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無為自然の探究心と好奇心

なぜ、高学歴エリートの肩書を捨てたのか?

私は、東大卒キャリア官僚という身分や肩書を捨てて、農家・漁師などの仕事をしている。
珍しい経歴に驚かれることは多いが、その理由を聞かれることはほとんどない。聞いてはいけないと誤解されているのだろう。
べつに何かを隠したり、後ろめたい事情があったり、不本意な経緯があったりするわけではない。ただ、聞かれたところで、一言でシンプルに説明できるものでもない。

「エリートの肩書を捨てでも、社会を良くしたいと思った」などと言えたならどんなに格好良いことだろう。しかし、理解や共感を得るために、良い部分だけを切り取ったり、誇張したりするような『演技』はできるだけしたくないというのが私のポリシーだ。

たとえ理解や共感をされなくとも、なぜ高学歴エリートの肩書を捨てたのか、私がどういった人物なのかを相手に伝えたいときがある。
そこで、私のこれまでの物語について、文章にまとめて公開することにした。
それは、無為自然の探究心と好奇心によって育まれる、秩序と多様性をめぐる物語である。

早熟な数学少年

裕福とはまったくもって無縁の家庭に生まれる。ゲームや漫画などは家になく、習い事にも通っていなかった。やることがないので、家にあった新明解国語辞典を読んで過ごしていた。幼稚園の時点で、すでに新明解国語辞典が愛読書だった。
そして、小学1年生の夏休みの自由研究では、そこに載っていた「画数の多い漢字」の書き取り練習をして提出した。
小1の夏休みの宿題といえば、「一」や「二」などの画数の少ない易しい漢字の練習ドリルが一般的だ。「鬱鬱鬱鬱鬱…」などとびっしり書かれたノートを目にした担任の先生はさぞ驚いたことだろう。

このように幼少期から好奇心が強くさまざまなことに興味や疑問を持つ性格だった。

小3のときの担任の先生からは、もう使わないからということで、なぜか小6までの算数の教科書をもらった。
それでハマってしまったのが円周率だ。

「なぜ円周率は数字が無限に続くのか?」

小3で初めて円周率に出会い強烈な印象を抱いた。
驚くべきことに何万桁、何億桁、何兆桁・・・さらにその先にも数字が続いている。人間が知ることができない桁数のところにも、ある決まった数字が確実に存在している。

その理由が知りたくて、もらった算数の教科書を小6まで読み進めた。しかし、答えは書かかれていない。当然、両親に聞いてもこの疑問に答えられない。学校の先生でさえ、自分で調べなさいと言う。
仕方なく、おこづかいを貯めたり、誕生日プレゼントで買ってもらったりして、中学、高校の数学の教科書をなんとか手に入れるも、答えは書いてない。大学レベルの数学の専門書となると図書館へ行くしかなかった。そして、とうとう小5で、「解析」や「代数」といった大学レベルの数学を理解するまでになってしまった。

無限とは、何か?

好奇心だけでなく探究心も強く、興味を持つととことん深く調べたりする性格だった。


テクノロジーへの好奇心

数学ができたおかげで、東京大学に合格する。
大学では、宇宙や自然現象が数式などの数学的表現によって鮮やかに表現される美しさに感動する。そして、この謎を解明したいと思うようになる。
世界には真理があり、数学がそれを解明するのではないかと信じていた。

宇宙や自然の真理とは、何か?

数学や科学には、緻密な論理によって構築された秩序がある。
数学や科学は万能であり、世界には真理や本質が必ず存在するはずだと無邪気に信じていた。

やがて、哲学に直面する。
科学は、人間が世界を認識する方法の一つでしかない。認識論の範疇であり、ゆえに真理や本質の探究には自ずと限界があることを知る。

また、当時、すでに基礎研究には成熟段階の兆しが見えていた。
基礎研究の状況について、大学の講義で教授がこんなたとえ話をしていた。
ある男が落とした鍵を街灯の下で探している。通りすがりの人が一緒に探そうと、その男に「この辺で落としたんですか?」とたずねたところ、「いや、むこうの暗がりで落としたんですが、街灯の下は明るくて探しやすいので。」と答えたという。
また、ある教授は、「博士課程で学べるのは、アカデミックポストで生き残るために論文を量産する技術だ」と言っていた。要するに、難解な研究テーマを選んでしまうと、研究者として生き残れないので、街灯の下で鍵を探す如く、論文の書きやすい研究テーマを選ぶ技術が必要、ということだ。

新しい発見や発明はだんだんと少なくなり、難解な未解決問題ばかりが残っていた。セレンディピティがないと新しい発見を手にすることは難しい。生き残るためにやりたい研究ができない可能性もある。

何も成し遂げずに人生を終えるかもしれない。

人生の意味や使命とは、何か?

