違いだ。彼らの場合恐らく真逆であるという点を鑑みると、中身の薄い人間は、何というか「世界に愛されている」のだろう。
 そういう人間こそを、活かす。
 世界も社会も、そういう流れなのだ。
 馬鹿馬鹿しいくらいに。
 能力を磨くだけなら簡単だ、年月を掛ければいい。10年やればマシになり15年で一人前になるだろう。だが、それを売るとなると噺が別だ。 むしろ能力を特化させることは簡単なのだ。それを金に換えるのが難しい。だから偉人変人の類は大抵、いらない苦労を強いられるのだ。
 全く冗談じゃない。
 不要な労力を使わせてくれる。
 人間社会に置いても同じだ・・・・・・楽しておいしい思いをした奴の方が得をするという事実。そしてその反動は、後の世代に押し付ける。本来後の世代を支えるための行動が、この様だ。
 何故社会においてこんな事が起こるのかというと、「子供のままでも大人になれる」からだ。
 中身の薄い人間というのは大抵、そういう環境に愛されているからなのか苦労をしない。少ないではなくしないのだ。
 自分達が環境に恵まれたことに自覚がないとも言える。要は何一つ苦労を知らないけれど、自分達は己の力でやりきったと「勘違い」しているので、「努力すれば出来る」とか、言い出すわけだ・・・・・・本当に楽そうで羨ましい。
 そして大した苦労もしないまま大人になり、子供に対して「如何に自分達が苦労したか」だとかを訴える。苦労した人間が己の苦労を吹聴することなど本来有り得ないが、彼らは「自分達は凄く苦労をして頑張ったから今ここにいる」と、思い込んでいるからだ。
 駄目なモノを引き継ぐ典型例だ。
 子供はそんな大人を見て絶望する・・・・・・結局は運不運だと悟るのだ。それが、今の世の中だ。
 要領のよさだとか。
 天性の才能だとか。
 幸運と金だとか。
 そういう「中身のないモノ」こそ力を持つのだと自覚する。そして誰も「中身」などという役に立たないゴミは、もう見もしない。
 世の中そんな程度だと、しっているからだ。
 私にはそれが我慢ならない、のだろう。だから物語なんて書いているのかもしれない。書いたところで、実利がなければ意味はないのだが。
 まったくな。
 だが・・・・・・そういう子供のまま、あるいは成長しないまま大人になった人間を見て思うのは、結局のところただの幸運であれ、「実利」がどれだけ人間性がクズでも出るならば、「成長」することにはいったい何の意味があるのだ?
 結局、勝つのは持つ側だ。
 人間のクズだ。
 ならああいう風に生きることの方が、結局のところ「実利」が得られるのか? 何一つ成し遂げず動物のような醜い欲望で、誰かその辺の人間の思想を鵜呑みにし、苦労を語る人間のクズ。
 そちらが得をするならば、意味など無いではないか・・・・・・綺麗事よりも実利なのだから。
「そうでもないぜ」
 口を挟んだのはジャックだった。私はファーストクラスを頼んでいるので、他の乗客に迷惑をかけることもない。完全な個室だ。
 こいつは綺麗事云々と言うより抽象的な噺だから、あまり役には立たないかもしれないが。
「成長しなければ、小さな事すら克服できないままさ。冷蔵庫に指ぶつけてヒステリー起こす人間と、社会構造に不満を持ち、富裕層に怒りを感じる人間とでは、違うだろう?」
「私は指をぶつけたら普通に苛立つと思うがな」「はは、まぁ聞けよ先生。人間ってのはあの女の言うとおり、全く同じ運命を辿っている、てこともないだろう。だがな、先生。見渡す限りの小さな出来事で一々神経を荒立たせている人間よりもそれなりの幸福を享受する人間の方が、幸せに生きられると思うぜ」
「なら、豊かな持つ側でそうするさ」
「それがそうも行かないんだな・・・・・・一定以上の富を持つ存在なんて、先生の言うとおり搾取の頂点に立つ「自覚無き極悪人」か「芸術家」くらいのもんさ。だが金を多く稼ぐって事は、人間の欲望の渦に長く、深く触れるって事だ。それは先生の思う「平穏な生活」とは、真逆のモノになるだろうぜ」
「適当に稼いで隠居すればいい。私は別に有名になりたいわけでも作品を認められたいわけでも無いのだからな・・・・・・金が欲しいだけだ」
「そうかもな。案外それはありかもしれない。先生は芸術家であると同時に俗物でもあるからな」「大きなお世話だ」
「そう怒るなよ、軽い冗談さ。だが、先生の言うところの「中身のない人間」って奴らは、永遠に幸せには成れやしないぜ」
「どうしてだ。金はある。豊かさもある。幸運もある。他に何がいる?」
「それを感じ取ることが出来ない、からさ。どれだけ恵まれているか理解できないんだから、先生みたいに「これだけ欲しい」とか、上限がないんだよ。だからいつでも不満を感じている。どれだけ金があっても、どれだけ才能があっても、それに満足することが出来ない・・・・・・常に不満を内側に抱えて、生きる。先生には理解できないだろうが、これは事実だぜ。思うんだが先生は随分と希有な才能を持っていると思うよ。何せ自分を弁えることと、自分の幸福を知ることと、豊かさの招待を暴くことは、出来る人間は少ない。きっと先生みたいに数奇な人生は、そうそう送りはしなってことなんだろうが・・・・・・先生、先生は理解し難いかもしれないが、他の人間が一生を賭けてようやくたどり着ける答えを、最初から手にしているんだぜ。ある意味、人生をクリアしているようなもんだよ」
「嬉しくもないな」
 精神面でどうかなど、どうでも良い噺だ。現実に金がなければ、満たすことは出来まい。
 人間関係で悩んだり。
 認められずに悩んだり。
 人の意見で悩んだり。
 する方がどうかしているだけだ。
 未来に対する物理的な、つまり金の多寡のみで悩めばいいモノを、余裕のある人間はどうでもいい理由で悩んで死んだりする。
 羨ましい噺だ。
 楽そうで。
 女とか男とか、人類の半分はそうだというのに振られたとか意中の相手を取られたとか、そんなどうでもいいことで「人生終わり」みたいな顔をする。意味が分からない。
 金で悩め。
 金を求めろ。
 悩んで良いのは金だけだ。
 その金を無駄遣いして「金がない」と悩んだりと、「持つ側」の悩みなど、下らない。
「そうか? 人間は大抵そういうことで悩むんだぜ。金で悩むのは序盤だけだ」
