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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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#短編小説

第七龍泉丸の素晴らしき航海

第七龍泉丸の素晴らしき航海

 その日、船内にて舵取りを任された三嶋某。彼が船舶免許を持ち合わせない、未熟船乗りだという事は皆が知るところであったものの、荒れゆく大波の中を物の見事に揺れ動かせてみせた若き船乗りに、批判的な声を上げる者は一人としていなかった。

 和歌山湾より東回り、三嶋にとっては初めての遠方航海となった。幼少期より学問の端から端までを忌み嫌っていた青年にとって、天職だろうと始める前から考えていた船乗りという仕

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過ぎ去った十代に

過ぎ去った十代に

 我々の消費してきた時間について考えることは、恐らく何の意味も、教訓も、そして意義もないのだろうと思う。

例えば貴方たちが成し遂げてきた偉業の数々を振り返ったとき、そこに存在するのは時間ではない。行為である。努力である。独りで抱えた悔しさである。時計の針はただ意識外にて行儀良く廻る、焦りと忘却の根源である......。
ただ、人はその残酷な流れに囚われてしまう時が往々にしてある。旧華族の男、取り

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指先から月までの距離

指先から月までの距離

 小学校の頃、卒業文集にあった「自らの夢」という欄を空白にした負い目。そんなものが、今のあたしにどう影響するかなど、あの幼い心では考え付きもしなかった。
将来は教師になりたい。いや、看護師になる。私は大金を得て母に親孝行がしたい。─大概の場合、そこに父の名は登場しない─ 好きな物を好きなだけ食べたい......。

一括りに夢と言えども、その希望が向けられた方向や趣旨、大きさにいたるまでは千差万別

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隣人は、なお愛しく

 ベランダで一人、夜風に当たっていると、隣の部屋より聴こえるは若き男女の言い争いだ。ああでもない。こうでもない。折り合う地点も分からない。その若さ故に、妥協は出来ない。ともすれば......。ほら、勢いよく開いたドアの音の後ろで、か弱い足音がぱたぱたと。赤の他人の痴話喧嘩、秋の風にはよくよく溶け込む。

 
 ベランダで洗濯物を干していると、隣の部屋より聴こえるは、若き男女のしおらしい声だ。俺が悪

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螺旋階段の夜

螺旋階段の夜

 このような真夜中に考えつく文章は、如何に浅はかで展開を広げる余地もなく、ただ外の夜に浮かぶ月だか街灯だかに吸い込まれて行く運命にある。散り散りとなった思考を纏めたいのであれば、今にも閉じそうな瞼に力を入れる必要など無いものを、私はまた意固地になって何を表現しようと言うのだ。
──あの螺旋階段は、今もなお建っているか。貧弱な睡眠欲を奪い去ったのは、こんな考えから来る好奇心だった。あの螺旋階段、等と

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秋が過ぎてゆく

秋が過ぎてゆく

 見覚えのある文字。角がやけに鋭利で可愛げがない、そんな特徴的な彼女の文字は、少しの寂寥感を帯びて僕に届くのである。
ノートを机に置いた僕は、付近の国営公園にて歩いた、銀杏並木のさざめきを思い出した。

 彼女とは、映画の撮影現場にて出逢った。特に著名な俳優が出演している訳でもなく、撮影中もどこか諦めた雰囲気が漂う、なんとも歪な現場だった。
当時、大学生だった僕は友人に見物を誘われ、下宿近くの昭和

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秋雨、そして上司との昼食

秋雨、そして上司との昼食

 いまだに声の戻らないオフィスビル。会員証を機械に当てれば、無機質な認証の音がホールに響き渡る。耳鳴りがするほどの静けさに若干胸騒ぎが起きつつ、一度目を閉じてその静寂に呑まれる僕は、やはり本調子ではないようだ。廊下を歩いて行くにつれて、窓の外で頻りに降る秋雨もその力を増している。しかし、ここには雨の音など届くはずもない。