自分の外側にある客観的な真理から、自分の内側にある意味や価値といった「物語」を意識し始める。

自分の物語の探究が始まる。

大学では専門分野以外にも教養(リベラルアーツ)を学び、自分の知らない世界が果てしなく広がっていることに気付かされた。受けたい講義があり過ぎて、毎日、朝から晩まで大学に通った。

やがて、データ分析による予測や推定のテクノロジーに高度な数学が用いられていることを知ると、ベンチャー企業で人工知能など最先端の研究開発を行うようになった(※まだ第3次AIブーム前の2005年頃)。
そこでは、基礎研究とは異なり、どうやったら社会を豊かにできるか、という視点で研究開発が行われていた。

そして、就職活動が、さまざまなテクノロジーを知る転機となった。
製造や研究開発の現場をもっと知りたいと、企業の説明会や見学会に申込みまくり、生活を豊かにするテクノロジーの面白さに夢中になった。

次第に、テクノロジーの社会実装に関心が移っていった。

自分の知らない世界への好奇心
多様性の探究が始まる。

ちなみに、就職活動では、リクルートスーツを一度も着たことがなかった(いわゆるスマートカジュアルではあった)。説明会や面接では、「採用される気ないよね?」と説教をされたり、「業者の人ですか?」と疑われたりした。
リーマンブラザーズの採用面接では、為替ディーラーに対して「ゲーム」という単語を不用意に発して誤解されてしまい(けっして為替取引がゲームだとは言ってない)、「金融は社会の血液であり、命を懸けて社会的意義のある仕事をしているんだ」と激怒されたことがある。その一年後にリーマンショックが起きた。
ある電機メーカーの最終面接では、「弊社が第一志望か?」という開口一番の質問に対して、「簡単にごまかせる質問をする意味ありますか?あるいは、第一志望ではないと答えるような誠実な人を落とすんですか?しかも最終面接で?」という回答をして(それが理由かどうかわからないが)、不採用になった。
ある情報システム会社のグループ選考では、クライアントからの案件という設定で超難問(解かれることを想定していない)のパズルが出され、グループで協力することやパズルの正解が案件のゴールではないという採用側の意図や期待を完全に無視して、一人で超難問パズルを解いてしまい、パズルには正解したが、採用はされなかった。

社会の中で生きていくには、とんでもなくピュアで不器用だった。


地位も安定も捨てる

なんとかして、大学卒業後は、技術者(エンジニア)や技術官僚(テクノクラート)になった。
そして、仕事に夢中になり、最先端のプロダクトが完成したときの達成感や、百億円規模の予算の国家プロジェクトを動かす充実感を味わうことができた。

しかし、生活が豊かになった成熟社会において、社会を良くしているという実感が乏しいことに気付く。労働の対価として毎月振込まれる給料に納得感がない。
しかも、たとえば東日本大震災の復興予算の名目で沖縄の道路が整備されていたように、社会課題の解決や大義といった目的が、別の目的のための建前として使われるようになってしまっている。

テクノロジーを使ったものづくりや国を動かす大きな仕事は、たしかに社会を良くするための手段であったが、科学の研究と同様、それらはすでに限界を迎えているのではないか。

テクノロジーも国を動かす仕事も面白い。しかし、それは、ただの自己満足になってしまってはいないか。

労働や仕事とは、何か?

本当に社会の役に立つ意味のある仕事を求めていたところ、地方自治体からの相談があった。「漁業は課題だらけ」、「漁師はなんとかしたいと思っている」ということであった。当時は、政府による地方創生が始まったばかりの頃である。

社会課題の本質を見抜くためには、公明正大かつ現場主義が必要だ。テクノロジーありきだったり、立場に偏ったりしては、本質を見失う。
そこで、テクノロジーなどの手段や、所属や肩書などの立場に縛られることなく漁業の課題と向き合うために、国家公務員を退職することを決意する。
脱エリート」である。

地位も安定も捨てることになるが、そんなものに最初から興味はない。


野性の狩猟本能と食料生産のやりがい

現場の信頼や理解を得るために漁業を手伝い、上から目線にならないよう丁寧に、当事者である漁師たちに話を聞いていった。
ところが、漁師たち数百人に話を聞いてみても、「困っていない」としか言われなかった。
それどころか、「おまえがやりたいだけ」、「おまえが目立ちたいだけ」などといった言われようである。

「漁業は課題だらけ」、「漁師はなんとかしたいと思っている」というのはいったいなんだったのか。

この話をすると、「漁師たちが自分の弱みを見せたくないだけ」、「自分たちが困っていることに気付いていないだけ」といった反論をされることがある。もちろん、そういったこともなくはないだろう。
しかしそれ以前に、そもそも、「漁業は課題だらけ」と言っていたのは誰だったのかというと、それは、行政や NPO など漁業を支援する立場の人たちであった。
あるいは、漁業ひいては世の中を変えたいというエゴで意気込むごく一部の若い漁師たちやよそ者、および、それを「挑戦」や「ヒーロー」として取り上げるメディアであった。

漁業の課題が、これらの人々の仕事や存在意義、あるいは予算獲得のための建前として使われていたのである。

課題とは、何か?

漁業の課題というと、よくあるのが、担い手不足、後継者不足であろう。漁師の数が減っているのでなんとかしなければならない、という課題である。
しかし一方で、魚を獲り過ぎてしまっていて、漁獲量が減っているという課題も聞いたことがあるだろう。ほとんどの地域では、漁法や漁期を制限して魚を獲り過ぎないようにしている。あるいは、漁師の所得を時給換算すると数百円となり、生産性が低すぎるという課題もある。これらの課題を解決しようと思ったら、逆に漁師は減った方がいいのである。

この話を自治体の水産担当の行政職員にするとポカンとされることがほとんどだ。「なぜ、魚を獲り過ぎているのに、漁師を増やす必要があるのか?」という質問に答えられた行政職員はいまだに一人もいない。「国の政策だから」という回答や逆ギレしてくる人までいる。現場や当事者について把握している行政職員はとても少ない。

自治体では、次から次へと国からの新規施策が降ってくるので、それを捌くだけで手一杯だというのは分からなくはない。忙しくなることで良い具合に思考停止しており、課題が建前であることに疑問を抱くことなく、施策は円滑に実行され、行政職員の仕事が表面的に成立するのである。
「手段が目的化している」という批判をよく耳にするが、本来の本質的な目的よりも仕事を効率的に捌くことの方が重視されているのである。