「そうは思えないが」
「そのうち事実になるさ」
「金で悩まないなど、ありえないな。年を取ろうが取るまいが、金がなければ生きていけない」
「確かにな、失言だった。だが、実際稼ぎ始めることが出来れば、後はそれだけだぜ。そして、芸術家でもなければ大抵はその後、金を何に使うべきか、金を使う道がなくて悩むべきか、安定し始めた己の未来に悩むのさ」
「私もそうなると? 私の場合そもそもが安定していない以上、爆発的に売れない限り、有り得ない噺だ」
 それに、金の使い道で悩んだりはすまい。
 余裕のある状態で悩みなど、私は持たない。
「それがその他大勢は持つんだな、これが。それなりに満たされているくせに、「結婚しないと駄目だ」とか「趣味を持つべきだ」とか「仕事に誇りを持たないと」とか、電子世界に散らばる他人の意見で、人生の選択をあっさり誤り、どうでもいい女と結ばれて、満たされているはずなのに、不要な人間関係で悩むのさ」
「私にはそれは無い。必要なのは金だけだ」
「確かにな。なら、むしろ先生は売れた後の事だけ考えてりゃ良いじゃないか」
「売れればな」
「売れてからじゃ遅いさ。何かあるのかい?」
「そうだな、まず木造の家を建て、温泉を併設する。欲望のままに生き、本を書いて充実しつつ、それなりに楽しんで終わりだ」
「先生には欲望がないんだろう?」
「真似するだけでも結構楽しめるものだ。楽しければいいのさ。いずれにせよ不要な人間関係からは解放されるだろう。他は今と、確かに変わらないかもしれないが」
「なら、金は不要じゃないか」
「そうでもない。金の有る無しは「保身」私の安全を確認できるかどうかに関わる」
「でも、紙幣なんて絶対のようで国が傾けばただの紙切れだぜ。それは先生が言ったことだろう」「確かにな。だが無いよりはマシだ」
 後は本の宣伝にでも使うか。
 全人類に私の本を読ませて、人間性を破壊してやるのも、面白いかもしれない。
「まぁ当面は作品の宣伝だろうな。有名かどうかはどうでもいいが、売れ行きと、影響は気になる噺だ」
「影響?」
「ああ。人間に私の作品はどんな影響を与えるのか? それほど興味があるわけではないのだが、まぁこれは見せ物としては楽しめる、位のモノだから、気にする必要もないだろう」
「趣味、悪いぜ」
「五月蠅い」
 宇宙船のエンジン音は無い。静かに、ただ静かに銀河の大海原を駆けるだけだ。景色としてはいいのだが、音がないと迫力に欠けるな。
「なぁ先生。先生は本当は、何も欲しいモノなんてないんだろう? なら、どうして金が必要なんだ?」
「そうでもないさ。「作家業」で金を稼ぎ、それを「生き甲斐」とすることで「幸せ」に成りたいとは、思っているさ」
「それしか方法が無いだけだろ?」
「まぁな」
 だが、別に構わない。
 明確な目的意識は人生を充実させるために必要であるし、何より嘘も突き通せば、それもこうも長い年月を掛ければ、真贋など無意味だ。
 どちらでも同じ事だ。
 私からすれば、だが。
「あえて言えば、作家として充実した生活を送り続けること、が私の望みなのかもしれないな」
 そういう意味では、私はそもそも「女」という生き物とは相容れない気がする。
 彼女らは「子供」を至上の幸福と、本能的に感じる生き物だ。よくあるのが「子供を産めなくなる」事に対して「絶望」する人間だ。
 私は「産めるようにすればいい」か「誰かに代わりに産ませればいい」と「結果」を重んずる人間なのだが、女という生き物は「気持ち」だとか「過程」こそを重要視する。
 過程。
 過程が良くても結果が伴わねば意味がないと、そう思う私からすれば真逆の発送だ。だからきっとあの女とも相容れないのだろう。
 元より気持ちで動く女と理屈で動く男という生物は根本から違う生き物だ。生物として協調性を必要とした女と狩ることを主軸においた男の違いは、どちらが正しいとも言えまい。
 だが、私は過程などどうでもいい。
 どんな「手」を使おうが、何人死のうが、惑星が滅ぼうが「己が良ければそれで良し」となる私には、「実利」という「結果」こそ全てだ。
 少なくとも女の思考は現実には即していない。感情に生きるとはそういうことだ。現実ばかり見ていれば私のような人間になるのかと思うと、やはりバランスって気もするが。
 それでも欲しい。
 金が欲しい。
 なければ嘘だ。
 それが、本物であるならば、だが。
 誰に押し付けられたわけでもない、己で選んだ道・・・・・・だが、あくまでもその道を選んだのは、その先にある「豊かさ」「成功」「勝利」が欲しかったからに他ならない。それがなければ意味があるまい。
 これは個人だけでなく、社会も同じだ。何か一つを突き詰めると言うことは、その他を捨てることになる。
 人間性は最初から無かった。
 人並みの幸福すらも。
 だから金を求めた。
 それは悪いことなのか? いや、悪かろうが何だろうが、金の力で「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活」を手にしてみせるぞ。
 とはいえ・・・・・・私は既に作家としてやり遂げるべき事を、既に終えている。傑作は幾度と無く書き上げてきたし、後は待つだけだ。
 いや、売り上げを上げるためにもここは作品を広めるべきなのだろうが、それが出来ていれば、苦労はしていない。広めることそのものはとにかくとして、「売り上げ」につながる宣伝など、何をすればいいのかさえ定まるまい。
 結局は口コミが必要なのだから、見る目のある読者が広めてくれることを祈るしかない。まぁ、無料サービスが普及する世の中で「モノの良さ」を喧伝する奴は少ないが。皆、無料のサービスが貰えて当たり前、という意識がある。
 そういう意識で本を読む奴が読者ならば、私に出来ることはない。金も払わずに本を読んでいく奴らなど、私からすればただの泥棒だ。読者ではあるまい。だからある意味、私の作品には読者、と呼べるほどの人間が集まっていないと言える。 読むだけなら猿でも出来る。
 広めてくれなければ噺にならない。作家の仕事は噺を書くことで、広めることではない。
 さて、ここで問題だ。
 ここで考えるべきは何だろうか?
