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可能なるコモンウェルス

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主権者の一人一人が、独立・自立した権力主体=コモンウェルスであることは可能なのか、どうすれば可能となるのか。法の支配・デモクラシー・社会契約、イソノミア・タウンシップ・評議会、イ…
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2022年10月の記事一覧

可能なるコモンウェルス〈22〉

 デモスとは、たとえある者同士が「かねてから人同士を結びつけていた血縁的な関係などにおいてでは、実は全く無関係な者同士だった」としても、その者らを「デモスとして互いに結びつけることが可能となる関係性」として成立している、一般的で社会的な人間集団である。言い換えるとデモスとは、その人間集団としての関係性が「どのような関係の仕方においてでも適用しうるような、社会的で一般的な人同士の関係性」として機能す

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可能なるコモンウェルス〈23〉

 近代のデモクラシー=民主主義の成立を担った人間集団といえば、それは言うまでもなく「市民」である。そしてその「市民という人間集団」が、単に抽象的な区分に終わることなく、明瞭な具体性と現実性をもって一定の社会的役割を果たしうるものとなるよう、その機能的基盤を支えていたのが、自分の意志で自由に扱える資産・資本と、それを活用するに十分な独自の生産手段を所有する、いわゆる「ブルジョワジー」と呼ばれる一群の

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可能なるコモンウェルス〈24〉

 ブルジョワジーたちの関心はそもそも、「自分たちの利得がいかに確保され得るか?」というところにあった。そしてそのためであれば、自分たちがたとえ「何者であったとしても」一向に構わなかったのである。
 ではそのような彼らブルジョワジーが、何をさておいてもまず最優先としていた自らのその「利得」とは一体、どのように見出されるものなのだろうか。
 一般に世の人々の様子を見てみると、どうもその誰もが「自分の福

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可能なるコモンウェルス〈25〉

 自分自身の利得のためなら一切をかなぐり捨てて、その時々の場面に応じて「どんな人間にでもなることができる」し、そのことを全く厭わない。こういったある種の「したたかさ」というのはむしろ、かつてブルジョワジー自身がそこに自らを紛れ込ませ、「自分自身でなくなるようにしてまで」共同化していった、ある具体的な人間共同体=「国民国家」における一般的な利害意識として、あるいはその具体的な人間共同体=「国民国家」

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可能なるコモンウェルス〈26〉

 あらためて、人民主権を基盤とする近代民主主義国民国家が実際に形成されるに到る、その原動力となったものとは何であったかについて考えてみると、それこそまさにブルジョワジーを中心とした市民階級の存在と、彼らが中核的役割を果たして成立した市民社会だったのだというように、ひとまずは言っておいて差し支えはあるまい。そしてこの前提に立ってはじめて、「一般民衆=デモス」は「国民=ネーション」となり、彼らが構成す

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可能なるコモンウェルス〈27〉

 「貨幣」は国民=ネーションを、その「国家の内部において共同化すること」について、大いに役立ったものだと言えるだろう。
 たとえばもしも「ネーション」なるものが、一般に考えられているように何らかの「理念」や「イデオロギー」にもとづくものでしかないのだとしたら、「その国家に内属する全ての人々=国民が、こぞって丸ごと共同化する」などということが、これほどまでに首尾よくうまくいくなどということは、けっし

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可能なるコモンウェルス〈28〉

 ブルジョア階級が政治的ヘゲモニーに対して何らかの意志や意欲を示すのは、彼らの経済的ヘゲモニーが何らかの形で「政治的に侵害される場合」に限られる。端的に言えば「政治に経済が邪魔をされる場合」にこそ、彼らブルジョア階級は「政治的に反応する」のである。そこではじめて彼らブルジョア階級は、彼ら自身の手と「力」によって政治的なヘゲモニーの掌握を目指し、その力を用いることで彼ら自身の「経済上の目的」から、い

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可能なるコモンウェルス〈29〉

 ブルジョア階級は、彼ら自身が築き上げた「何者でもないがゆえに何者にでもなれる自由な世界」へと、世の全ての者たちを誘い入れようとする。そして、呼び込んだその全ての人々を、彼ら自身と同じような仕方で生きさせようとする。教育や社交、あるいは娯楽遊興などといった、様々な社会的・経済的な生活行動全般を通じて、彼ら自身の手で作り上げてきた「ブルジョア的生活・行動様式」を、社会一般の現実的生活経験として、全て

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可能なるコモンウェルス〈30〉

 ブルジョア階級が歴史的大変動の主要な一翼を担った、市民革命の時代。その精神的支柱となった政治的・社会的理論の側面では、トマス・ホッブズやジョン・ロックあるいはジャン=ジャック・ルソーなどといった、哲学史に名を残す錚々たる面々により、「社会契約」なる概念をキーワードとして盛んな議論が交わされていたわけである。
 ところでこの「社会契約」概念について、実はそれを二種類のものとして区別することができる

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可能なるコモンウェルス〈31〉

 いわゆる社会契約と呼ばれている考えについて、その「根本」には、あるいは「現実」として、たとえばホッブズが言うところの「獲得されたコモンウェルス」として区分される側面が、実際に一定の人間集団あるいは人間共同体の実態的形相としてあらわれているものだと見て、おそらく差し支えはないのだと思われる。具体的に言うとこの、社会契約理論の根本的・現実的側面の実態的形相とは、要するに「国家」の形をとってこの世界に

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可能なるコモンウェルス〈32〉

 「何処の誰であるのかわからない、あるいは何処の誰でもない、誰もが同じような個人=アトムが集結して形成されている、市民社会」においては、しかしだからこそ、「互いに横並びの市民同士は、たとえ知らない人に対してでも、『言うべきことはきちんと言う』ことが要請」(※1)されることにもなる。
 誰もが同じような個人=アトムとして集結したその一人一人の人間、何処の誰であるのかわからない、あるいは何処の誰でもな

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可能なるコモンウェルス〈33〉

 「一般的な社会契約理論と人民主権概念にもとづく、民主的な市民社会のビジョン」においては、何よりもまずその社会に内属する人間同士が、「互いに配慮し合わなければならない」のだという。では一体何のどのあたりが、「互いに配慮するべき要点」となるのか?
 人間というものは何よりまず「自己の保存に留意する」ものなのであり、「自己自身への配慮」が真っ先にその念頭を占めることになるものなのだ、とルソーは言う(※

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可能なるコモンウェルス〈34〉

 実際もしも人間にとってはただ単に、「自己保存だけが目的なのだ」というように考えられているのであれば、それがたとえ「獲得されたコモンウェルス」の観念にもとづいた、国家の独占的・一方的な支配が確立されたような社会の下であっても、とにかくただそれを受け入れて、それにただ黙って服従してさえいれば、その者自身の自己保存については、少なくとも達成され保証されるはずである。
 また、たとえ個々人の自発的な意志

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可能なるコモンウェルス〈35〉

 一般的に考えられている社会契約においては、「自然状態と社会状態」の対比あるいは対立構図が語られる。そこで考えられている、いわゆる「自然状態」というものは、「各個々人の動物的な欲望が剥き出しになった、野蛮で未開な状態」としてあるものだというようにされているわけである。言い換えると、そのように人間が自己の欲望を思うがまま剥き出しに「できる」のは、むしろその人間自身が自己の欲望を「意識していない」から

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