ちなみに、自治体職員に「なぜ、その施策や事業をしているのか?」という質問を本音が出るまで粘り強くすると、「国が言ってるから」、「市長や町長が言ってるから」という回答が第1位で、第2位が「近隣の市町村がやってる/やろうとしてるから」である。ライバル意識が自治体職員の仕事のやりがいに繋がっている。

地域課題について、さらに言えば、日本の各地域はこれまで幾度となく自然災害や社会変化に晒されながらも、力強くかつ柔軟に乗り越えてきたのである。当事者から直接依頼されたわけでもないのに、よそ者である部外者が地域の課題を解決するなど、おこがましい話であり、余計なお世話でしかない。

「余計なことなんかしなくていい、来てくれるだけでありがたい」
たくさんの漁村を訪れては、何度もそう言われた。

漁村に来るだけで、新鮮な魚介類を使った料理を大量にご馳走してもらえたり、漁業について教えてもらえたり、一方的にもらうばかりなのに、そのうえ感謝されるのである。
くわえて、「漁師なんて最低の仕事だ」、「子どもに漁師は継がせない」といった悲しくなるような言葉を何度も聞いた。
褒められたり感謝されたりする機会が少ない漁師たちは承認欲求が満たされていないのだ。
こう言ってしまうと白々しい感じになってしまうが、これは日本の農山漁村などの過疎地域どこにでもあてはまる共通の「課題」だと思う。

ほかにも、現場での洞察から、解決したいけど手間や費用は一切かけたくないといったわがまま、個々の漁師それぞれの不満や不安、危険な作業や長時間労働などの劣悪な労働環境、などはあった。
もちろん、人によっては、これらを課題とみなすこともあるだろう。

ないと困る "ペイン" なのか、あるといいけどなくても困らない "ゲイン" なのか。

あえて挙げるとすれば、劣悪な労働環境はかなりのペインである。しかし、生活面や経済面を見ると、私が訪れた漁師の暮らしは、どの家庭も、私や私の両親の暮らしよりもはるかに豊かであり、正直、困っているとは思えなかった。

これにより、日本は、辺境の漁村部に至るまで成熟社会が浸透しつつあることを確信する。

一方、漁師の仕事を手伝ったことで、野性の狩猟本能が開花する。
さらに、生きるために必要不可欠である食料生産というやりがいにも目覚める。

欲求とは、何か?

このとき、東大や役所ではけっして経験することのなかった、生きているという実感や人間と自然との関わりを体感する。

人間は自然の一部である。

真夏の炎天下の日に、水揚げの仕事を終えてから、漁師たちと一緒に獲れたてのカツオのたたきを肴に飲んだキンキンに冷えたビールが世界一うまいことを知っている。


成熟社会という背景

ここからは、私の思想や持論について述べていくことにする。

漁業の課題は、それを課題とみなすことで恩恵を受ける人たちに建前として利用されていた。

漁業の課題だけではない。世の中を俯瞰するとさまざまなところで同じようなことが起こっている。

ある経営者の講演会で、大学の講義以来10年ぶりに「街灯の下で鍵を探す男」のたとえ話を再び聞いた。基礎研究がそうであったように、ビジネスも同様に成熟してしまっているということだ。
さらに、知り合いのコンサルタントが冗談めかして、「課題がないことが課題である」と言っていた。

平たく言うと世の中は「ネタ切れ」状態なのだ。

当然だが、世の中に問題がなくなったわけではない。"厄介な問題" や "適応課題" と呼ばれるような「正解の無い問題」はたくさん残っている。

成熟社会では、大勢に共通の問題や解き易い問題といった「適度な問題」が、おおむね解決し尽くされてしまったのだ。
このような適度な問題が少なくなった状況でも、雇用や需要を創出するための、あるいは、個人や組織の存在意義やエゴを充足させるための大義名分が必要である。
そこで、地方創生、サステナブル、DX、イノベーション、何かへの挑戦といった、何ら本質的でない問題が「建前」として利用され、世の中にバズワードとして蔓延するようになった。

さらには、残されている問題は、ジレンマ、トレードオフ、利害対立といった葛藤を伴う、難しい問題ばかりである。一方が得をすると、他方が損をする。誰かが幸せになると、誰かが不幸になる。何かが解決すると、違う何かが問題となるのである。
このように成果を出し難い状況でも、自らを正当化するための、あるいは、他者や社会を納得させるための説明が必要である。
そこで、危機感を煽って問題を大きく見せたり、易きに流れては表面的な成果を強調したり、悪い面を隠し良い面だけを切り取ってアピールしたりする「誇張」が激増した。

また、適度な問題が解決された結果、問題解決による差別化が難しくなった。例えば、商品やサービスについては、機能的な価値だけでは差別化できなくなってきている。
このように差別化できない状況でも、選ばれるための、あるいは、選び取るための理由が必要である。
そこで、本来の価値以外で選ばれるよう、お得感、ネーミング、キャッチコピー、見た目、プロセス、ストーリー、理念、体験、宣伝、コミュニティなど、ありとあらゆる手段で感性や心理に訴えかけて行動を促すような「誘導」が横行するようになった。

このように、成熟社会では、本質ではない、建前、誇張、誘導によって社会や経済が成り立ってしまっている。いまの日本の社会や経済を動かしているのは、建前、誇張、誘導なのである。