 答えは簡単・・・・・・信じるならば疑いも持たなければならない、ということだ。

 人間の可能性を信じるならば、それより更に、人間の可能性を疑わねばならない。

 未来の希望を信じるならば、それ以上に未来の絶望を感じなければならないのだ。

 可能性を信じるのは簡単だ。だが、信じるだけなら猿でも出来る。人間には可能性があるが、それは裏側を見れば原始的で動物的で欲望のままに生きる、人間の醜さ、「見たくもない部分」を、良く知らねばならない。
 それを知らない奴に語る資格はない。
 語ったところで、薄っぺらいだろう。
 読者も同じだ、奇跡を起こして物語を広めてくれるかもしれないが、それ以上にクソの役にも立たないで立ち読みだけする身勝手な姿も、考えておかねば嘘だろう。そういう読者は必ずいるからだ・・・・・・良い読者だけがいるなど、有り得ない。 私がこれから向かう惑星には「難民」が多いらしいが・・・・・・難民を本気で助けたいと思う人間など一人もいないだろう。
 どこか遠くの噺でしかないのだ。
 勝手に取り上げて話題にして「悲劇」を金に換えるだけだ。「可哀想に」と言う自分自身に、なんて自分は道徳的で素晴らしいのだろうと、自分自身を「肯定」する為だけに、利用する。
 現地に行って救うわけでもあるまいに、馬鹿な奴らだ。素直に「どうでも良いし、自分達の国が迷惑するだけだからジャンジャン死ね」というのが「本音」の癖に、「文明人」であろうとする。 皆に合わせていないと怖いのだ。
 自分達が本当は「己のことしか考えていない自分勝手な生物」だと認めることが出来ないのだ。 馬鹿馬鹿しいことに。
 事実から目を背けて「良い人間」であろうとする。幼い、どころではない。醜悪だ。
 自分が悪だと気づいていない、のではない・・・・・・・・・・・・認める気が無いのだ。恐ろしいことに、「自分達は絶対に正しい」と思い、かつ「邪魔をする奴は悪」だと断定できる。
 しかもそういう人間に限って、「社会的な発信力」は高い。馬鹿ほど物騒な武器を持つ。
 何も考えない奴に、破壊力すら不明な兵器を使わせるのが世の常だ。人類は科学の力で技術は進歩したが、進化はしなかった。
 精神は大昔から変わらない。
 資本が絡めば戦争をするし、感情が絡めば突発的に人を殺す。気に入らなければ阻害するし、自分こそが特別でキチンとした人間であると認められなければ、腹が立って仕方がない。
 理想のみで現実を語る。
 「皆で」決めようとする。
 自分の立派さが分からない人間は、どうかしていると断定する。己の過ちは見もしない。
 訳の分からん生き物だ。
 人間なんて、滅んだ方が世のために成ると思うが・・・・・・「環境と共存」も何も、人間が居なければ戦争も環境破壊も無いだろうに。
 それでも、「自分達の正しさ」を信じようとするのだ。自分達が「悪」だと自認しようと、意地でもしない。
 目の前を見もしなくても「持つ側」なら生きていけるし美味しい思いも出来る、というのだからやるせない噺だ。
 自分の考えこそが世界全てで通じると思っているのだ。通じない相手には「難しくてわからないです」を繰り返す。理解を放棄する。
 人間は、醜い。
 まずはその事実を認めなければ始まらないと言うのに・・・・・・所詮この世界は個々人で出来ている・・・・・・有能な個人が牽引することで、この世界は動かされてきた。正しいかどうかなどどうでもいいが、現実的であることは「事実」だ。
 無論それによる弊害、一部が持つ世界というのはあるが、それにしたって「話し合い」で解決するような問題ではない。
 それは流されているだけだ。

 本当に世界を「変える」ということは、今ある世界全てから「戦い」を挑まれるという事だ。

 戦いを挑まなければならない状況というのは、当人の意志から発生した「誇り」から産まれる。己自身から産まれない「流された」考えで世の中は変わらない。それを理解する時代も、来ることはないのだろうが。
 人間は個体の奴もいるが、群体の方が多い・・・・・・考えない方が楽だからだ。考えもしない癖に、それらしい「結果」いや「理想」と言うべきモノを求め、それでいて行動はしない。
 実に楽そうで羨ましい。
 考えない人間というのは。
 選びたくも無いのに「困難な道」を歩かされている私からすれば、本当に羨ましい。楽な道を、困難を避け無難を行く、というのは。
 自分の間違いを認めないでいるのは。
 私のような最初から「お前は間違っている」と言われ続けた人間からすれば理解し難いが、だだをこねているだけで何かが変わると信じる。
 空気に流される。
 何も考えずに。
 怖い意見は認めない。
 それが現実だから。
 現実は怖いから。
 認めない。
 認めないで、綺麗事で納めようとする。
 それが人間の習性なのかもしれない。
 中身が無くても形が整えば、それでいいと。
 頑張っているからとか、素晴らしいからとか、一生懸命だからとか、馬鹿か。
 だから何なのだ。
 結果のない綺麗事など、醜悪なだけだ。
 具体的なことを考えずに生きてきた奴ほど、それが「道徳的な答え」だからと言って、押し進める馬鹿は多い。迷惑な噺だ。具体的な方策のない言葉など、妄言と変わるまい。
 自分の歩く道は自分で決める。それが生きると言うことだ。だが、物質的に満たされていれば、人間は「自分で何一つ選ばなくても」生きていけるようになった。科学の発展は、それを加速させるばかりだ。
 そもそも人を踏み台にすることの何に罪悪感を抱いているのやら・・・・・・「踏み台になれて感謝しろクソカス共」位の考えで行けばいい。何人死のうが星が滅ぼうが、罪悪感など抱く必要はない。 それこそ幻想だ。
 当人の勝手な自己満足でしかない。
 だが、その一方で人間の信念が「結果」に結びつかないのも「事実」だ。そして信念が報われるのに「時期」だの「いつか」だの、そんなのは言い訳でしかない。
 報われないのだ。
 本当に尊いなら報われてしかるべきだ。だが現実には「歩く道」を決めようが決めまいが、運不運で勝者が決まる。
 だから案外、何をしようが同じならば、自分で自分の道すら決められない人間でも、どうでもいい理由で、運不運で、幸せになるということか。 尚更意義のない噺だ。
 サイコロを振るのと変わらない。
 だから案外こうして作品の執筆のため、あれこれ考えることそのものが、壮大な無駄なのかもしれなかった。それを自覚しつつ、こうして作品について検討している辺り、手遅れな職業病って気もするが。
 とりあえずは休める内に休んでおくか。後は情報の整理と、確認だ。事実だけを揃えておこう。 客観的な事実と己の休息。
 何かをする前に、必須の作業だ。
