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エッセイ他

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長めの詩と、物語と、ポエムの延長線上にあるエッセイと。
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#小説

僕は土になりたい

僕は土になりたい

 生命の循環する土に還りたい。

 そして何か美しいものを育みたい。

 僕に根を下ろして善いものを吸い尽くし、輝かしい花を咲かせてほしい。

 僕が花になることはできない。代わりに光を蓄える。朽ちて大地を豊かにできるように。

 土壌になるために書いている。

 自分で自分を耕して、掘り起こし、混ぜ返し。

 死んで腐った僕の残骸から、あなたの根が養分を探し当てられるように。

 まだ足りない。

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忘れたい何かを取り戻す

忘れたい何かを取り戻す

 消し去ってしまいたい記憶も自分を構成する一部分ではあるのだから、忘れようとすれば心のどこかを切り離すことになる。

 夫を忘れようとしていた。そのことに気付いた時、身体に中身が少し戻ってきたような気がした。ランダムに形を変える模様のようだった景色が意味を取り戻そうとしているのを感じた。

 僕の生活の大部分は夫に紐付いていた。夫を忘れるためには、生活を忘れる他なかったのだ。

 ほぼ夫としか話さ

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褒められたって嬉しくなかった

褒められたって嬉しくなかった

 僕がもらった賞状を見て、母さんは僕より喜んだ。その瞬間から主役は母さんになった。

 母さんは僕を優秀だと褒めた。母さんは優秀な子供を育てた優秀な母親になった。

 母さんは僕が自慢だと言った。僕は母さんの価値を証明するための賞状になった。

 嬉しかった僕の気持ちはすっかり母さんに盗まれた。母さんの「嬉しい」の餌にするために、僕は「嬉しい」をたくさん持って帰らなきゃいけないと思った。

 母さ

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エッセイこわい

エッセイこわい

 エッセイは怖い。我が身に密着し過ぎているから。創作だからと逃げることも、架空の人物の陰に隠れて腹話術で話すことも許されない。エッセイに書いたことはそのまま自分の中身と解釈される。間違ったことを書いて責められるのも、誰かの感情を逆撫でして嫌われるのも自分。

 腹の中にあるものを隠して善人ぶっていない、正しいとされる価値観を振りかざしていない、むき出しの自分を知られるのが何より恐ろしい。そういう風

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不安

不安

 嫌だ要らない手放したいって君は言うけど、本音では僕が必要なんでしょ?

 僕が君を離さないのは、君が僕を呼んでいるから。

 不安でいないのが不安だから。

 僕は君を守っているよ。

 傷付く言葉、冷たい視線、体調不良、事故に災害。目隠しで見る未来の闇。

 いつも最悪を予測して、備えろと君を急き立てる。

 僕の予言が外れても、君は良かったと喜ぶだろう。

 僕の予言が当たっても、君は充分な

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産みたくない僕の話を聞いて

産みたくない僕の話を聞いて

「子供、欲しいの?」

 グレーのスウェット姿の彼はベッドに寝転んだまま「いてもいいかなと思って」と答える。視線はスマホの液晶の上を細かく上下し続けている。

「どうしてそう思うの?」

「んー、なんとなく?」

 彼は寝返りを打って、にへらと口元を緩める。

「こちらは産みたくないし、今の状況で育てていくのも無理だと思っています。子供が欲しいなら説得してよ。どうして子供が欲しいの?」

 彼はス

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別れを告げる

別れを告げる

 恋は冷める

 憧れは幻滅に変わる

 好きは嫌いに反転する

 では移ってしまった情はどうすれば消し去ることがてきるだろう

 トマトとピーマンと椎茸が嫌いな君

 何時間も目覚ましを鳴らす君

 仕方ないなと最後は笑って、君のどうしようもないところも愛おしんだ

 その時間は僕を構成するブロックの一つになっている

 外して残る空洞をどうやって埋めればいい?

