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自分の過去を見つめて“自身”として生きる。

本当の意味で自分のことを客観視できるのは、
その出来事が“どうでも良い”と感じる距離になってからなのかなと思う。

たとえば昔の恋愛は、今になって思えばこういうことだったんだな〜と語れるがその頃は自分の内側から湧いてくる感情に必死だった。

掴んでいる手を離して少し遠い距離の“思い出”と呼べるくらいの感覚になった時、初めて本当の意味で他人事として見ることができるのだ。

これまでたくさんの喜怒哀楽の波があって、それに飲まれることに一生懸命だったんだ。
あの時は自分にはこれしかないと思い込んで来たがそんなことはなかったな、と今では落ち着いて物事を語れる。
それはもう安全な場所・自分の今を阻害されないと分かっている地点から眺めているからなのだとわかった。

映画を観ていると、映画の主人公の状況に感情を動かすことはあるが、それによって自分が「どうにかならない」ことが分かっているため、ちゃんと“自分”という場所に戻ってくることができる。
この“自分という地点”みたいなものが、しっかりと自分に根付いていくと、たとえそれが現在自分の生活にリアルに起こっていることだろうと、少し落ち着いて物事を見るということが適うのかもしれない。

そしてその“自分の地点”は、自分への信頼によって築けるものなのかなと思う。
自分以外の、外側からやって来る周囲の声などに影響されないくらい、どんな時も自分の声だけに真っ直ぐ従うことができれば、その安心感のようなものは育まれる気がする。

だから“どんなことが起こっても大丈夫だ”と思える=自分を信じられるのだろう。これが自信の正体なのだと思う。
『自信』つまり自分への信頼は、自分自身と向き合うことの中でしか築いていけない。
だが、無意識にこれができている人がたまにいる。それはこういったことを意識せずとも、日々自分を自身で信頼して来た人だ。
私は、こういった“無自覚な自信”が叶っている人にずっと憧れていた。
その人にとっては、それが当然の感覚なので「特に何もしていない」状態でそれが適っている。
自分以外の何かの声を採用し“プールの逆回転の渦にはまってしまった”ような人間からすると、それはとても特別なように思えて仕方がないのだ。

自分で自身の流れを起こせている人=自分の人生の舵を掴めている人なのだろう。
長らく自分の水の動きを自身によって起こして来たので、もう手を加えずとも、自分に合った回転の向きが自然と促されている。
だから外からやって来る他人の波には飲まれない、そういったことなのかと思う。

自分や他人の状態を、プールの水にたとえてイメージすると現状が把握しやすいような気がした。
心とは、見えないからこそ分かりにくい。見えるものに置き換えて話すことで、自分だとどういう状態なのか?を見つめやすいのかなと感じる。

🔽自分を変える過程で起こる“逆回転の渦”の話

🔽自分が自身と向き合っていくことで見えたこと


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