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本能寺の変1582 目次小 光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 135~140 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』

目次小 光秀の年齢 2 柴田勝家と滝川一益 135~140 

135 光秀は、現役の戦国武将。
   中国攻めは、既定の作戦だった。
   光秀には、気力・体力・行動力があった。
136 光秀の遠征戦。
   光秀の甲斐遠征。
137 光秀は、老人ではない。
   しかし、着実に、それに近づいていた。
   信長の部将たち。
   柴田勝家は、六十一歳。
   滝川一益は、五十八歳。
   丹羽長秀は、四十八歳。
   羽柴秀吉は、四十六歳。
138 柴田勝家は、六十二歳で敗死。
   滝川一益にも、老人になる時が近づいていた。
   信長は、一益に、配慮を示した。         『信長公記』
   一益も、六十二歳で没。
139 信長は、老臣たちの「知」を重んじた。
   信長は、老臣たちの体力を気遣った。  「松井友閑宛黒印状写」
140 老人とは。
   光秀は、老人の一歩手前だった。
   光秀の長女は、永禄元年頃に生まれた。
   光秀は、弘治年間に妻木氏を妻に迎えた。

目次  1~317
目次大 1~317

目次大 光秀の年齢 131~151 
目次中 光秀の年齢 131~151
目次小 光秀の年齢 131~151


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。

          ⇒ 次回へつづく   

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