おそらく、大衆は薄々このことに気付いている。
「おまえがやりたいだけ」と言っていた漁師たちはこのことに気付いているのだろう。多くの国民は、政治家の公約が票のためのアピールであると諦めている。多くの消費者は、営業や宣伝・広告に騙されないようにと身構えている。
あるテレビ通販会社の役員が、「社員のほとんどが自社のテレビショッピングを不誠実だと感じている」と言っていた。消費者だけでなく、売り手側さえも疑念を抱いているのである。まさにブルシット・ジョブだ。

また、課題解決が難しくなると、仕事のやりがいや達成感を得るのが難しくなる。
その結果、建前、誇張、誘導によって表向き課題解決をしているように見せて、裏側では、課題解決ではないところに仕事のモチベーションを見出すことになる。
たとえば民間企業では、顧客の課題解決よりも、いかに多くの利益を出して競争に勝つか、ということに仕事のモチベーションがフォーカスされる。起業家では、いかに投資を受けて注目されるか、ということにモチベーションが向かう。エンジニアでは、価値のあるプロダクトを作るよりも、最先端のテクノロジーを使いたいといったことが仕事のモチベーションになる。官僚では、他省庁との予算獲得競争や省益、あるいは自身の出世などが仕事のモチベーションになる。自治体職員も近隣自治体との競争意識によって、仕事のモチベーションを得ているのである。
もちろん、多くの人が、できるのであれば課題解決をして、社会貢献をして、やりがいや達成感を得たいと願っているだろうが、それが難しい成熟社会では、他のところで自身の欲求を満たしているのである。

正解のある問題が少なくなり、問題のある正解が増えた。

それでは、たとえば、建前がすべて悪か、というとそうでもない。
東日本大震災の復興予算で沖縄の道路を作ったとしても、公共工事で雇用が生み出され、社会資本が整備されるのである。

ほかにも、たとえば、ある地域となんらかの関係がある地域外の人たちのことを、その地域の「関係人口」と呼んで、地方創生に関する政策や事業の目標や成果指標とされることがある。ちょっとでも関係していれば関係人口に計上されるため、目標や成果指標として扱いやすく、関係人口は都合の良い建前として重宝されている。
しかし、関係人口が増えれば、過疎地域の人たちの承認欲求を満たすことに繋がる。この関係人口の本質的な価値は、地域住民の承認欲求を満たすことにほかならない。たとえ建前であっても、結果的に地域の幸福度向上に繋がっているのだ。

豊かな社会とは、何か?

農山漁村といった田舎や集落で生活していると、建前や誇張が通用しないことが多い。「おまえがやりたいだけ」と言っていた漁師たちがそうであるように、建前でなく本音がどうなのか、ということが問われるのである。
また、漁師たちは、例えば魚群探知機のように「本当に漁業に役に立つサービスや製品であれば、みんな買ってるし、広まっている」とも言っていた。
「漁業の課題を解決する」という言葉が、建前や誇張であることも見抜かれている。

都市部の生活や企業のビジネスにおいては、付き合いのある利害関係者(近隣住民や取引先、顧客など)との関係性は、たとえば、金の切れ目が縁の切れ目などと言うように希薄であり短期的である。嫌ならその会社の商品を二度と買わないといったように、選択肢が豊富なため関係を断ち切ることも容易だ。そのため、建前や誇張があっても、たいして問題にはならない。それどころか、お互いに建前や誇張によって付き合うことで、むしろ物事を素早く円滑に進めることができる。したがって、建前や誇張を問い正すといった面倒なことをすることはない。
ところが、田舎や集落といった共同体(ゲマインシャフト)では、毎日顔を合わせ、ともに助け合うような濃密で長期的な関係性である。建前や誇張をそのまま鵜呑みにしては、不利益を被る可能性がある。このことが、田舎や集落の人たちが建前や誇張に敏感であり、都会のように物事が円滑には進まない理由であり、都会の人たちから、「閉鎖的」、「排他的」と言われる所以である。


秩序と物語と演技

建前、誇張、誘導とは、他者の感情や行動を「コントロール」するための技法、つまり「演技」である。これを私は「社会的演技」と呼んでいる。

人間の行動における本質は、利己的な欲求(エゴ)である。人間は自らの欲求を満たすために行動している、と考えるのである。

そして成熟社会の現代では、衣食住など生存のための欲求は充足され、自分の物語を形成したいという欲求が優位になった。その結果、人々は社会の中で自分が欲する物語を得られるよう、社会的演技によって、物語の登場人物となる他者をコントロールするようになったのである。

たとえば、自分が得たい物語(エゴ)に対して、社会貢献や SDGs といった大義を用いて社会的演技をすることで、物語の登場人物であるところの他者に対して共感を誘い、支持を得て物語に必要な仲間や予算を集めるといったことは、よく行われることである。
また、これに共感している人たちは、共感する演技をすることで、その物語に参加し、所属欲求や承認欲求などを満たして、自分の物語としているのである。
共感力という言葉があるが、それは、共感『演技』力のことである。

そして、共感する人たちがいる一方で、不信感や疑念といったネガティブな感情を抱く人たちもいる。物語の登場人物として他人を都合よく利用するためにコントロールしようとしているのではないか、といったように社会的演技を欺瞞だと感じるのである。
「おまえがやりたいだけ」と言っていた漁師たちがそれである。

このように人々の行動を、自身の欲求である物語を形成するために行う演技と捉えるドラマツルギー的世界観は、私のいままでの経験と非常に相性が良く、納得できるものである。

そして、この「物語を形成したい」という欲求は、「秩序を形成したい」という欲求である。自分の生命という秩序を維持したいという欲求とともに、物語とは、個人の意識の中にある秩序であり、欲求である。

