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【小説】仮面と食卓(食事と夫婦関係の話)

 このお皿、ヒラメの形だね、なんて他愛ない気付きを口にして、ほんとだ、って何のひねりもない返事をもらって、あれ、ヒラメとカレイってどっちがどっちだっけ、とかどうでもいい話をして。

 ヒラメの皿の上から焼き魚を口に運ぶために彼の手は塞がる。テーブルの上の品々が彼の視線を外に向けさせる。

 差し出したわたしの言葉が受け取られる。同じものを見ている。彼の意識の窓がわたしのほうを向いて開いている。

 お手玉みたいに心が跳ねる。わたしの中心で小さな男の子がはしゃいでいる。

 この時間があるからわたしは外食が好きだ。



 ねぇ、と呼びかける。

 座布団に寝転がった彼の視線は手元の小さな画面から離れない。返事も、ない。

 わたしはそのまま続きを話す。二秒以上話し続ければ、彼は私に話しかけられていることに気付いてくれる。窓を少しこちらに開いてくれることを、経験的に知っている。だから強引に、一方的に、わたしは話したいことを話す。

 買い物帰りに虹が見えたけどカメラを構えるのが恥ずかしかったこと。道にとても大きなカエルがいたこと。ふぅん、と彼は返事をして、またスマートフォンで窓を塞ぐ。

 ちゃんと聞いてよとわたしの中の男の子が癇癪を起こす。

 わたしは懸命にぼくを宥める。

 仕方ないでしょ、こんなつまんない話、誰も聞きたくないんだから。これ以上、彼を煩わせないで。

 ぼくは顎を梅干しみたいにして涙をこらえる。

 わたしはぼくを放って夕飯の支度を始める。



 食卓についた彼は、箸を手に取るよりも前に、わたしの作ったスープに醤油をかける。

 また地団駄を踏みそうになるぼくをわたしは制する。

 いつもわたしの味付けが薄いから。わたしの不味い料理を彼は工夫して食べようとしてくれてるの。

 彼は買ってきたお惣菜の唐揚げを口に入れ、これはなかなか悪くないね、なんて言っている。繊細に打ちひしがれるぼくをわたしは背中に隠す。

 明日は出前にしようよ、たまには美味しいもの食べたいし。

 彼の提案にそうだねと私は私は微笑む。

 彼の視線を惹きつけているテレビをわたしも見る。可愛い女の子がわいわい喋っている。すごいね、とか、可愛いね、とか、これ何?とか、思ったことを声にしてみる。彼と同じものを見ていることを伝えたくて。

 彼は、うん、と返事をする。

 返事してくれるだけいいでしょ。貴重な自由時間なんだから、好きにさせてあげなきゃ。わたしのわがままで邪魔しちゃ駄目。

 わたしは先手を打ってぼくの口を塞ぐ。ぼくの表情は消えていく。重力に負けて、沈んでいく。



 彼はぼくをわかってくれない。

 わたしがぼくを黙らせたから。

 彼はぼくを見てくれない。

 わたしがぼくを閉じ込めたから。

 彼はぼくがいることを信じてくれない。

 わたしがぼくを嘘にしたから。

 ぼくは亡霊、ぼくは腫瘍、殺処分される狂った獣。

 彼が必要としてくれるのは完璧な役者のわたし。中の人なんていない着ぐるみ。ひとりでに動く、母の、妻の、産む女の仮面。

 透明にされたぼくは内側から心臓を蹴っ飛ばす。

 どっど、どっど、薄い胸板を震わせる。



 ぼくはもう外食をしない。

 その必要がない。

 買って帰った唐揚げを温め直し、唇と歯と舌に意識を向けて頬張る。ちゃんと味がする。命が充填されていく。

 微睡むわたしをあやしながら、一人の食卓でぼくは満ち足りている。

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