見出し画像

#22 音楽史⑰ 【1950年代末~60年代初頭】 ティーン・ポップの時代

クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。

これまでの記事↓

(序章)
#01「良い音楽」とは?
#02 音楽のジャンルってなに?
#03 ここまでのまとめと補足(歴史とはなにか)
#04 これから「音楽史」をじっくり書いていきます。
#05 クラシック音楽史のあらすじと、ポピュラー史につなげるヒント

(音楽史)
#06 音楽史① 古代
#07 音楽史② 中世1
#08 音楽史③ 中世2
#09 音楽史④ 15世紀(ルネサンス前編)
#10 音楽史⑤ 16世紀(ルネサンス後編)
#11 音楽史⑥ 17世紀 - バロック
#12 音楽史⑦ 18世紀 - ロココと後期バロック
#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
#14 音楽史⑨ 【19世紀初頭】ベートーヴェンとともに始まる「ロマン派」草創期
#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
#16 音楽史⑪【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
#17 音楽史⑫【19世紀後半】 普仏戦争と南北戦争を経て分岐点へ
#18 音楽史⑬【19世紀末~20世紀初頭】世紀転換期の音楽
#19 音楽史⑭【第一次世界大戦~第二次世界大戦】実験と混沌「戦間期の音楽」
#20 音楽史⑮【1940年代】音楽産業の再編成-入れ替わった音楽の「主役」
#21 音楽史⑯ 【1940年代末~1950年代】 ロックンロールの誕生と花開くモダンジャズ
〈今回〉#22 音楽史⑰ 【1950年代末~60年代初頭】ティーン・ポップの時代

リズム&ブルースから発達して1950年代に起こった「ロックンロール」のムーブメントは、スキャンダルなどによって数年で収束してしまいました。典型的なポピュラー音楽史では、その後「ビートルズの登場」まで「"つまらない音楽"にチャートを占められてしまう」というような形で、1960年代前後を停滞期として描かれがちです。しかし、それは、数あるジャンルの中で、極端に商業主義を嫌った「ロック史」という「一方的な視線」の描かれ方でしかありません。ある種、科学的・客観的な視点ももつべきの歴史記述において「つまらない音楽」などという主観の視点での評価があからさまになされている状態というのは、いかがなものかと思います。

クラシック史から並列でポピュラー音楽史に接続し、音楽ジャンル全体を俯瞰で見ていくという目的のこの記事シリーズの視点では、ここまでクラシック史のドイツ中心史観を外側から批判し解体してきたのと同じように、「ロック史」の目線も一度外側から相対化する必要があると思います。

今回取り上げる1960年前後は、録音手法やリズム面やアレンジの強化などにおいても試行錯誤と発展の傾向が見られ、引き続き多様な楽曲とアーティストがチャートを盛り上げていた、決して停滞期などではない、むしろ充実した期間であるといえます。いったいどんな音楽がそのように人気となっていたのかを見ていきましょう。



ブリル・ビルディング・サウンド

ニューヨーク・マンハッタンのブロードウェイの一角に、ブリル・ビルディングという建物があり、戦前から戦後までティン・パン・アレーの作曲家が集うオフィスが数多く構えられていました。そして、1950年代後半以降、従来のティン・パン・アレーの作家とは異なる若い作曲家たちが、このビルを拠点にして活動し始めます。多くの作曲家は「アルドン・ミュージック」という出版社に所属し、小さな部屋の中で分業体制を敷き、ヒットソングを生産していきました。

ブリルビルに入居していた150以上の音楽会社の「垂直統合」と呼ばれる制作・経営システムによって、出版・印刷・デモ音源制作・レコードの宣伝・ラジオのプロモーターとの契約などまで、すべてがビル内で完結するようにまでなったのです。ここで産まれた音楽はブリル・ビルディング・サウンドと呼ばれ、ロックンロールブームが収束した後の反動のような形で注目され、1950年代後半~1960年代にかけて流行したのでした。

従来のティン・パン・アレー・ソングは幅広い世代のリスナーを想定していたのに対し、ブリルビルサウンドではあくまで若者向けに作られていた、という点に特徴があります。ロックンロール以降、音楽が「世代」によって分節化されるようになった時代になっていたのです。

