可能なるコモンウェルス〈29〉

 ブルジョア階級は、彼ら自身が築き上げた「何者でもないがゆえに何者にでもなれる自由な世界」へと、世の全ての者たちを誘い入れようとする。そして、呼び込んだその全ての人々を、彼ら自身と同じような仕方で生きさせようとする。教育や社交、あるいは娯楽遊興などといった、様々な社会的・経済的な生活行動全般を通じて、彼ら自身の手で作り上げてきた「ブルジョア的生活・行動様式」を、社会一般の現実的生活経験として、全ての人々に対して与えていく。
 一方そのような経験を通じて、現実社会を実際に生きる一般の人々は、「自分たちの誰もが、いずれはブルジョワジーになれる」のだという期待を抱くところとなる。いや、期待を抱くどころか本心から、自身が日々営む現実生活の「ブルジョワジー化」への願望・欲求にすっかり身を任せ、誰もが皆雪崩を打つように「ブルジョア的生活・行動様式を模倣」しようと必死になっていく。
 人々はその誰もが、「ブルジョワジーが持っているモノ」を本心から欲しがり、そして実際に手に入れようとする。ブルジョワジーなら誰もが持っているであろうその「モノ=商品」は、世の人々の誰もが欲しがるものだから、作れば売れ、そして売れればカネになる。ところで、その「モノ=商品」を実際に作り、売り、カネにしているのは一体、何処の誰なのか?それは言うまでもなくブルジョア階級なのであり、そういったやり方こそが、彼らの得意とする「社会的な支配形態」なのである。
 しかし彼らブルジョア階級は、それをいくら「得意とする」からといって、けっしてそこに留まることをしないのだ。もしもそこでそのまま留まってしまったら、それきりで彼らの発展といったものはもはや望めないこととなってしまうからである。
 ブルジョア階級はたしかに、「ブルジョア的生活・行動様式」を全ての人々に要求する。しかしそれは別に、「特定の生活・行動様式」というわけではけっしてないのだ。むしろそのような「固定的な生活・行動様式」といったものは、まさしくブルジョア階級自身の手によって葬り去られることとなるのである。その上で彼らは「全く新たな、なおかつより一層魅力的な生活様式」を作り出し、人々の前に差し出す。その魅惑的な新奇性に、全ての人々はそれを我がものにしようと殺到する。そこに利得が生まれ、ブルジョワジーはより富むこととなる。この「循環運動」こそ、ブルジョア階級が真に欲するものなのである。

 「ブルジョア的生活・行動様式を共有すること」で、たしかに「いずれは誰もがブルジョワジーになれる」のかもしれない。だがしかしそれは、「ブルジョワジーであり続けること」とは全く違う話である。あり続けるべきブルジョワジーなどという「固定的な様式」というものは、実はブルジョア階級において「何もない」のであった。
 そもそもブルジョア階級とは、一体「何者」であるか?
 それは、「何者にでもなれる手段と力を所有した人間」のことであり、そして実際彼らは「何にでもその身を変える」し、そうすることで生き延びてきたのだった。そして、そのような者であり続けるためになら、彼らは実際「ブルジョワジーであることをやめさえする」のである。それが「彼らの行動様式」なのだ。
 ある意味で言えば、ブルジョア階級とは実のところ、本質的には「何も所有しえない」のかもしれない。彼らは、もし何かを所有することとなるとしたら、むしろ彼らはその所有したものを、絶えず手放し続けなければならないのだ。彼らブルジョア階級は、自身が手に入れ所有している「モノ」を、絶えず何か「他のモノ」と置き換え続けていかなければならない。つまり彼らは、絶えずモノを作って、作ったモノを絶えず売って、売ったモノを絶えず金にしなければならない。この「流れ」こそ、彼らの手元に維持されているのでなければならない、「唯一のもの」だから。
 そんな彼らがもし、「何かのモノを所有し続けようとする」ならば、そしてそのことによって彼らの作り上げてきた「流れ」がそれきり止まってしまったならば、彼らはその途端に、停滞して濁りきった川底に取り残され、その淀んだ底辺に沈んだ、古くさく錆びついた粗大ゴミとして、「自分自身に廃棄されてしまうことになる」のである。

〈つづく〉

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