人工物と自然を見比べればわかるとおり、人間は自然や社会などさまざまなものをコントロールして秩序を形成してきた。人間はコントロールすることによって、秩序を形成したいという欲求を持っている。

人間が社会において、物語という秩序を形成するために、他者の感情や行動をコントロールしようとする行動が、社会的演技なのである。

表出される人間の行動を演技と捉えて、その背後には秩序と物語という階層構造があるとして行動の原因や理由を説明する ―― これは、世界を見通す私独自のメガネであり、個人の行動やその集合である社会現象について、私が納得するための枠組み、思考パターン、思想、世界観、信念、宗教である。

秩序と物語と演技。
これらの英語の頭文字を取って「ONPフレーム」と名付けている。

このメガネを手に入れたことで、世の中のすべてのことが腑に落ちるようになった。まさにこのメガネそれ自体が私の物語に秩序をもたらしている。

秩序とは、何か? 

ONPフレーム


世の中を変えるにはどうすればよいか

社会をわりと明確に二分する秩序として、変革志向と保守志向がある。

ここで言う変革や保守とは、シンプルに、それを好む傾向や性格のことである。政治や経済における思想に限らないし、また、右や左といったことを意味するものではない。

変革志向の人は、革新、変化、成長、挑戦、偶然、未来、競争、などが好きな傾向・性格にある。
保守志向の人は、現状、安定、維持、慣習、必然、確実、平等、などが好きな傾向・性格にある。

私は、自分の知らない世界、テクノロジーによる革新などが好きなので、どちらかというと変革志向である。

もちろん、人によってグラデーションはあるだろう。
また、人数の割合としては、感覚的に1:9ぐらいの割合であろうか。イノベーター理論で言うところのキャズムの位置ともだいたい一致している。
変革志向の人たちは、数が少ないにもかかわらず、積極的で大胆な行動や発信力により、社会において目立ち、影響力は大きい。
世の中に変革を求める声や挑戦をもてはやす声ばかりが大きく響いているが、実際は保守志向の人たちが多く、民主主義では世の中が大きく変わることはない。
そして、変革志向の人は、エリートであることが多い。成功者であるエリートは、その成功体験から、挑戦や成長を求める傾向にあるのだろう。また、単に頭が良いだけでなく、自分の欲する物語を形成できる、演技の上手い人たちである。
ちなみに、演技には、声色や表情というのもあるが、おもに言語と文脈をコントロールすることによって行われる。数式や機械などの理系的な対象に演技をしても意味がないように、演技は文系的である。そもそも言語や文脈には、数式や機械と違って、曖昧で恣意性があり、この部分をうまく操ることで演技が可能となるのである。曖昧さとは、いわば無秩序であり、無秩序がコントロール可能な余白を生む。
変革志向の人は文系のエリートであることが多い。

そのような演技の上手な変革側の人たちは、自らの物語(エゴ)を形成するために、建前などの演技によりそれを覆い隠し、他者をコントロールすることで物語に必要なリソース(予算や仲間)を手に入れていく。そして、変革側の人たち同士で価値を交換(Give)し合い、不足するものは保守側から搾取したり、行動変容などの経済的あるいは精神的な負担や犠牲といった損を保守側に押し付けたりしながら成長することで、保守側との格差が拡大するのである。

変革とは、何か?

ところで、正論でマウントをとる/とられるという話をよく耳にしたりするが、大義あるいは理想論についても似たようなところがある。
反論が難しい、ということだ。
エゴは容易に批判されるが、大義や理想論は批判が難しい。
それゆえ、「ネタ切れ」となった成熟社会において、大義や理想論は、変革側の人たちの物語にとって非常に使い勝手のよい秩序として機能する。
"大きな物語" である。

変革側の人たちは、大義や理想論の反論の難しさゆえに、自分たちは絶対に正しいと信じ切っており、それらがエゴやおせっかいであるなどというパターナリズムについて省みることはない。
私は、もともとエリートで変革側の人間であるので、変革側の人たちをたくさん見てきた。世の中を変えることが、高貴なる者の義務(ノブレス・オブリージュ)である、と言っている官僚は何人もいた。じつに立派な言葉だが、意味を履き違えていないだろうか。

一方、保守側は、変革側からの搾取や格差によって負担や犠牲を押し付けられている。そして、一向にそれらが良くなる気配がない。そのうえ、変革側の掲げる大義や理想論への反論は難しい。
これにより、大義や理想論が変革側の自己満足やエゴのための欺瞞であるという疑念や不信感が生じる。

ここまで疑念や不信感が広がってしまった状況では、これを覆すのは容易ではない。自己満足やエゴのためではなく、本当に本音で大義や理想論を実現しようと志す変革者がいたとしても、信用されることはない。

そうすると今度は、変革側が、保守側から疑念や不信感を持たれないよう、距離を取るようになる。そして、コミュニケーションを最小限にし、気付かれないよう搾取したり、負担を押し付けたりするようになり、分断の溝が深まる。
あるいは、社会が一向に良くならない原因は、保守側が変わらないからだと問題をなすりつけ、自分たちは保守側と戦っているという対立の構図や難しい問題に立ち向かっているという挑戦の文脈を作り出すことになる。
これらはすべて、変革側に価値や意味を与え、変革側の物語の秩序へと昇華される。

