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死にたい君に僕ができることはない

 死にたいという感情は、「恥ずかしい」と「帰りたい」と「会いたい」の混合物だ。

 できなければいけないことができない自分の不甲斐なさ。誰かに取り返しのつかない傷を負わせてしまった後悔。何の役にも立たず迷惑をかけてばかりの申し訳なさ。

 臭くて汚い惨めな裏切り者の自分を見られたくない。穴があったら入りたい。永遠の墓穴に。

 そしてもう戻って来たくないくらい疲れている。

 逃げ道はまだあるかもしれない。君のせいではないかもしれない。価値の測り方はもっと他にもあるかもしれない。

 そんな風に考えてみるだけのエネルギーが残っていない。燃料はとうに尽きて、削り取った体を燃やして走っている。終着駅に突っ込んで大破する未来を幻視しながら。

 安全な場所へ帰りたい。追い立てられず、拒絶されず、笑われることもない、本当の家に。楽しかったあの頃に、境界のない母の胎内に、命の始まりも知らない虚空に。

 そこでは誰かが待っている。見捨てられたぬいぐるみ、疎遠になった親友、行方不明の猫、火葬されたおばあちゃん。失われた君の一部。あるいは君を愛してくれるはずだった人、まだ見ぬ女神。


 生きていればいいことあるなんて、生きていて良かったと思える日が来るなんて、そんな無責任なこと言えやしない。

 「死にたい」は因数分解してみれば案外単純で、ちょっとした泥の塗り重ねかもしれない。一つひとつ剥がしていけば、死にたくなんかなくなるだろう。

 でもそのこびりつきは君の皮膚に癒着していて、剥がせば君は血を流すかもしれない。

 君が望んだものはその先にないかもしれない。

 君が幸せになるために、君は必死に守ってきた嘘を捨て去らなければいけないかもしれない。

 痛む覚悟を君に無理強いはできない。

 幸せを罪の色に染めて、わかったような顔で絶望している君は、きっとまだ何も知らない。知らないことにしていたほうが楽なことは確かにある。どちらを選ぶかは君にしか決められない。


 「死にたい」の四文字を絞り出した君に僕が言えることなんて何もない。

 ただ君の帰りたい場所を、君の会いたい誰かの居場所を、指し示す日陰の道標に僕がなれたなら。

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