 これから向かう惑星を支配する「空気」は貧困と戦争だ。金を信じると言うことは「人を信じない」と言うことであり、人を信じると言うことは「流れを信じる」ということだ。だが、形のあるモノしか信じない今の世界では、金と武器と食料のみが、少なくともその惑星では信じられているらしい。
 私にとって「始末屋」は労働でしかない。無理に彼らを助ける必要すら無い以上、適当にこなして行きたい。「労働」は無難にこなすに限る。どうでも良い事柄だからだ。逆に「仕事」は無難どころか、息を吸って吐くよりも自然に、いつのまにか終わらせているものだ。
 問題なのは誰にでもあり得る「職業病」というモノ、充実感があり「苦労を認識すらしない」からこその「仕事」だが、しかし職業病による仕事への没頭のしすぎ、というのはやはり治すべきなのだろうか・・・・・・きっと、治らないのだろうが。 治す気が起こらないから「仕事」と呼べるのかもしれない。個人的には、良いところだけを取りたいものだが。
 今回の事柄も、すべからく私は「物語にするにはどうするか?」を考えてしまう。結構な頻度でうんざりするが、だが同時に「自身は作家足り得ている」という奇妙な確信もある。因果な商売だ・・・・・全てを仕事に変えるというのは、つまりそういうことなのだろうが。
 何をやろうが仕事なのだ。
 全てを仕事に活かす。
 出来ればその手間が、金になって欲しいが。
 そうでなくては、こちらとしてもやりがいがないというものだ、それでは本末転倒だしな。
 私は情報サイトを開いた。
 「立派さ」を追求すればするほど、中身はボロボロになるものだ。この惑星の政治形態も、どうやら同じ様だった。
 口に出す内容だけは一人前だ。
 表向きは、だが・・・・・非営利団体の活躍によりめざましい発展を遂げ、貧困と戦争による爪痕は徐々に回復しつつある、「ということに」なっているようだ。こういうのはどこでも同じだ。内実より、大声でそれらしい言葉を叫ぶ方が、優先されるモノなのだ。
 だから実状は散々だった。
 口に出してそれらしいことを述べる人間というのは、どうやら法則でもあるのか、実利や結果を出すことは出来ないらしい。まぁ、綺麗事や自分が出したわけでも無い「誰かの手柄」をさも自分自身が体験したかのように語る馬鹿の言葉など、この程度であるのは当然か。
 所詮、そういう人間は口だけだ。聞く方からすれば、五月蠅くてかなわないが。まるで蠅だ。
 そういう人間は決して消えない・・・・・・集団であれば必ず、馬鹿や怠け者はいる。落ちこぼれの出来損ないだ。
 数だけは多いが、何の役にも立つまい。
 だが、社会というのは実質役に立つか、何かを成し遂げているか、自分で考えているかよりも、立場とか要領とか搾取とか、およそ生物として似つかわしくないくらい汚らしい生き物の方が、美味しい思いをするものだ。
 世の中そんなものだ、豚の方が楽を出来る。
 生きていれば、誰にでも分かることだが。
 社会を変えようがそういう意味では無駄なのだろう。何も考えず声だけが大きい豚が、立場だの権力だのそういう見えないモノで偉ぶる以上、何をどう変えようが無駄だ。
 物事の根底にあるのは当人達の意志だ。意志が腐っているゴミの多い社会など、変えられるはずもない。
 人間のゴミは多い。いや、もう「人間」と呼べるほど「自分で考え」て「自分の目で判断」することができ、「未来を考える」ことの出来る人間など、いるのだろうか?
 少なくとも、数は少なそうだ。
 崇高だろうが尊かろうが、数が少なければ正しくなることは断じて無い。ただ流されるだけで何一つ考えない人間というのは、私からすれば気持ち悪くて仕方がないが、しかし「楽をする」のは間違いなく彼らなのだろう。
 正しいかどうかは知らない。
 楽なことだけは、確かだ。
 何せ、値に一つせず成し遂げもせず、目指すことすらしないのだから。
 それを生きていると呼ぶのかは、やはり知らないがな。死ぬ寸前に後悔するのか、あるいは後悔する思考すらないのか。豚の幸福というのは、案外彼ら自身では考えることが出来ないわけだからその「畜産としての幸せ」を認識できないからこそ、何にでも苛ついて不満があるまま終わるのかもしれなかった。いずれにせよ私にはあまり縁のない噺だ。考察する程度しか、そんな豚の人生など価値はない。
 しかし、考えてみれば経済など流されている人間達の不安そのものだ。株の下落の原因は、大抵が誰が言い出したのかもしれない下らない理由から始まる。ともすると、やはり豚を上手く活用することが「金持ち」に成る方法なのかもしれない・・・・・・面倒だが、やってみるとしよう。
 それらしい「大義名分」があれば何人殺しても許される。いや「正しい」ことになるのだ。国を守るためだとか戦争を早く終わらせるためだとか一体、誰に言い訳しているのか、あるいは自分自身に言い訳しているのか知らないが、とにかく、 人殺しの理由には十分だ。
 テロがあれば大量虐殺しても「良い」。
 資源があれば軍事介入して現地人が何人死のうが「どうでもいい」のだ。「紛争を終わらせる」とか、もっともらしい理由があれば、どうせ国民はすぐ忘れてくれる。
 現地の兵隊が女をレイプしようが、殺そうが、死体を焼こうが虐殺しようが「正義」だ。情報が漏れたところで、どうせそんなのは一部だと、そう言い聞かせればいいし、止められる存在も、国家暴力には存在しない。
 だから「殺人は正義」なのだ。
 驚くべき事ではない、昔から良くあることだ。国家であれば何人殺しても「正しく」できるし、間違っていたところで適当に謝罪すれば、これからは反省して良くしていく姿勢を出していれば、一回二回の虐殺など、罪にはなりはしない。
 事実だ。
 現実だ。
 見ない奴の方が多いが、生憎事実というのは見る人間の数では決まらない。誰も見なかろうが、ただの事実。どう自分達に言い訳しようと自由でしかないが、別にそれで事実は変わらないぞ。
 言ったところで、どうせ一生、見たくないモノは見ないままなのだろうが。見たいモノだけを見る人間というのは、相容れそうにないな。
 事実を暴く作家からすれば、楽そうで羨ましい噺だ。
 どうなのだろう・・・・・・私には計りかねることだがしかし、世の中は「バランス」というモノが存在するのだろうか? 能力にかまけて楽を、あるいはそれは幸運かもしれない・・・・・・が、落ちぶれるというのは珍しくないらしい。無論、成功し続ける人間もいるのだろうが、「成功」するのは、誰にでも出来る噺だ。運や才能があれば、だが。しかし「し続ける」となると難しいのは確かだ。タイ・カップのようには行くまい。行ったところで、敵を作るのは明らかだ。
 今まで苦労したから報われるのか?