私は農林水産業の仕事をしながら日本全国を旅して、さまざま地域を訪れ、地方創生や地域活性化の事例を見聞きしてきたが、変革側であるよそ者による地方創生や地域活性化と称した活動のほとんどは、これらのパターンに当てはまる。
つまり、数年かけても地元住民を巻き込めず、結局、地元住民とは距離を取って、他の移住者など気の合う仲間同士内輪で盛り上がるようなってしまったり、あるいは、保守的な地元住民を悪者として、それに挑戦する美談として自分たちを正当化するようになってしまったりしている。

余談だが、現地を視察して分かったのは、メディアや行政が成功事例として取り上げる事例は、良い面だけを凄まじく誇張しているということだ。
たとえば、記事では、よそ者がまちづくり団体を立ち上げ、地域全体が活性化して盛り上がっているかのように書かれていても、実際に現地を視察すると、よそ者のほかに地元のノリのいい高齢者3人がまちづくりに関わっているだけで地域全体とは程遠い、ということがあった。

そもそも変革とは、変革側の物語の秩序である。変革ただそれのみでは、保守側の物語の秩序を乱すだけだ。

ここまでは、変革側の利己的な秩序としての変革の側面である。一方で、変革には、利他的な、正確に言えば、社会的な意義も当然ある。しかし、世の中では、VUCA への対応などといった聞こえの良い、流行している建前ばかりが幅を利かせており、変革の「本当の」必要性について語られることは少ない。

なぜ、世の中を変える必要があるのか。

以下では、私が考える変革の社会的意義について4つ挙げてみよう。

一つ目は、将来必ず起こる大きな変化に備えるため。
とある経営者が次のように話していた。
「社内変革や新規事業開発は、事業上の利益のためではなく、あくまで将来起こる社会変化に備えて、変化に慣れておくための予行演習である。」と。
変化が生じたときに、それに適応するように変化できる者が生き残れる、ということはあるだろう。

ちなみに、VUCA の時代と言われるが、VUCA とは何なのか。自然災害や社会の変化などは、歴史を振り返れば、一定の周期で起こっている。Complexity と Ambiguity はそうかもしれないが、本当に Volatility や Uncertainty は増加したのか。VUCA とは、それによって利益を得る企業の煽り文句ではないか。また、変化のスピードはたしかに速くなっているかもしれない。しかし、それを引き起こしているのも、市場競争で勝つために、新たな市場をいち早く見つけようと高速で新商品や新サービスを投入してくる企業などである。これらは、すべて売り手側の都合であり、買い手側は迷惑でしかない。すなわち、VUCA とは変革側が生み出した利己的な秩序である。

さて、話を元に戻そう。
二つ目は、セレンディピティの確率を上げるため。
進化論のように、変化を繰り返していると、たまたま保守側にとっても十分利益になり得るようなものが突然変異的に出来上がる可能性はないとは言えない。

三つ目は、社会や経済を回すため。
GDP への批判で取り上げられる極端な例として、仮に、ビルを建てては壊す、ということを意味もなく繰り返したとしても GDP に計上される、という話がある。地球環境を破壊する産業があると、地球環境を再生する産業が生まれる。変化があると需要が喚起され、雇用が生まれ、経済成長に寄与する。

四つ目は、負担や格差を固定化させないため。
変化がないと社会のどこかに負担や犠牲が滞留、蓄積してしまい、格差や不公平のもととなる。成熟社会では、誰かが得をすると誰かが損をする。ルービックキューブのように、ある一つの面の色を合わせたら、他の面はぐちゃぐちゃになる。全部の面の色を合わせることが不可能な状況では、合わせる面の色を代わりばんこに変えて、公平になるようにするのである。

一つ目と二つ目については変革が報われるのは未来や偶然であり、報われるまでは保守側の秩序としては機能しない。
三つ目は、経済の成長と維持に繋がり、変革側と保守側、双方の秩序となっている。そのため、保守側も多少の変化は許容しつつ、双方の秩序がちょうどバランスする程度の変化が、社会に生じるのである。保守側は、まさに「変わらないために変わる」必要があるのだ。
四つ目は、公平や平等を担保するもので、保守側の秩序である。変革側にはその動機がない。また、保守側が公平や平等を望んだとしても、変革を伴うので、保守側には葛藤が生じる。この葛藤が、総論賛成各論反対のような状況を生み出し、変革が具体的に実行されることはない。

かくして、全体的に見ると、保守側が割を食うかたちで、双方の秩序がバランスするという塩梅で世の中が動いている。

変革の必要性として、ほかに、部分最適から全体最適に移行するためという理由もよく聞くが、変革と保守の観点においては、全体最適が達成されていて、それゆえ世の中が大きく変わることがないというのが私の考えである。

何度も言うが、変革に社会的意義が存在するにせよ、変革は基本的に変革側の秩序である。社会変化を駆動しているのは変革側であり、そのせいで保守側が変化を強いられている。そして、保守側は葛藤しながらも、プラスとマイナスの秩序がバランスするところまで変化を受容しているのである。
逆説的であるが、世の中を良くしようと思うのであれば、世の中が変わらない方がいいのだ。
したがって、保守側の物語に秩序をもたらすような、具体的な目的やメリットのない変革では、保守側が納得するはずがない。

大事なことは、誰かを幸せにするために変革は存在している、ということだ。それを忘れてしまった変革は自己満足やエゴだと言われても仕方がない。

変革は手段であり、目的ではない。

利他とは、何か?