1950年代後半、ティーンエイジャーを対象とした「アメリカン・バンドスタンド」などのテレビ・ショーが人気となり、そこから多くのティーンアイドルが誕生していたのでした。パット・ブーンポール・アンカフランキー・アヴァロンコニー・フランシスブレンダ・リーニール・セダカ、キャシー・リンデンなどといった白人ティーンアイドルが人気となり、彼らが歌うティーンズ・ポップスが空前の売り上げを見せていました。こうしたポップ・スタイルの流行とともに、ソングライティングの専門家の需要が増え、ブリルビルで多くのポップソングが生産されていたのでした。

作家チームはエリー・グリニッチジェフ・バリーシンシア・ワイルバリー・マンキャロル・キングジェリー・ゴフィンジェリー・リーバーマイク・ストーラーバート・バカラックハル・デイビッドドク・ポーマスモート・シューマンのように、タッグを組んで制作されることが多かったようです。キャロル・キングは後にシンガーソングライターとして成功して有名になっていますが、この時代ではブリルビルでの職業作曲家だったのです。

ブリルビルのプロダクションと同じような生産手法をとりながら西海岸で音楽拠点となった音楽スタジオが、ロサンゼルスのゴールドスター・スタジオです。ここでは音楽プロデューサーのフィル・スペクターが大きな存在感を発揮しました。フィル・スペクターの独自の制作技術は、その後の音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えました。普及しつつあったテープ録音を駆使し、音楽にさらに厚みを持たせるために、トラックに重ねて録音する「オーバーダビング(多重録音)の手法を発展させたのです。その重厚な音作りは「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれていました。このようなサウンドプロダクションにより、シュレルズロネッツクリスタルズディキシー・カップスなどの黒人ガールズグループが人気となりました。ガール・グループのサウンドにロックンロールに匹敵する迫力を加えるためにアレンジ・レコーディング上の工夫がなされていったのだといわれています。


サーフ・ミュージック

さらに、西海岸では「サーフ・ロック」というスタイルが1960年代前半に流行しました。ドライブやサーフィンといったカルチャーの流行に合わせて、「太陽が照り付けるビーチにビキニ姿の女の子、終わらない夏・・・」といったイメージを盛り上げる音楽として発展していったのでした。歌モノだけでなく、ギターを中心としたインストゥルメンタル・サウンドが多く作られたのも特徴的です。活躍したアーティストとしては、ビーチ・ボーイズディック・デイルデル・トーンズベンチャーズシャンテイズジャン&ディーンアストロノウツなどがいます。


モータウン・サウンド

このように東海岸と西海岸でそれぞれ新しいティーンポップ・ロックが人気となっていましたが、さらにアメリカ中西部にも、音楽生産の重要な拠点が誕生しました。1959年、自動車産業都市であるミシガン州デトロイトに、フォードの下請け工場主だった音楽好きのベリー・ゴーディ・ジュニアがレコード会社を設立します。自動車の街=モーター・タウンにちなんで「モータウン・レコード」と名付けられ、目覚ましい勢いでヒット曲を量産していきました。

モータウンでの音楽生産は、基本的にティン・パン・アレーやブリルビルの手法を踏襲したものでしたが、さらに作曲家チーム専属バンド振り付け担当といったあらゆる専属スタッフを社内に抱え込んでいた点に特徴があります。ゴーディの自動車工場での経験からこうした分業体制の発想が産まれていたようです。さらに、フィル・スペクターと違い、自身も黒人であったゴーディのプロデュース法の特徴として、黒人の尊厳の向上を目標とした「黒人音楽のポップ化(白人化)」があります。グルーヴ感を生み出すリズム&ブルースやゴスペル、ドゥーワップ、ソウル・ミュージックなどを基調としながらも、12小節ブルースを彷彿とさせるような初期の黒人音楽の要素は薄め、ポップ志向を強調しました。熱心なジャズファンだったゴーディーは、ジャズやラテンの要素も取り入れながら、アレンジを洗練化させていったのでした。また、言葉遣いや立ち振る舞い、振り付けや衣装などのステージパフォーマンスまでをアーティストに教育し、都会的なスタイルをプロデュースしたのでした。

モータウンの第1号アーティストはスモーキー・ロビンソンをリーダーとするザ・ミラクルズで、「ショップ・アラウンド」という曲がヒットします。その後ロビンソンはモータウンの副社長となり、ソングライターとしても活躍します。