 今まで楽をしたから落ちぶれるのか?
 分からない。
 一概にそうだ、とも言えまい。人生は、生きるということは単純ではない。努力したところで、結果が実らないのは当たり前だ。一方で、何もしなくても成功し続ける人間が居るのも、この世界の常ではある。
 ただ、私が断言できるのは「油断」しなくなるのは確かだ。最初から成功し続け「油断」しない人間も多いが、「敗北」ばかりこうも続けて味わい続けると、「全てを疑うこと」を嫌でも覚えるようになる。
 それが良いのかは知らないが・・・・・・それで金になってないところを見ると、最初から成功し続けることが一番良いのでは、とも思う。
 だが私は思うのだ。
 成功しか知らない人間など、面白くはない。人間としての深みは絶対に出ないだろう。まぁそんなモノが出たから何だって気もするが、少なくとも作家には向いていなさそうだ。
 成功しか知らない人間か。
 人に何かを教えることは出来ないだろう。無論成功するに越したことはないし、個人としては、最高の待遇だ。私ならそちらがいい。
 ただ、成功しか知らない人間には「高いところからの景色」しか見えないのだ。強さも弱さも、全く持てない私が言うのもお門違いな気はするがしかし、「強さ」だけある人間というのは、成功しか知らない人間というのは、何を言っても説得力を持つことはない。
 それは成功しているからであって、能力があるからであって、幸運があるからだ。当人達がどう「努力した」とか説明しようが、真似するだけで凡人がそうなることは有り得まい。
 つまり参考にならないのだ。
 成功者の言葉など、ただの戯れ言だ。
 無論、私個人としてはそういう楽な道を歩きたいのだが・・・・・・先述した「バランス」のことを考えると、それが良いのか? 判断できまい。
 少なくとも私は「今までの失敗のおかげで」何かに成功したことなどない。失敗は失敗だ。敗北は敗北だ。それを上手く活かし、勝利できるなら苦労はしない。
 その程度で勝利できれば。
 苦労しない。
 今更過去などどうでもいいが、しかし考える。因果応報、というのはあるのだろうか? だとすれば、今までの苦痛のおかげで成功したのだ、とか偉そうに言われるのか? 御免被りたい噺だ。 成功したからと言って、苦痛や苦悩、そういったあれこれが無かったことになるわけでもないしな・・・・・・それとこれとでは話が別だ。
 いずれにせよこの世界は「敗北者」よりも、成功したり勝利したりする「持つ側」を中心に、社会経済を回している。そして持つ側はいつだって「持たざる側」を本当の意味で理解はしない。
 精々、寄付だの綺麗事だのをばらまくだけだ。 持つ側に出来ることなど、それだけだ。
 変革や革命は「持たざる者」でしか成し得ないと言うことか。考えてみれば「革命」の先導者が裕福な人物であるなど、聞いたこともない。
 大抵、貧困の中から出るものだ。
 渇望する人間の強い意志、というのは。
 そう考えると「面白そう」だ。作品のネタにはなるだろう。私は「正義」や「悪」だとか、あるいは「理不尽」だとか「公平」だとか、そういうモノには興味があまりない。
 私個人の糧になるかだ。
 作品のネタになるかだ。
 つまり私の為になれば、どうでもいい。
 私が良ければ何が正しくても構わない。悪人ぶるつもりもないが、しかし事実だ。そういう人間特有の傲慢さで何人死のうが、どれだけおぞましい世界を作り上げようが、どうでもいい。
 私個人の幸福が全てだ。
 他の人間など知ったことか。
 私は邪道作家だからな・・・・・・充実や生き甲斐、そして経済的豊かさがあれば、他のことなどどうでもいい。惑星が百や二百滅ぼうが、な。
 綺麗事など溝に捨ててしまえ。
 「実利」と「結果」それが全てだ。
 それが伴わない「綺麗事」など知るか。
 何人でも死ね。綺麗事で自分を貶めるよりも、私は惑星が滅ぼうが、私個人が納得できる結末がいい。綺麗事で下らない自己満足など、御免だ。 私は私の為に生きる。
 それだけは曲げさせない。相手が何であろうがな・・・・・・邪魔する奴は「始末」する。
 無論、私は敵を作りたくはないので、そうそう人と争ったりはしないのだが。作品に描く分には誰も文句は言わないだろうしな。
 便利な職業だ。
 我ながら。
 成功や失敗に法則があるのかは分からないが、まぁ良い状態であるに越したことはないだろう。そのためにも今回の労働をさっさと終わらせたいモノだ。
 私は情報を整理する。
 私は正義の味方でも何でもない・・・・・・空気を切れ、という依頼内容についてはおいおい考えるにしても(恐らくは現地の政治に絡むものだろう)無理に人を助ける義理もない。そもそもが正義の味方など、「言い訳をして人を殺す」輩でしかないしな。
 悪人との違いは言い訳をしながら悩んで殺すか、悩まず殺すかの違いでしかない。
 正義、と言うモノは人間の欲望から生まれるものだ。「誰かに認められたい」「ちやほやされたい」そんな動機で動く連中の中身は薄っぺらいものだ。だから私は主人公、というのが嫌いだ。
 敵だけ出していればいい・・・・・・私自身、本が駆ける状況で「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活」を送りながら、金に困らず楽しんでいけるのならば、他の全人類が地獄に堕ちても、鼻歌を歌いながらそれを眺めて楽しめる人間なのだ。うじうじ悩んで仲間の一人二人が死んだくらいで悲しむ奴など、見ていて不愉快だ。
 どうせ出会いに恵まれているのだから、別の奴に乗り換えればいいではないか、そう思う。幾らでも代わりは効くのに「かけがいのないモノ」と思い込みたがる連中は、つまらない。
