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誉昧ダンス

「ヨマイです。よろしく」
「はい。よろしく」
「誉れに曖昧で『誉昧』です」
 
優一と私の公演は四日後に迫っていた。残りの日数は本番と同じ劇場で稽古できる。それはとても贅沢な事だ。舞踏と音楽、一夜限りの饗宴…勿体無いようだが、それはプロデューサーの策略らしい。身内の批評家、ライターばかりで客席を埋め、余計な悪評を書かせず、好評な講評のパーセンテージを上げる。即日完売の肩書、一夜の特別感を存分に利用すると。優一の弟であり悪徳編集者、小野誠二の差し金である。
 
事前に優一が下見でピアノを弾いたところ、微かに音に滲みを感じるとのことで、今日の午前、劇場に調律師が訪れた。名を樋口と言う初老の調律師だ。私は二時間、彼が調律する横で舞い続けた。彼の鳴らす音はひとつひとつ意義がある。完璧な音へ向けての徹底した姿勢、それが彼の和音に滲み出ていた。意思ある音は想像力を掻き立てる。旋律無くとも彼の調律は音楽だ。
 
「それはどうも。これで何を?」
「ジェフスキーです。不屈の民変奏曲」
「それは中々…滾るね」
「彼なりに各国の踊りを勉強したらしいです。ピナバウシュやフォーサイス、ドゥクフレにパパイオアヌ。結果何故かその曲に。一時間彼が演奏し、その隣で私が舞います」
「舞う?」
「踊ることです」
「あ、そう。その彼、今日来るの?」
「今日は午後から。午前はお休み頂きました」
「残念」
「表に彼の弟がいますよ。今回の発起人です」
「じゃあ挨拶しておこう」
 
彼は劇場を後にし、数分後、小野誠二がやって来た。缶コーヒーを差し出す。
 
「ヨマイさん、お疲れさまです」
「今度、あの調律師と作品作ってみたいです。彼が調律する横で、私が舞う。面白いと思います」
「兄はお役御免ですか?」
「いえ、優一とも今後やっていきたいです」
「嬉しいです。でも生憎、僕はマネージャーじゃないんですよ。こういうのはこれっきりです」
 
そういえばそうだった。私はこの男が嫌いだ。何事も要領良く正確に狡猾に笑顔でやってのける。他人に決して手の内を明かさない。自分は正解を知り正解に向かう術を持っている、その自負が見え隠れする。兄とは正反対だ。この兄弟と関わって、私は変わっていた。以前の私は誰かと何かをしたいなんて考える人間じゃなかったのに。
 
「ヨマイさん、少し変わりましたね。兄の影響でしょうか?」
 
そしてこの男は人の心を見透かしたように言葉を選ぶ。…大丈夫だろうか?表現者にとって変化は諸刃だ。私は変わりつつある自分の心に素直でいられるだろうか…不安は余計な足枷にしかならない。なるがままに任せよう。
 
そして四日後、この兄弟の栄誉は地に堕ち、私の孤独は昧爽を迎えた。

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