当時のモータウンを代表するガールグループには、ダイアナ・ロスを擁するスプリームスや、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスマーヴェレッツなど、男性グループにはザ・テンプテーションズフォートップスジャクソン5など、また、ソロ―アーティストではメアリー・ウェルズメイブル・ジョンなどがヒットしたほか、マーヴィン・ゲイや、スティービーワンダーなどの大物アーティストが活躍の準備を整えていました。

1960年代初頭の「モータウン初期のサウンド」としてはシンプルなロックンロールのような風味でしたが、1960年代後半にかけてシンフォニックなサウンドの導入など、念入りな作り込みがなされるようになり、さらに大きな発展を遂げていくことになります。

この時期、モータウンの他にもスタックスヴォルト、スペシャルティ・レコード、アトランティックといった多くの黒人音楽レーベルが誕生し、オーティス・レディングルーファス・トーマス、アレサ・フランクリンなどのアーティストをヒットさせました。

これらの音楽が、レイ・チャールズやサム・クックなどの “ロックンロール化しなかった、リズム&ブルース” のルーツのアーティストから連なる系譜としてソウル・ミュージックと位置付けられるようになったのでした。

モータウン・レコードなどに代表される、デトロイトやフィラデルフィアといった北部地域のレーベルから生み出された、ポップ路線の強いものがノーザンソウル、スタックスレーベルなどに代表される南部地域のレーベルから生み出された、黒人のフィーリングを強めたものがサザンソウル、というふうに呼ばれました。


さて、「ポスト・ロックンロール期」とも言える60年代初頭のブリルビルやサーフロック、ソウルミュージックの音楽をリズム面で総括してみると、それまでのスウィングやシャッフルを基調とした「跳ねたリズム」から、「平板な8ビート」への移行が促されていったことがわかります。こうしたリズム面の基盤の変化と、先述したフィル・スペクターによるレコーディング手法の発展などにより、それまでに比べてポピュラー音楽のサウンド・アレンジの基盤が大幅に更新されていった重要な時期こそが、この60年代初頭だといえます。ロックンロールからこの後のビートルズに代表されるロックへと連なる物語だけを見ると、その間に挟まれたこの時期はレーベル・プロデュースによるアイドル的な生産手法の音楽が主流だったために、ロックとして評価することができない「停滞期」「空白期」となってしまうのですが、それはあくまで数ある音楽史のなかの「ロック史」というただの一分野の視点であるということを強調しておかなければなりません。

一方で、今度は「ブラックミュージック史」というふうな視点で見た場合、突如「ソウル」という分野だけがピックアップされ、ロックンロール、ポップとの相互関係性が見えづらくなってしまいます。ソウルの始祖とされているレイ・チャールズを始点として、差別問題とも密接に絡んだデリケートな切り口も孕みつつ、黒人が社会に立ち向かっていく姿として、その後のファンクやヒップホップまでの連なりの物語がブラックミュージック史として体系づけられています。

ただ、レイ・チャールズは「ソウル」の系譜が確立する手前でまずはリズム・アンド・ブルースのアーティストであり、同時期の「ロックンロールの初期アーティスト」もその音楽が「ロックンロール」と名付けられるまでは同じくリズム・アンド・ブルースとして共通の音楽だったはずです。その後、ブリルビルによる音楽産業が盛り上がったのと同時現象のように、モータウンなどの音楽産業も興っています。つまり、従来の各ポピュラー音楽史の「白人のロック」「ブラックミュージックのソウル」というような人種的な分け方でそれぞれの系譜的な連なりの物語を見るのではなく、同時間軸で縦に切り取ってその特徴を見ていくことも可能なのではないか、そしてそう見たほうが音楽的にとらえやすいこともあるのではないか、という一視点の提案をしておきます。もちろんそれは、人種差別問題を無かったことにしようというものなどではなく、あくまで音楽ジャンルの分節の切り口を相対化していく一提案です。この記事シリーズにおいて、クラシック音楽史、ジャズ史、ロック史、ブラックミュージック史、ミュージカル史、といったバラバラのジャンル体系を解体・結合して俯瞰でまとめていくという目的が前提にあるということを念頭において理解してもらえればうれしいです。


