そして、風となる

 八月を過ぎた頃からどうも彼女の歩みは回復傾向にあるように思えた。普段であれば校門を抜けたあたり、スロープの手摺りにまるで齧りつくような執念を以て一歩一歩着実に足を踏み出す彼女だったが、この秋の肌寒い空気においては、その頼りない右脚も引き締まるらしい。歪なリズムを生みながら真っ直ぐ校舎へ進んでいく姿を見て、どこか残念に感じてしまう自らの心は、不謹慎と言われても仕方がなかった。「僕の肩なしでも、教室まで行けそうだね」
あくまで、そんな表情を見せずに発する一言。そして、彼女は振り返ることなく言った。
「あなたのお荷物と、思われたくはないから」──荷物。いつだって、そんな自虐的な表現の中に我々の関係は成り立っていた。いつだって彼女にとっての僕は親切な荷物持ちだった。

 秋の体育大会を控えた九月、中旬頃を境にしてどの部活も基礎練習に力を入れ始める時期。歴史の浅い我が高校において、創立より毎年続くマラソン大会は、ある意味で部活対抗の凌ぎの削り合いだった。
 当然、バスケ部に籍を置いた僕も、部の名誉のためにせかせかと身体を動かすこととなる。運動部の人員が入り乱れる校庭、各々が人を避けて走るさまを『酔っ払い』と言い表した彼女も、広いグラウンドの隅にキャンバスを立て、いまだ油絵具に汚れていない筆を持ちながら、こちらの千鳥足を眺めている。白線の外と内を何周か蛇行したのち、僕の身体はその集団を独りすり抜けた。

「ねぇ、なにを題材に描いてるの?」

「まだなにも描けてないよ。だから、もっと走ってくれないと」

「......あぁ、僕の走る姿を描いてくれるんだ」

「自分が出来ない行為を、描こうと思ってね」

「折角だから、素直に僕を描いてよ。そこの、木陰で休憩してる姿とか──」

「もう......。いま走っておかないと、マラソン大会でどうなっても知らないよ? レギュラー争い、大変なんでしょう?」

純白のキャンバスにやっと色を落とした彼女だったが、どうしてもその先が続かない。橙色に染まった筆先の震えを見て、僕はその柔らかい身体を右から支えた。呆気に取られた表情が、こちらの頬にあたったのを拍子に、震えた右手をゆっくりとキャンバスに導く。

「秋の紅葉を描くなら、他に何色がいるの?」

「ごめんなさい......。右手はなんともないはずなのに。ダメだね、私ったら」

「でも脚の調子は良いんだろ? ほら、もっと体重をかけても大丈夫だからさ」

そうやって耳元で呟く言葉は、彼女の鼓膜を通じてこちらの肩へとのしかかってくる。そんな安堵の重さを以て、僕の心は満たされるのだ。

「今日はもう描けないみたい。私、帰るね」

「教室にいてよ。そんなに待たせないから」

「私なら大丈夫だって──」

「一緒にいたいんだ」

そう言うと、彼女の身体は僕を置いて、一人でゆっくりと教室まで歩き始めた。残されたキャンバスの右上に一点落ちた橙色の絵具が、音も立てずに下へ垂れようとしていた。


 我々は果たしてどのような間柄なのか、ふいに分からなくなるときがある。クラスの連中は僕と彼女が付き合っていると認識していたし、それは常々こちらから歩み寄る僕の姿が、そうさせるのは間違いないことだった。しかし、僕が自らの気持ちを伝えた際、相手の口から出た言葉は「やめた方が良いよ」というさも後ろ向きなもので、それを遮ったのは彼女を強く抱きしめたこの両腕だった。
返答はなし。それ以上、なんの言葉もない。
彼女は、僕をどのように見ているのだろう。


 美術室から校庭を見下ろす君を、廊下のすみから覗き見ていた。陽が落ちるのが段々と早くなっていく......その寂寥感が君を感情的にさせるのか、それともグラウンドにて舞う各々から伸びた影が、自らの心を打擲しているのか。僕には、その頬を伝う涙の意味を考える義務があるのだろうが、そんな言い方をしても君が喜ばないのは明白であるし、いつまで経っても本心を言い出さないその姿勢に、酷く寂しさを覚えるのは僕だって同じことだった。
 君は、やはり羨ましいのだろう。妬ましいのかもしれないな。その脚が自らを苦しませているにもかかわらず、その脚が僕との関係性を繋ぎ止めていると思い込んでいる。背後から近寄る影に気付いているらしい君は、どうやら涙を拭くのに必死らしい。でも、どちらにせよその顔は酷い逆光で見えなかった。

「君の分まで、走るよ」

「もう私を巻き込まないで」

「それでも僕は、君と歩いて行きたいんだ」

不毛な会話。彼女を誰が救えるわけでもない。どのような状況であろうとも、人は自らの脚で先へと歩いて行くしかないのだ。


 マラソン大会当日、空に放たれた空砲を合図に、僕の脚は動き始めた。校門を抜けようとしたとき、秋の雲を散らす強い風が、この十代の背中を強く強く押したのだった。
 この校庭に戻ってきたら、その隅には彼女が白いキャンバスを立てて待ち構えているのかもしれない。筆が風で飛ばされないように、絵具が下に垂れないようにして、独り待っているのかもしれない。そんな想像は、この両脚に規則正しいリズムを生んだ。
そして愛すべき人のために、僕は風となるよ。

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