では、保守側の物語に秩序をもたらすように、世の中を変えるにはどうすればよいか。
2つ方法があると考えている。

一つ目は、変革と保守を適切に分断することである。
変革側の人たち同士で集まることで、その外側へ負担や迷惑を生じないようにできれば、好き勝手できるだろう。
しかし、現状では、金融・経済、インターネット・情報、地球環境は繋がっていて共有されており、変革に伴う負担や迷惑が外側に影響を及ぼして問題となることが多い。後述するが、テクノロジーによる変革がこれを後押しするだろう。

二つ目は、変革側が変革することである。
変革側の人たちは、保守側の人たちに、行動変容や意識変容を要求するわりには、自分たちは正しいという自信を持っていて変わろうとしない。
世の中を変えるには、まず、自分たちから変えるべきである。

変革を変革する。

では、どう変わればよいか。

これはおそらくだが、自己犠牲しかないのではないかと考えている。
つまり、上述した変革の必要性の四つ目、負担や格差を保守側に固定化させないために、変革側が自ら積極的に犠牲を払うのである。

自己犠牲のギバーは持続可能でないとか、まずは自分が幸せにならないと他人を幸せにできないとか、といった反論はそのとおりだと思う。
しかし、多くの変革志向の人たちがそのようにやってきた結果、保守側からは、自己満足やエゴであるという疑念や不信感が生まれてしまっている。

"サーキュラー" や "循環" という言葉が流行っているが、このように負の側面を変革側も含めて全員がルービックキューブのように代わりばんこに負担して吸収することこそ、"サーキュラー" や "循環" の本質であると思っている。

なので、いま構造的に保守側が払っている変革のツケを変革側も負担するように変革するのである。

ところで、エリートは演技のうまい人たちである。自己犠牲の演技もおそらくできるだろう。そもそも自己犠牲とは、「他人から見て」自己犠牲に見えるということにほかならない。このように、エリートが演技によって表面的に自己犠牲的になることを「脱エリート」と呼ぶことにする。
自己犠牲の演技によって納得感を与えるだけでなく、多様な人たちに対して、負の側面を負担するように働きかけたり説得したりするには、その対象に応じて適切な演技ができれば、なおさら有効である。
そして、このような「脱エリート」の人たちは、「八方美人」と呼ばれる。保守側からは完全な信頼を得られないものの、保守側に利益をもたらすので支持はされる。
こういった調整役や仲介者のような八方美人としての「脱エリート」が増えてくると世の中がだんだんと変わっていくだろう。

さらに、脱エリートを超越した人として、「真の脱エリート」というのがあるように思っている。
存在としては、まったく目立たないが、保守側の人たちから完全な信頼を得ることに成功している人たちである。

何人か真の脱エリートだと思う人に出会ったことがあるので、その人たちの特徴をいくつか挙げてみよう。

真の脱エリートは、純粋に謙虚である。エリートであるという意識がない。言葉の端々や立ち居振る舞いから、完全にエリートのオーラを消し去っている。相手を批判したり、理想を提案したり、知識を披露したりすることがまったくない。おそらく、演技ではこのような芸当は無理であろう。どこかでエリート意識が漏れ出してしまう。

真の脱エリートは、世の中全体を変えようと思っていない。顔の見える範囲の人たちを幸せにしようとする。
過疎地域の人たちは承認欲求が満たされていないことが多いが、地域住民全員が自己肯定感を持った集落に出会ったことがある。そこには、一人ひとりの役割を見出し活躍の場を創り出すリーダーが存在していた。住民一人ひとりを主人公としているのである。
この集落の人口は約300人であり、いわゆるダンバー数程度である。

真の脱エリートは、誰かを幸せにしたいと思っても、その人たちを巻き込もうとしない。積極的に人を巻き込もうとすれば、物語に利用されるのでは、という疑念や不信感を幸せにしたい人たちに抱かせてしまう。したがって、自分から寄ってきてくれることをひたすら待っている。その結果、成果を出すにはとても時間がかかる。約300人の集落の事例でも、変えていくには 30年以上の時間がかかっていた。

真の脱エリートは、自分をアピールすることも、世の中から注目されることも放棄する。自分の活動を語る際に、社会貢献、地方創生、SDGs といった言葉を一切口にしない。メディアに取り上げられることもない。アピールしないので、リソース(予算や仲間)が集まってくることもない。孤立無援であり、使用可能な手持ちのリソースでできることをしようとする。

真の脱エリートは、自己犠牲という感覚を持っていない。本当に自分がやりたいこと、やるべきことをやっている。ゆえに本人に演技という自覚はないし、持続可能である。自己犠牲では 30年以上も続かない。

以前に、「適度な問題」はおおむね解決され、残っている問題は正解が無い問題ばかりである、と述べた。しかし、正解が分かっていても、誰もやりたがらないような問題もある。華やかでなく泥臭く、小さくて誰にも注目されないような問題である。

成熟社会における保守側の秩序を本当の意味で回復するには、保守側の人たちを主人公とした "小さな物語" を紡ぎ出す、真の脱エリートが求められている。
それは、自分が主人公の物語に他人を巻き込むのではなく、他人が主人公の物語を作れるプロデューサーである。


大切にしたい価値

私は、もともとエリート(自分でそうは思わないが世間的には)であり、変革志向であったが、就職活動や漁業課題のエピソードを思い出していただければ分かるとおり、ピュアで不器用である。理系的であり、言語や文脈を操るような演技は苦手だし、好きではない。
しかし、10年弱の社会人経験、とくに官僚経験を通じて、少なからず演技を身に着けてしまったように思う。演技としての「脱エリート」でもなく、「真の脱エリート」でもない中途半端な状態となっている。
そこで、演技ではない「真の脱エリート」を目指すことこそ、社会における自分の存在価値なのではないか、と考えるようになった。

自分で自分のことを「真の脱エリート」と言うのも、元々エリートであることを想起させて気持ちが悪い。そこで、別の言葉で、社会における自分の存在価値と、なおかつ自分の持つ探究心や好奇心も含めて、自分の大切にしたい価値を吟味して表現した。
それぞれの頭文字を取って、「PIONEER 7 Values」と名付けている。

「PIONEER」とは、先駆者、開拓者のことである。変革の先駆者は、真の脱エリートである、という意味も込めている。

・ Primal (根源的である)
・ Instinctive (本能的である)
・ Original (独創的である)
・ Natural (自然である)
・ Essential (本質的である)
・ Emotional (感情的である)
・ Real (本物である)

大切にしたい価値「PIONEER 7 Values」

演技によってコントロールする/コントロールさせられることなく、自然でありのまま、自分らしくありたい、ということである。

本当の自分とは、何か?