 デスクの隅には、薄い埃の層が出来ていた。椅子に座って広い事務所を見渡せば

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収穫祭は遠くとも

収穫祭は遠くとも

 例えば、この秋の冷気が身体に触れたとき、ふいに自らの郷を想ってしまう我が心を、一体だれが責めるというのだろう。窓越しに見えるのはいつしかの紅葉でも、隣に住む幼馴染みの姿でも、畑を耕す叔父の背中でもない。ただ、無機質な建屋が息をせず群れる都市にあって、人混みの中で無数に吐かれた溜息が象徴する、深淵の街「東京」。天候が安定しないのは、皆がやるせない呼吸をするからだ、という叔母のよく分からない冗談を以

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余韻

余韻

「なんだか、急に寒くなってしまったみたい」窓を閉めながら言う彼女は、鼻声になりながらもその冷静さを欠くことはなかった。或いは、彼女に対してその様な印象を持ち続けてきた、僕の偏見であったのかもしれない。
窓が閉まる直前に、隙間風が駆け込んできた。高い音を鳴らして吹き込むそれは、本棚に放置されたチラシ数枚を宙に浮かべた後、満足した面持ちで空気に溶け込んでいく。ごく自然に。静かに座る我々を残したまま──

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静かな夜は、なお愛しい

静かな夜は、なお愛しい

 薄暗い部屋のなか、耳を澄ませば聴こえる、時計の針が規則正しく回る音。その動きを脳内に浮かべてみれば、短針を嘲笑うかのように踊り狂う長針の、意地悪い性格を遠くに思った。昼間に見る風景、夕方に見る風景、この円盤にかき乱される軟派な環境は、良くも悪くも退屈な日々に彩りを与えるようでもあるな......。
 あぁ、この時の流れというものに、いくら助けられてきたのだろう。乗り越えるべき災難や困難というのは

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そして、風となる

 八月を過ぎた頃からどうも彼女の歩みは回復傾向にあるように思えた。普段であれば校門を抜けたあたり、スロープの手摺りにまるで齧りつくような執念を以て一歩一歩着実に足を踏み出す彼女だったが、この秋の肌寒い空気においては、その頼りない右脚も引き締まるらしい。歪なリズムを生みながら真っ直ぐ校舎へ進んでいく姿を見て、どこか残念に感じてしまう自らの心は、不謹慎と言われても仕方がなかった。「僕の肩なしでも、教室

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大背徳時代

大背徳時代

 兄の義之とは、長らく疎遠であった。彼が兼ねてより心の拠り所としていた相馬先生の娘、雪子との交際を終えた後、私がその可憐な少女をもてあそぶが如くの扱いをしたことも、原因の一つだと思う。
 決して名前負けをしていないあの色白の肌、声を噛み殺していながら、時折耳に触れる生暖かい吐息、振動に合わせて感じる背中に立てられた爪の痛み......男の独占欲とはいつの世も争いの源となり得るが、それを以てでしか彼

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ベースボール

ベースボール

 生まれつき右手の指を、上手く開けない男。僕の兄は、自らの特徴を説明する際、必ずこの言葉を用いた。誰かを妬む訳もない、また自嘲する訳でもなく語る彼の表情は、ユニフォームのストライプと同様、白い柔らかさと闇の顔が同居しているような、なんとも歪な印象を人に与えたものだった。

 僕がまだ小学生の頃だろうか。嬉しそうにグラブを選ぶ兄と母の姿、そんな光景をつまらなく感じた記憶がある。兄は余程のことがない限

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秋風大学生日記

秋風大学生日記

 誰が言ったか、冷めの秋風。付き合う男女の仲は秋雨。九月に至ってもこの身を冷やさぬ周囲の風は、だだっ広いキャンパスの熱風をかき混ぜた後、私の心の隙間を苦もなく通過、散々弄んだ挙句、暖められているのは身体のみ──先輩と私の関係性を、物語っている様に思う。

 先輩から、秋風についての小話を教わった。秋の字を『飽き』と掛け『飽き風』、つまり、男女の仲が離れやすいのが、この季節なのだ。それには三つの解釈

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