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本能寺の変1582 第93話 13上総介信長 1信秀の死 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第93話 13上総介信長 1信秀の死 

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清洲織田氏、離反。

 同、八月十五日。
 信秀の死から、五ヶ月後。
 今度は、清州勢が攻勢に出た。
 「離反」
 信長を見限った。

  一、八月十五日に、清洲より、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・
    織田三位、申し談じ、
    松葉の城へ(愛知県海部郡大治町西條南屋敷)、懸け入り、
    織田伊賀守、人質を取り、
    同松葉の並びに、

  一、深田と云ふ所に(愛知県あま市七宝町桂境之橋)、
    織田右衛門尉、居城、
    是れ又、押し並べて、両城、同前なり。
    人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。

信長は、那古野から萱津へ向かった。

 同、十六日、明け方。
 信長は、那古野を出陣し、庄内川を渡って萱津へ向かった。

  一、織田上総介信長、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、
    八月十六日、払暁に、那古野を御立ちなされ、
    稲庭地の川端まで、御出勢(愛知県名古屋市中村区稲葉地町)。

    守山より、織田孫三郎殿、懸け付けさせられ、
    松葉口・三本木口(愛知県海部郡大治町三本木)・清洲口、
    三方、手分けを、仰せ付けられ、
    いなばぢの川をこし、
    上総介、孫三郎殿、一手になり、
    海津(萱津)ロヘ、御かかり侯(愛知県あま市上萱津)。

  一、清洲より、三十町計り踏み出だし、海津(萱津)と申す村へ移り侯。

萱津の合戦。

 同日、辰の刻(午前八時頃)。
 戦いが始まった。

  信長八月十六日辰の刻、東へ向つてかかり合ひ、
  数刻、火花をちらし相戦ふ。
  孫三郎殿手前にて、
  小姓立(上がりの)の赤瀬清六とて、
  数度、武篇いたすおぼえの仁体(にんてい)、
  先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散々に暫く相戦ひ、討死。

信長の、二度目の合戦である。

 信長は、急激に、成長していた。
 戦国武将として。
 初戦に比べると、余裕すら感じさせる。
 人間は、環境によって、斯くも、見事に、変わるものなのだろうか。
 年齢(十九歳)など、感じさせない戦ぶりである。

  終に、清洲衆切り負け、片長(かたおとな=長老)、坂井甚介討死。
  頸は、中条小一郎・柴田権六、相討つなり。
  此の外、討死、坂井彦左衛門・黒部源介・野村・海老半兵衛・
  乾丹波守・山口勘兵衛・堤伊与を初めとして、
  歴々、五十騎計り、枕をならべて討死。

信長は、この戦いに勝った。

 松葉城と深田城を取り戻した。

  一、松葉口廿町計りに取出惣構へを相拘へ、追入れられ、
    真島の大門崎つまり(=行き止まり)に相支へ、
    辰の刻(8時頃)より、午の刻(12時頃)まで取合ひ、
    数刻の矢軍(やいくさ)に、手負、数多(あまた)出来(しゅったい)、
    無人になり、引き退く所にて、
    赤林孫七・土蔵弥介・足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。

  一、深田口の事、三十町計りふみ出し、三本木の町を相拘へられ侯。
    要害これなき所に侯の間、即時に追ひ崩され、
    伊東弥三郎・小坂井久蔵を初めとして、究竟の侍三十余人討死。

  これによつて、深田の城・松葉の城、両城へ御人数寄せられ侯。
  降参申し、相渡し、清洲へ一手につぼみ(窄み=小さくなる)侯。

信長は、一目置かれる存在になった。

 最早、「大うつけ」などではない。

 清州城の攻略戦は、この時から始まった。

  上総介信長、是れより、清洲を推し詰め、田畠薙させられ、
  御取合ひ、初まるなり。
                          (『信長公記』)


⇒ 次へつづく 第94話 13上総介信長 2富田聖徳寺 


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