モード・ジャズの誕生とファンキージャズ

クラシック音楽史が、実際にはフランスやイタリアでの大衆文化的なものや、ウィーンのダンスミュージックなど、そしてドイツでの哲学的なもの、というように、一筋縄では語れない多様性があったにもかかわらず、ドイツ人を軸にした「バッハ → ベートーヴェン → ワーグナー → シェーンベルク」という音楽理論上の一直線の物語に強引になぞらえて語られてきたように、ジャズの歴史も、実際には同時並行的に演奏や録音が行われていたにも関わらず、一般的にマイルス・デイヴィスという偉人が辿った音楽理論と音楽スタイルの急進的な進化になぞらえて、ジャズ史全体の時代区分とスタイルが語られています。そして、「クラシックが数百年かけて辿った道のりと同じ進化を、ジャズはわずか数十年で推し進めてしまった」と言われるように、クラシック史とジャズ史は音楽理論的に類似の変遷が見られます。

1940年代から1950年代にビバップ、クールジャズ、ハードバップ、というふうにジャズのスタイルを更新していったマイルスは、1950年代末にモード・ジャズというスタイルを試みるようになりました。

ビバップをはじめとするモダンジャズでは、曲の始めと終わりに合図として「テーマ」が演奏されますが、その間に挟まれた、演奏のメインとなる各楽器のアドリブ・ソロは、その題材となる曲のテーマのコード進行が繰り返され、そのコード進行やコード分解に基づいて即興演奏が行われます。このような、コード進行によるアドリブソロの生成に限界を感じていたマイルスらジャズミュージシャン達は、より新しい方法でアドリブソロを生み出せるように考え始めたのでした。結果、取り入れられたのが、古い教会音楽で使われていた旋法(教会旋法 = チャーチ・モード)を用いることだったのです。

ここでは、もう少し音楽理論的な部分に踏み込んで解説してみたいと思います。クラシック的な楽典や、ポピュラー作曲理論、そして、バークリー音楽大学を中心に確立したジャズ理論まで、基本的に和声法やコード理論というものに共通する骨子として、「ケーデンス(カデンツ)=終止形」という“型”があります。一番シンプルな例としては「お辞儀の和音」がイメージしやすいでしょう。

これを音楽理論的な数字で表したとき、Ⅰ - Ⅴ - Ⅰ(1度→5度→1度)という分析になり、それぞれの和音の役割・性格として

Ⅰ=トニック(安定)
→ Ⅴ=ドミナント(トニックへ戻したい力が働く)
→ Ⅰ=トニック(安定)

という解釈をします。

ドミナントからトニックへと進行することを「解決する」といいます。こういった、和音の役割(「機能」)を体系的に捉える音楽理論が機能和声であり、モーツァルトやベートーヴェンなどの「古典派」の段階で特に忠実に用いられ、その後のロマン派でも転調などを巧みに組み合わせることで応用・発展されていきました。

ブラス・バンドからニューオーリンズ・ジャズ、スウィングジャズに至るまでのアーリー・ジャズも、和声的にはこういった骨組みを基本としていて、ブルーノートといったブルースフィーリングの音程が入るなど、それぞれの和音に「飾り付け」が施されることでジャズっぽさ、オシャレっぽい響きというものが成立していきました。

こうして、ジャズでは 【Ⅱ - Ⅴ - Ⅰ (ツーファイブワン)】というフォーマットが進行の基本となり、ビバップなどのコード進行主体の即興演奏では、この基本の進行の型を組み合わせ、代理のコードに置き換えたり、転調を重ねたりして、複雑化していったのでした。これはクラシックでいうところのロマン派中期の和声の複雑化と同じ傾向と言えます。

そして、その複雑化がとことん極められた結果、行き詰まりを見せたのです。たとえば、1959年に発表されたジョン・コルトレーンのアルバム「ジャイアント・ステップス」の同名表題曲では、ハイテンポで1コーラス16小節中に長3度という珍しい転調を10回も行うという、ツーファイブの組み合わせと転調の極限状態を提示してしまいました。