 暴力で認めさせることが「正義」だしな。正義が何かは暴力の多寡で決まる。そんなモノを眺めていたところで、面白くも何ともない。
 やはり「悪」だ。
 悪でなければつまらない。
 悪こそが・・・・・・面白い。
 情報を見る限り、どうやら難民問題の本格化により、政府軍と反政府ゲリラ、PMC(プライベート・ミリタリー・カンパニー)の本格参入による泥沼化で、そうとう混乱しているようだった。 現地の人々を助けるために。
 そんなお題目のようだ・・・・・・何時から人を助けることが義務になったか知らないが、こういう義務感は政治にも言えることで、投票は行けと言われて行くものではないのと同じだ。支持するカリスマがいるからこそ行動するはずが、行動そのものに「正当性」みたいなモノを張り付けて、行動していればいいや、と考えることを放棄する。
 現代社会には「価値観の義務づけ」が悪い病のように横行しすぎているのだ。
 価値観の押し付け、とも言える。
 義務づけられた価値観など、ロクな結果は産むまい。現にこの介入する軍事勢力とて、頼まれてもいないのに見えない「世論」に合わせて、道徳的に振る舞おうとしているだけだ。笑えるのは、「道徳的に人を助けるのは正しい」と思っている癖に、手段は人殺しのところだろう。
 誰も頼んでもいないのに。
 殺す。
 私たちのおかげで平和になっただろ、と。
 図々しく言うのだ。
 難民を受け入れることが道徳的に正しいからとやってはみるものの、彼らは現実を見ているわけではなく、ただ「立派だ」と認められたいだけだ・・・・・・そんな人間が、現実的な打開策を用意しているはずもなく、難民問題は完全な棚上げ、放っておけば時間が解決してくれるとでも思い込みたいらしい。
 解決しないぞ。
 根底にあるのはお前達の無責任さだからな。
 「己の道」を選ぶことこそ「生きる」ということだ。困難はある、苦難もある、苦痛もある、それでも歩き続けていく。
 それが「生きる」ということだ。
 だが、誰かが言っている言葉で、誰かが言っている新信念で、誰かが言っている生き方で、道を選ぶ人間は後を絶たない。私は全能の神でも、全てを知る人工知能でも、有能なアンドロイドでも無い、ただの作家だ。その私に言えることは、己で選んだ道ではない場所で、己の求める「幸福」は決して存在し得ない、という事実だ。
 それは事実。
 己で信じた道を歩くしかない・・・・・・なんて、私からすれば不明瞭な未来はあまり好まないのだがしかし、それ以外では「幸福」に成れないのは、確かな事実だ。
 成功しなければそれも元も子もない噺だが。私は私自身の道に自信を持っているが、人生という奴は厄介なもので、当人の誇りや意志は、あまり売り上げには関係がない。
 参る噺だ。
 それもまた「生きる」ということの一部なのだと思うと、一筋縄では行かない噺だ。
 まぁ私には心がないのだがな・・・・・・ここで改めて説明しておくと、「心が死ぬ」と「心が無い」では別物だ。その貧困地域などでは、絶望したりして心が死ぬ人間もいるのだろうが、私の場合は最初から概念として存在しない。
 そういう意味では、心が死ねる人間は羨ましい・・・・・・死んでいるだけで、心はそこにある。私の場合はどれだけ手を尽くそうが、無いモノはどこにも有りはしない。
 精々人間の物真似をするだけだ。
 悲しんだり絶望したり喜んだり勇んだりする、人間の姿を、真似るだけ。結局のところ私には、絶望することすら「したくても出来ない」のだ。 だから、最初から「幸福」に成る方法など、ないのかもしれない。いやきっと、通常の方法では有り得ないのだろう。だが、それでも止まれない・・・・・・まるで亡霊だ。
 心を求めてさまよう、亡霊だ。
 どうでもいいがな・・・・・・亡霊だというならば、亡霊のまま幸福を掴み取ってやるまでだ。金の力で「幸福」だということにするのもいい。
 いずれにせよ金、金、金だ。
 少なくとも平穏な生活は買える。
 いっそわかりやすい快楽でも楽しめればいいのだが、しかし「没頭」することが「夢中」になることだとするならば、私が時間すら感じずに、それを続けることが出来るのは「執筆」だけだ。
 だから金だ。
 まずは金だ。
 金が無くては成り立つモノすら成り立たない。無論作品に支障は一切無いが、作品を売る、となると金はかかるしな。
 私はソファに身を預けながら、考える。
 結局のところ、資本主義社会において起こる、数々の犯罪、問題、格差、そういったあれこれは全て、「貧富の差」によるものだ。善人ぶって、つまりは綺麗事を言いながらそれらを解決すると言う人間を、信用してはいけない。なぜならそう歌う人間こそが、「持つ側」に立っていて、美味しい思いをしていながら、所謂「良い行い」をして人に認められたいと願っているだけの、直視できないほど醜悪な正義だからだ。
 誰も見ようとしない。
 少なくとも「持つ側」は・・・・・・貧富の差など、最初から存在してなくて、むしろ自分達はそれらを解決するために動いている、と思い込む。
 きれいな人間でいたいからだ。
 実際には当人達のせいで、格差が広がっているとしても、だ。「持つ側」が直視しなければ、根本的に貧富の差は解決しない。そして「持つ側」に生まれついて成っている人間などに、直視する能力はない。
 現実を直視することなど、彼らには無い。
 見なくても生きていけるからだ・・・・・・金があれば道徳も社会正義も買える。逆に言えばただのカスこそが、社会を動かしているのだ。変えようがあるまい。
 この社会では持つ側が正義なのだから。
 「空気」を切るという変わった依頼、しかし一時的に空気を変えたところで、意味のない自分達の満足感を満たすためだけの支援が増えるか、あるいはチャリティーが頻繁に開かれるだけだろう・・・・・・持つ側の自己満足で終わる。