 君が僕を嫌いになって、お前な

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彼の新しい犬

彼の新しい犬

 ケーキボックスみたいな紙の箱の中からキャンキャンと甲高い声が聞こえる。

 片頬を上げて「買ってきちゃった」と言う彼。全身の筋肉が弛緩して重たい泥のように溶けていく。開きかけた口は貝のように閉ざす。抵抗してももう無駄だ。

 箱から取り出したふわふわの子犬を彼は僕の膝に乗せる。君によく似た濃い琥珀色の目と、君に似ていない垂れた耳。覚えのある体温。

 君の定位置だったあの窓辺で、君が寝ていた空色

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バスタブの下の地獄(虫を殺す話)

バスタブの下の地獄(虫を殺す話)

 バスタブに満ちるピンク色の海、ゴム栓の裏の奈落。

 生温い汚水から這い上がっても、柔らかいようでいて歯を立てるには硬過ぎるゴムの天井が立ちはだかる。

 筒に封じ込められた高濃度の闇。もがき疲れて溺れるか、少ない酸素が尽きて窒息するか。

 そこに彼あるいは彼女を突き落としたのは僕だ。

 空飛ぶ小豆のような塊が目に入り、何も考えず手に持っていたシャワーを向けた。

 放出される無数の水滴はそ

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あなたは死ぬまで知らなくていい

あなたは死ぬまで知らなくていい

 あなたを好きになりたかった。

 あなたを好きな私でいたかった。

 あなたを愛する見返りに、あなたに愛してほしかった。

 真冬の川に飛び込めともし言われたら、私は飛び込む覚悟があった。

 あなたを喜ばせるためならば、辱めにも耐えられた。

 あなたに命じられたなら、

 それが望ましいことなのだと、当たり前だと言われたなら、

 行間の期待を読み取りさえしたら。

 足を引っ張るわがままを

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家の剥製(住む人のいなくなった家の話)

家の剥製(住む人のいなくなった家の話)

 住む人を亡くした家に介錯人が自転車で来て、内臓をトラックに運び出し、緑の衣服を切り倒し、家を剥製にしてしまった。

 介錯人たちが去った後、便りを受ける鼻を塞がれ、裸に剥かれている他は、以前と変わらないようにも見えたけれど、その実やっぱり空っぽなのだ。

 血も肉もなくしてしまった、骨と皮だけの張りぼての家。何も巡らない、風化を待つだけの物体。

 生皮はまだ湿っている。

 灰色に腐ったサボテ

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死にたい君に僕ができることはない

死にたい君に僕ができることはない

 死にたいという感情は、「恥ずかしい」と「帰りたい」と「会いたい」の混合物だ。

 できなければいけないことができない自分の不甲斐なさ。誰かに取り返しのつかない傷を負わせてしまった後悔。何の役にも立たず迷惑をかけてばかりの申し訳なさ。

 臭くて汚い惨めな裏切り者の自分を見られたくない。穴があったら入りたい。永遠の墓穴に。

 そしてもう戻って来たくないくらい疲れている。

 逃げ道はまだあるかも

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【小説】仮面と食卓(食事と夫婦関係の話)

【小説】仮面と食卓(食事と夫婦関係の話)

 このお皿、ヒラメの形だね、なんて他愛ない気付きを口にして、ほんとだ、って何のひねりもない返事をもらって、あれ、ヒラメとカレイってどっちがどっちだっけ、とかどうでもいい話をして。

 ヒラメの皿の上から焼き魚を口に運ぶために彼の手は塞がる。テーブルの上の品々が彼の視線を外に向けさせる。

 差し出したわたしの言葉が受け取られる。同じものを見ている。彼の意識の窓がわたしのほうを向いて開いている。

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いつかの思い出(喪失と幸福について)

いつかの思い出(喪失と幸福について)

 密で柔らかな体毛に覆われた臆病な獣の後頭部を眺めながら、川沿いの道を今日も歩く。夏至に向かう朝の太陽で、被毛の白い部分がハレーションを起こす。

 この子が自分の最後の犬かもしれない。

 そう思った時、わかってしまった。今この瞬間、網膜に映っているこの光景が、いずれ何度となく呼び起こすことになる、幸せな思い出そのものなのだと。あまりの眩さに蒸発してしまいそうなほどの光を放つ、まさにその記憶にな

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