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螺旋階段の夜

 このような真夜中に考えつく文章は、如何に浅はかで展開を広げる余地もなく、ただ外の夜に浮かぶ月だか街灯だかに吸い込まれて行く運命にある。散り散りとなった思考を纏めたいのであれば、今にも閉じそうな瞼に力を入れる必要など無いものを、私はまた意固地になって何を表現しようと言うのだ。
──あの螺旋階段は、今もなお建っているか。貧弱な睡眠欲を奪い去ったのは、こんな考えから来る好奇心だった。あの螺旋階段、等という書き方をしても、自分以外の人には見当も付かないだろう。

小学校に通っていた頃だから、もう十数年ほど前の事になる。
「遊びばかりではなく、少しは本を読め」
街外れの図書館へとこちらの手を引いて出掛ける父の姿は、余程遠出をするのが面倒らしく、何かと外出をせがむ私に辟易したかのような、そんな表情をしていた。
仲の良い友人が市立図書館などに現れるはずもなく、父が眉間に皺を寄せながら読む新聞の裏面を眺めるか、運良く返却された漫画(実に教育的な物だ......。火の鳥、ブッダ、三国志等)を暇潰し程度に漁る他なかった。

同館には、無料試聴室、五十人が収まる舞台、上階には自習室が数個に、舌が麻痺する程苦い珈琲を出す喫茶店がある。何かに飽きては移動し、飽きては移動し......を繰り返していた私であるが、供用トイレのさらに奥、届く光も薄く妙に薄暗い場所にて、職員事務所に繋がる螺旋階段を見つけた。
足下に注意を払いながら、一段ずつ丁寧に登っていく。全部で二十段、なんて事はないただの階段である。上から職員が降りて来るたびに、事務所より漏れた光が、若干の錆を持つ手摺を照らしては隠し、照らしては隠し。普段見慣れない螺旋階段にどこか心を奪われた私は、時折父の様子を伺いながら、階段のたもとにてその光景を眺めていた。

幾週が経った。学校の授業にて、将来の夢を皆に発表するという、それは少し小恥ずかしい物ではあったものの、特に目指す先が明瞭とせぬ私は、何の考えもなしに『建築家』と答えた。頭の隅にあの螺旋階段の姿が有ったのは、言うまでもない事である。


──あの螺旋階段は、今もなお建っているか。
かつて自らの口を衝いた『建築家』という夢はたいして具体的な形も見えぬままに終わった。いや、件の階段にそこまで惹かれていたのか、というのも今となっては疑問である。夜が投影する自らの浅い記憶の一つに過ぎないのかも。
しかしながら、確かに過去の自分が語った夢の中には、職員事務所より漏れた光が差し込んできて、幼い日の思考や感情にはもはや手が届かない事を執拗に言い聞かせる。
人はそれを成長と呼ぶ。

未来へと進む代償として、私はいくつもの大切な物を失ってきたのかもしれない。

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