 世の中は持つ側を中心に回っている。
 だが、持つ側に「信念」や「誇り」はなくても成れる。鐘さえあれば、カスでも成れるのだ。
 そしてカスに出来ることなど知れている。自己満足に綺麗事。そして意味のない一体感。
 それで世界が変わった気になるのだ。
 楽そうで羨ましい限りだ、本当に。
 とはいえ、私はそうは行くまい・・・・・・少なくとも依頼人の女は納得すまい。そういう結末を避けるために、ごまかしの効かない人間である私に、依頼したとも取れるのだから。
 私にごまかしは効かない。
 だから作家をやっている。
 必要なのはいつも事実だ。
 つまり綺麗事をいう人間というのは、貧富の差と言う現実から、「持つ側と持たざる側の存在」から、目を背けた奴なのだ。だから私は、そういう人間が許せないのだろう。
 頂点より各々の個性を。
 個性も無い人間が叫ぶ。
 目指さなくても良いと。
 私から言わせれば、都合の良い綺麗事に飛びついているだけだが。下らない。頂点など事のついででしかない。個性など己の道を歩いていれば、勝手に周りが呼ぶものだ。問題は金だ。
 金を持つ人間こそが、個性だの、あるいは私のような「異端」に憧れるというのだから、笑えない・・・・・・いや笑えるのか?
 言っておくが、異端で良い事など無い。
 物語の主人公のような、と言えば聞こえは良いがしかし、大抵の代わりの効かない人材、芸術家の類というのは、人生で良い思いはしない。
 知らないから憧れる。
 よくある噺だ。
 アイドルの苦労も知らないでアイドルに憧れることと変わらない。「特別な何かになりたい」などと、異端である苦しみ、苦悩、苦痛、そして、その背負う「業」の禍々しさ。
 それらを味わってから言え。
 そうすれば拍手くらいはしてやるさ。手を打つだけなら金はかからないからな。
 業の一つも背負わないで、特別に成りたいなどと、ちやほやされたいだけではないか。どれだけ中身がないのやら。
 現実には金だ。
 ちやほやなど、されても鬱陶しいだけだ。
 その他大勢の意見など知るか。
 己の道を歩けば誰でもそうなる・・・・・・無論、そんな人間だけでは社会は成り立たないので、だからこそ凡俗がいるわけだ。普段楽している癖に、特別さが欲しい、などと図々しい奴らだ。
 どうでもいいがな。
 わたしにはどうでもいい。
 どうでもよくないのは金だけだ。
 ただ、それに勝るモノがあるとすれば、それは
 己の矜持。

 誰にも理解されずとも、己で定めて己で切り開き、己で進む。
 そこに求めるモノがある。
 そうでなくては、面白くないからな。
 男など、そういう生き物だ。
 女は、何だろうな・・・・・・案外、そんな男を馬鹿だと思うのかも知れないが、しかしそれを眺めて楽しむのも、また女かもしれない。
 心というモノは一度、「持って」しまえば、捨てることは叶わない。死ぬこともない。死んだところで、やはり動いてしまうものだ。
 私には分からない。
 男も女も、人間はすべからく「理解」は出来ても「共感」することは、永遠にない。それが出来るようになれば、もう「私」では無いだろう。
 矜持も誇りも、私には理解できて共感できないものだ。だが、どうやらそんな私でも、己の道を選ぶことは出来たようだ。
 作家という道を。
 私は選んだのだ。
 例え心が無くとも、私は選んでそれを歩いた。 だから後悔はない・・・・・・心がないことに対する劣等感すらも、無い。
 ただ考えてしまうのだ。私にはない景色を持つ彼らの思想を。そしてそれは「己の道」を選ぶことで輝くのかと、考えてしまう。
 それが面白い物語になるのか、とな・・・・・・これも職業病か。我ながら不自由なのか自由なのか、よく分からない話だ。
 構わないがな。
 戦争の背景も似たようなものだ。対して考えもせずに「利益になりそう」という理由で戦いは始まる。ご大層な大義名分をひっさげてな。無論、目的は大抵が資源、その次に奴隷、そして戦いそのものを金に換える手法である。
 戦争は金になる。
 軍事力を提供する側、になればだが。
 無論、「軍事力の必要性のアピール」という、見栄のような理由もある。ここで言いたいのは、起きていることが大事だからと言って、理由も同じく大層であるとは限らない、ということだ。
 この紛争惑星もそうだろう。
 どうでも良い理由で戦い、死に、革命を望む。 世の中そんなものだ。
 調べてみると、どうもこの戦場では何らかの実験が行われている節がある。と言うのも、政治力の大きい政府が介入し、戦場を激化させ、さらに横流しの品で戦わせているのだ。
 争いを激化させる基本だ。Aが強ければBに、Aに対抗できる装備を流す。そしてAがそれに感づいた頃に、更にそれに対抗できる装備を売る。 後は繰り返しだ。

 

 戦争というのは厄介なもので、「感情」で動いていることが多い。というのも、人間が合らそう理由は理屈ではなく感情だからだ。
 子供のまま育つと教師か戦争屋になるのは、何時の時代でも同じ事だ。過ぎた力を安易に手に入れられるようになり、そして安易な方法で勝利した人間は進歩しない。
 だから戦争は終わらない。 
 絶対に。
 本能のようなものだ。争いを根本的になくすならば、それこそ私のように「人間を辞める」必要があるだろう。まぁ私は邪魔なら始末するが。
 大体が私の場合先天的異常であって、後天的に人間が心を捨てることは出来ない。これは仕組みの問題だ。私が決して人間と共感できないように彼らも、決して人間性を「無くす」ことは出来ないように作られている。
 感情が死ぬことはある。
 だが、死んだところで死体は残る。死体のような心であって、心が無くなることはない。そもそも心のない人間は、感情が死んだりしない。
 端から「無い」のだ。