これは、ワーグナーがトリスタン和音を提示して以降、末期ロマン派にかけての和声の行き詰まりの兆候と非常に似た流れだと思います。

そして、この時期に、音楽教授のジョージ・ラッセルや、ジャズプレイヤーのマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、編曲家ギル・エヴァンス、そしてピアニストのビル・エヴァンスらによって、機能和声的なコード進行ではない、進行感・解決感を排除した色彩的なスケール(音階)中心のモーダルな音楽の研究が進められていき、そのアイデアがマイルス・デイヴィスの1959年のアルバム「カインド・オブ・ブルー」で提示されたのでした。これによって、1960年代からのジャズの方向性が示されたとされ、モード・ジャズの始まりとなったのです。このアルバムの成功により、マイルス・デイヴィスは完全にジャズ界におけるリーダーとして君臨することになりました。

ジャズにおける「コードからモードへの変化」は、クラシック音楽史において「機能和声中心のロマン派の行き詰まりに対し、ドビュッシーが教会旋法や全音階を導入してフランス近代音楽を開拓した流れ」と全く同じだといえます。実際、このアルバムにおいて、クラシックの知識を持った白人ピアニストのビル・エヴァンスの起用が大きな役割を果たしていました。当時、ジャズは黒人の魂だとされ、黒人トランペッターのマイルスが白人ピアニストを雇ったことについて激しい批判が浴びせられてしまいましたが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」と返したといいます。

ビル・エヴァンスはカインド・オブ・ブルーへの参加と前後して、自身のピアノトリオでの活動での表現を始め、ベースのスコット・ラファロとドラムのポール・モチアンとの積極的な相互作用や楽器間の会話がインター・プレイというスタイルと呼ばれて評価され、他のジャズミュージシャンへ大きな影響を与えました。

さて、ジャズ史では1959年の「モード革命」が1940年頃の「ビバップの誕生」と同じように非常にセンセーショナルな出来事として記述され、50年代までがバップの時代、60年代以降がモードジャズの時代、とわかりやすく切り分けられることが多いですが、ビバップから発展したハード・バップというスタイルもむしろ1950年代後半に成立したばかりであり、60年代においてもまだまだ隆盛を見せています。特に、ブルースやソウルの要素が強調された「ファンキー・ジャズ」は60年代、モード・ジャズと並行して栄えていました。

【ファンキー・ジャズの代表的アーティスト】

ホレス・シルヴァー(Pf)
キャノンボール・アダレイ(Sax)
ナット・アダレイ(Cor.)
リー・モーガン(Tp)
ハンク・モブレー(T.Sax)
カーティス・フラー(Tb)
ケニー・ドーハム(Tp)
ボビー・ティモンズ(Pf)
ケニー・バレル(Gt)
ジョー・ザビヌル(Pf)

また、ファンキージャズでは、スウィングから続いていた、ライドシンバルが主体の「4ビート」「シンバル・レガート」と呼ばれるドラミングから、キックとスネアがビートを担う8ビート風味のリズムへ変化していく兆候も見られます。これは、同時期のソウルやロック・ポップに起こったリズム面の変化と同現象と見ることもできますし、ビバップ期からみられていたラテンのリズムでのアフロ・キューバンジャズと、その延長としてボサノバなどのリズムが入ってきた影響ともいえます。


ラテン・ミュージック

サンバが低迷した後、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトによってボサノバが誕生したことにより新たな段階に突入したブラジル音楽。ボサノバはコパカバーナ地区のバーやクラブで発展し、セルジオ・メンデスバーデン・パウエルアイアート・モレイラといった若手ミュージシャンによって盛んになりました。

また、ウエストコーストジャズのサックス奏者として活躍していたスタン・ゲッツが1960年代に入り積極的にボサノバを取り入れ始めました。そして、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、アストラッド・ジルベルトといったボサノバミュージシャンを迎えて制作され1964年に発表された「ゲッツ/ジルベルト」というアルバムが大成功し、アメリカにボサノバブームが巻き起こしたのでした。

このように、ボサノバはモダンジャズと密接に関連した音楽となったのですが、その後ブラジルでは軍事政権がスタートし、退潮していってしまいました。


所変わってジャマイカでは1960年代初頭、カリプソやジャズ、リズムアンドブルースなどが独自に融合され取り入れられたスカというジャンルが発生しました。2、4拍目を強調したリズムが特徴で、当初はジャマイカン・ジャズとも呼ばれたそうです。1962年にジャマイカは独立を果たし、それを祝うムードとともに勢いを増していきました。ザ・スカタライツデリック・モーガンプリンス・バスターらが代表的なアーティストです。



