本能寺の変1582 第112話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第112話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首
天正十年1582、三月十一日。
勝頼は、田野に追い込まれた(山梨県甲州市大和町田野)。
三月十一日、武田四郎父子、簾中(れんちゅう)、一門、
こがつこ(駒飼*)の山中へ引籠らるゝの由、
滝川左近承り、嶮難(けんなん)節所の山中へ分け入り、
相尋ねられ侯ところに、
田子と云ふ所、平屋敷に、暫時、柵を付け、居陣候。
*駒飼 同大和町日影付近
滝川一益が勝頼を取り囲んだ。
「最早、これまで」
勝頼は、逃げ場を失った。
則ち、先陣、滝川儀大夫・篠岡平右衛門に下知を申しつけ、
取り巻き侯ところ、
滅亡の時が来た。
最期の様子である。
(勝頼一同は)遁れがたく存知られ、
誠に、花を折りたる如く、さもうつくしき歴々の上﨟、子供、
一々に、引き寄せ々々々々、四十余人さし殺し、
其の外(残った者たち)、ちりぢりに罷りなり、切りて出で、討死侯。
土屋昌恒の奮戦。
武田四郎勝頼若衆、土屋右衛門尉、
弓を取りて、さしつめ引きつめ、散々に矢数射尽し、
能き武者余多射倒し、追腹仕り、高名、比類なき働きなり。
武田信勝は、十六歳。
勝頼の嫡男。
永禄十年(1567)の生れ。
母は、信長の養女(遠山氏の娘)。
武田太郎、齢(よわい)は十六歳、
さすが、歴々の事なれば、
容顔美麗、膚は白雪の如く、うつくしき事、余仁に勝(すぐ)れ、
見る人、あつと感じつゝ、心を懸けぬはなかりけり。
会者定離(えしゃじょうり)*のかなしさは、
老いたるを跡に残し、若きが先立つ世の習ひ、
朝顔の夕べをまたぬ、唯、蜉蝣(ぶゆう=カゲロウ)の化(あだ)なる
命なり。
是れ又、家の名を惜しみ、
おとなしくも(一人前の武士として、勇敢にも)、切つてまはり、
手前の高名、名誉なり。
*会者定離 出会った者には、必ず別れの時が来る=無常観。
勝頼父子、生害。
斯くして、甲斐の武田は消滅した。
歴々討死相伴(しょうばん)の衆、
武田四郎勝頼・武田太郎信勝、
長坂釣竿・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・
跡部尾張守・同息・安部加賀守・土屋右衛門尉、
りんがく長老(大竜寺鱗岳)、中にも、比類なき働きなり。
以上、四十一人侍分、五十人上﨟達女の分。
三月十一日、巳の刻(10時頃)、各(おおおの)相伴、討死なり。
勝頼父子の首。
滝川一益は、その首を信忠へ。
四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
御目に懸けられ侯のところに、
滝川一益の手柄である。
信忠から、即刻、信長へ。
関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第113話 14信長の甲斐侵攻 4勝頼の首
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