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エッセイこわい
エッセイは怖い。我が身に密着し過ぎているから。創作だからと逃げることも、架空の人物の陰に隠れて腹話術で話すことも許されない。エッセイに書いたことはそのまま自分の中身と解釈される。間違ったことを書いて責められるのも、誰かの感情を逆撫でして嫌われるのも自分。
腹の中にあるものを隠して善人ぶっていない、正しいとされる価値観を振りかざしていない、むき出しの自分を知られるのが何より恐ろしい。そういう風に育ってしまった。
想いをわかってもらおうと懸命に説明しても屁理屈と一蹴される。
何が好きか知られれば、「そんなものが好きなんて」と心配という大義名分で攻撃される。
女でないことを知られれば敵とみなされる。
居場所がないということ、世話をしてくれるはずの人に嫌われるということは、子供にとって即ち死を意味する。
心を無防備に晒して生きるのはあまりに危険なことだった。無遠慮に、あるいはサディスティックな悦びを垣間見せつつ、心を切り付けられるくらいなら、心を奥深く封じ込めて大事に鍵をかけておいたほうがいい。ダミーの心を用意して、本当の心は秘密の宝物に。存在を知られなければ暴かれることもないのだから。
でも心というのは宝箱の中に大人しく横たわっていられるほど従順でも無力でもなくて、時には箱ごと暴れ回り、隙間をこじ開けて顔を覗かせる。僕にとってそれは小説だった。小説の中でなら、「これは作者の意見ではなくあくまで登場人物が考えていることですよ」と言い訳した上で主張したいことを書けた。
何年か小説を書いた後で、詩らしきものを書き始めた頃、なんて楽なんだろうと思った。自分の想いをそれとわからないように織り込むために巧妙に世界を構築しなくても、言いたいことをそのまま書けばいいなんて。しかも書かれたものは「作品」であり「創作」として、必ずしも作者そのものとはみなされない。正しいことを書かなくてもいい。詩というものに自由を感じた。
小説にしても詩にしても、僕はただ言いたいことを言いたかっただけなのだ。安全と思える方法で心を表に出してやりたかったのだ。そしてその目的は一応達成されていた。自分が生きるために必要なことだった。
でも。
いつまでもフィクションという建前を隠れ蓑にしていていいのだろうか。
小説を書きたいから小説を書いているのではない。詩を書きたいから詩を書いているのではない。それは小説や詩を命懸けで書いている人、ひいては小説や詩それ自体に対して不誠実な態度ではないだろうか。
言いたいことがあるのなら、自分の身から出た言葉として書くのが筋ではある。自分の中の矛盾も、間違いも、見栄も、嫉妬も、僕自身のものとして知られることになる。自分が本当はどういう人間なのか知られることになる。それは自分自身を手渡して相手の判断に委ねるということで、リスクを知りながら賭けに出るということだ。相手を信頼するということだ。本当の意味で人と生きるというのはそういうことなのかもしれない。
自分という人間が現実に存在していると示すこと、その記録を残しておくことくらいしか、僕が誰かのために、あるいは世界を僕が生きやすいように変えていくためにできることはないような気がする。そのためにはフィクションでは不十分で、自分自身として言葉を発していくしかないのだ。創作物から僕のリアリティを濾し取ってくれるほど他人は暇ではないだろうから。
こうやって決意した風なことを書いていても、きっとまたすぐに詩や小説を書くだろう。正反対のことを言い出すこともあるだろう。ちゃんと自我が芽生えたのが実感としては二十代の終わりだから、子供が世界を知っていくように、きっとまだまだ世界観も考え方も変わっていく。それでも、今ここで書いていることは、今ここにいる自分にとっては真実。未熟な自分の、精一杯の真実。
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