映画音楽もポップ化の傾向へ

前回の記事で書いたように、1950年代後半に上演された3大名作ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「ウエスト・サイド・ストーリー」「サウンド・オブ・ミュージック」は、1960年代にすべて映画化され、その楽曲とともに世界的ヒットとなりました。

一方で、テレビの普及とLPレコードの人気によって、ハリウッド映画はかつての勢いを失い、凋落していきつつもありました。音楽的には、トーキー映画誕生以来、これまで「ミュージカル映画」としてはティン・パン・アレー・オペレッタ的なポップスが作られていたほか、サウンド・トラックとしては、マックス・スタイナーやコルンゴルトを筆頭とした、ワーグナー・マーラー的な手法のシンフォニックな劇伴が中心でした。しかし、1960年代に入り、新たな潮流が生まれてきます。劇伴にもポップ・ロックのサウンドが導入されはじめたのです。そういった音楽を牽引した筆頭が、ヘンリー・マンシーニです。『ピンク・パンサー』シリーズや、TVシリーズの『ピーター・ガン』のテーマ曲が良く知られています。

ヘンリー・マンシーニは、主にオードリーヘップバーン作品を担当したことでも有名となり、『ティファニーで朝食を(1961)』の劇中歌「ムーン・リバー」はスタンダード曲となりました。

『酒とバラの日々(1962)』の同名テーマ曲も有名となり、多くのジャズミュージシャンやヴォーカリストが取り上げるスタンダード曲となりました。

ディズニー映画では、1964年に『メリー・ポピンズ』という実写映画が作成され、劇中歌「チム・チム・チェリー」がヒットしました。しかし、1966年にウォルト・ディズニーが死去したことにより、ディズニー社はここから30年近くのあいだ、模索期に突入することとなります。


ところで、ここでまたジャズの話に戻りますが、モダンジャズでは曲は「題材・合図」であり、楽曲の大半以上が即興演奏中心であるという特性上、オリジナル曲が書かれていたのと並行して、ビバップ期からモードジャズに至るまで引き続きミュージカル曲や映画音楽発のポップス曲、ディズニーソングなどの楽曲も積極的に採用して演奏されてきました。ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」や、ビル・エヴァンスの「Someday My Prince Will Come」は特に有名です。



もはや「楽譜上の大喜利」な現代音楽

さて、ジョン・ケージによって「音楽そのものの概念を問うことが表現」となってしまった、クラシックルーツの学問的実験音楽である「現代音楽」は、アイデア勝負の大喜利合戦状態となり、ますます行き詰まりを見せます。

カウエルアイヴズペンデレツキらはトーン・クラスタという概念を用いて作曲しました。これは、手のひらや肘でピアノの数多くの鍵盤を押さえるなど、ある音名から別の音名までの全ての音を同時に発した状態の和音のことを指します。

画像1

クセナキスは、高度な数学の論理や建築学、コンピュータ計算などを使った確率論的手法で作品を作りました。ストカスティック・ミュージック(推計音楽)といわれるようになります。楽譜も五線譜で書かれず、図形で指示するなど、建築家としての側面も見せています。

クセナキス

このように図形楽譜を用いた現代音楽家は、モートン・フェルドマンもいます。図形譜の発案者は彼といわれています。

画像3

また、人や動物の声、鉄道や都市などから発せられる騒音、自然界から発せられる音、楽音、電子音、楽曲などをテープ録音し、加工・再構成を経て創作されるミュージック・コンクレート(具体音楽)というものも盛んに研究されました。ピエール・アンリピエール・シェヘールなどが代表作曲家です。

結局のところ、このような前衛音楽は、「公衆による鑑賞」という要素が音楽から排除されたものであり、必須の前提条件として「協和音が無いこと」を下敷きに、「学者による“音楽”という概念の形而上学的・哲学的な研究」という役割を担っていったといえます。

鑑賞のために作曲されるというよりか、とにかく新しいアイデアの提示という側面が強く、こうした研究実践が、「手で多数の鍵盤を押さえてもよい」「テープを切り刻んだり編集したりしてもよい」というふうに、音楽の手法のアイデアの1つとして知られたり、音楽というものの制約を取り除いて表現領域の拡張という効果が産まれたりして、次回取り上げるフリー・ジャズやビートルズなど、ポピュラー音楽の芸術化・前衛化のアイデアのみなもとになっていったと言えるでしょう。


→次の記事はこちら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?