 だからよく分からない話だ。争い続けて、一体何が欲しいのやら。恐らくは「栄光」だとか「名誉」だとか「勲章」が欲しいのだろうが、それらは全て一貫して「見栄」と呼ぶのだ。
 認められたいという欲求か。
 私にはないものだ・・・・・・実利があればそれでいいではないか。だが、彼らからすれば誰かに認められ続けることは重要らしい。自分で自分を認めることが出来ない異常、それが正体だ。だから、その他大勢に「君は間違っていない」と言われなければ「不安」になる。
 馬鹿馬鹿しい噺だ。
 笑えないのは、大勢がそれを信じていることか・・・・・・どいつもこいつも。
 金で満足できない馬鹿共が。
 貧富の差か・・・・・・思えばそれも、人間の見栄が行うものだ。独占しようとすれば足りなくなる。そして分け合うことを、人間は絶対にしない。
 誰かが死ななければ、誰かを踏み台にしなければ、誰かが不幸でなくては生きていけない。人間の本質はそれだ。そして、そのくせ金で満足できない、金よりも尊いモノがあるはずだと、恥ずかしげも無くほざくのだ。
 どちらかにしろ。
 私は金を選ぶがね。
 お前達は選べていないだけだ。
 社会情勢に関してはこのくらいでいいだろう。問題は現地の人間の動きか。私はニュースチャンネルを電脳世界から携帯端末でアクセスさせ、開いた。今ではニュースなど、時間の概念のない電脳世界で見るのが一般的だ。私のように画面で、それも旧世代の「端末」などという、無ぶり法則に縛られるやり方で、科学の恩恵を得ようとする人間は稀だろう。
 わかりやすいというかなんと言えばいいのか、一人の少女がクローズアップされていた。どうも「悲劇のヒロイン」として広く、貧困の声を届かせるとかで、引っ張りだこらしい。
 下らない。
 だから何なのだ。
 貧困地帯の人間の写真を撮って、「意識を変えて世の中のために動こう」みたいなアピールをすることに、意味はない。
 ただ空気に流されているだけだ。
 別に当人達の意志で、何かを助けることなど、有り得ない噺だ。
 ただ「道徳的」だから合わせているだけ。
 それだけだ。
 悲劇は金になるからな・・・・・・実際、だから何だという噺だ。貧困地帯でなくても貧困はある。ただ単に「わかりやすくて同情しやすい」だけ。そんなモノから産まれる善意など、鼻クソと同じ。 汚らしいただのゴミだ。
 薄っぺらい偽善に価値は無い。
 それで世界が変わることも、無い。変わればいいなと、自己満足をするだけだ。実態としては、この惑星も「光り輝く石ころ」の為に何人も何人も死体が積み上げられているようだ。石ころを集めるために殺し合いをするなんて、暇な奴らだ。あるいは、頭が子供のままなのか。
 そういう人間に限って、権力を握るが。
 ならば成功者だとか勝利者というのは、何も考えずに生きてきた馬鹿の象徴なのか。だが、そういった人間こそが、美味しい思いをしているのもまた事実・・・・・・事実なのか?
 事実ではないか。
 美味しい思いをしようと何をしようと、精神が幼すぎて「満足」出来ないのだ。こういう手合いは何をしたところで満たされることはない。
 それを幸福とは言えまい。
 あるに越したことはないが、権力などあったところで邪魔なだけだ。面倒事が増えるだけ、とも言えるだろう。
 と、なると私は「作品の出来」とその売り上げ以外に、やはり関心を払う対象は無い。今回の件も、精々「傑作」のネタとして、利用させて貰うとしよう。
 悲劇は様になるからな。
 物語を際だたせる、いい材料だ。
 集団でデモを起こすだけで「革命」を起こせると思っている馬鹿共の姿は、見ていて忌々しいが・・・・・・プレートを掲げて叫んでいれば、政府が要求をのむとでも思っているのか?
 馬鹿馬鹿しい。
 革命に必要なのは「社会的に容認されること」即ち他の政治連合との共存だ。無論交渉材料がなければ噺にならない。誰だって利益は大事だ。善意で人を、まして金のかかる国を助けたりはしない・・・・・・それこそ意味はない。難民の保護じゃないが、善意で助けようとする場合、何の後先も考えてはいないからだ。
 「暴力」で支配し「政治」で絡め取り「契約」で成立させる。それが革命だ。実際、国民の総意などどうでもいい。そんなモノは国家の運営に関係あるまい。だから無理矢理にでも「法案」を通すなりして、「支配」する口実を作り、「政治」の実権を握ることだ。
 民意など何も動かさない。
 何も。
 大勢が騒いでいるだけだ。アイドルのコンサートと、根本は変わらない。
 国民の安全など「出来ている」と言い張り、誰にも詳しく調べさせず、暴力で弾圧できればそれでいい。実際に守る必要などどこにもない。
 政府は民衆のためになど、あるわけが無い。
 所詮、それも利益が絡んで動かしているのだ・・・・・・利益が絡めば、誰かのためには動かない。
 権力があれば責任はかかるが、責任を実際とる奴は一人もいない。誰か適当な奴にやらせれば良いだけだ。その結果、貧困に喘ぐ人間がまぁ何人かは死ぬかも知れないが、関係あるまい。
 事実そうだしな。
 権力があれば、「人殺し程度」は許される。
 資本主義の基本だ。
 貧乏な奴には人権が無いというのが、資本主義社会の意向だ。最も、一部の富裕層のための社会ではあるが、我が儘は通せれば正義だ。
 それが暴力によるものでも。
 通せば「正し」くなる。
 それは「空気」においても同じだ・・・・・・貧困による空気を変えたいのならば、その空気を支配する人間を雇えばいい。
 かくして、私は「悲劇の空気」を支配する少女の護衛任務という体で、その惑星へと向かうのだった。







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