ONPフレームと同じように、このような価値観を明確にすることによって、自分の中の物語という秩序を増やそうとしているのである。

しかし実際のところ、演技をしないというのは、かなりストイックだ。
社会と私の相性が良くて、演技を演技だと意識せずに行動できればいいが、そうはなっていない。

よく、自分のやりたいことをやれば、知識やスキルが磨かれ、他人に価値を提供できるようになって感謝され、お金も稼げるようになる、という話を聞くことがある。しかし、そんな幸運な人は経験的におそらく 1000人に 1人くらいである。
"Ikigai" のベン図というのがあるが、この4つの円が重なっている幸運な人はそうはいない。
ほとんどの人が、お金を稼ぐために会社に勤め、本当に社会の役に立って感謝されるために副業やボランティアを行い、自分のやりたいことをするために趣味をする、というように目的ごとに活動が分かれているだろう。趣味が仕事になるなんて稀である。
そして、活動ごとに演技をするのである。

社会的演技によって回っている社会や経済の中では、もはや社会的演技なしには生きられないのである。

生きがいとは、何か?

"Ikigai" のベン図

そうなると、演技をしないようにしようとして演技をしてしまうことになる。つまり、葛藤や矛盾が生じるが、それを回避しようとすると、まったく欲求を生じさせないように自分の欲求をコントロールするほかない。これは現実的ではない。

私は、演技をしないようにするために、国家公務員を退職して以来、立場や肩書を持たないようにしている。しかし、立場や肩書がないと、相手に価値を提供するきっかけや信頼を得られず、社会における自分の存在価値を発揮する機会がない。真の脱エリートとして、他人が主人公の物語を作ることもできない。そもそも、仕事が得られず、お金が稼げない。
そして、仕方なく、最小限の演技として、この文章や SNS で人となりを伝え、苦し紛れに、本名とは異なる、演技としての "mui" という名義で活動するのである。
ただ、自己開示をしたらしたで、相手からわりと嫌われる。
たとえば、東大卒元官僚という世間的には高学歴エリートの経歴を明らかにすると、過剰に敬遠されたり、身構えられたり、あるいは逆に、マウンティングの対象にされたり、揚げ足を取ろうとされたりしてしまい、まともな対話に至ることがほとんどない。
また、変革側と保守側どちらの立場も理解できる中立的なポジションを取っているが、そうすると、どちらからも批判されるし、誰からも支持されない、ということが起こってしまっている。
さらに、この文章のように本音を晒してしまうと、他人を否定するようなネガティブな内容にまで踏み込むことになり、印象は良くないだろう。
まさに自己犠牲ではあるのだが、なにか本末転倒である。

真の脱エリートが成果を出すには時間がかかるということを前述したが、自分の存在価値を発揮する機会に恵まれるにも時間がかかる。それだけでなく、そのような機会は、縁やタイミングでしかない。自己犠牲だの、真の脱エリートだの、変革の先駆者だの、どんなに格好つけた言葉を並べてみたとしても、所詮、報われるかどうかは運でしかない。

何も成し遂げずに人生を終えるかもしれない。

人生の意味や使命とは、何か?

いや、真の脱エリートとは、そういうものかもしれない。自分の人生の物語を形成するために他人をコントロールしないのだから。

この話をすると、よく、「生きづらくないですか?」と尋ねられる。
小難しく悩んだり、自ら縛りを作ったりしないで、もっと楽に生きたらいいのに、ということのようだ。
あるいは、穿った見方(※本質を見抜くという意味ではなく、変に疑っているという意味で)、ひねくれた考え方、天邪鬼、のように思われているかもしれない。
ほかにも、だからなんなんだとか、エリートを批判したいだけじゃないかとか、負け犬の遠吠えだとか、と思われるかもしれない。

結局のところ、自分が納得感という感情を得るために作り出した幻想かもしれないし、あるいは、自分の物語を正当化するための言い訳かもしれない。

たとえそうであっても、この価値観が私の物語に秩序をもたらしているのはたしかである。
また、いざとなれば、必要な演技は柔軟にできる自信はある。
べつに悩んでいるわけでもないし、苦しんでいるわけでもない。

私は、農林水産業の仕事をすることで、かろうじて収入を得ているが、自然相手の仕事は私に合っている。
農家になった元マーケターの人が、コントロールできない自然を目の当たりにしたことで謙虚になり農家になった、という話をしていた。マーケティングという技術や手法で、自分がいかに他人や社会をコントロールしようとしていたか、ということに気付かされたのだ。
自然に対して、いくら演技をしても無駄である。同時に、自然は人間に対して演技をしてこない。数式や機械と同様である。


成熟社会の未来

話は変わるが、未来について、テクノロジーと秩序の視点から考えてみよう。

人間はテクノロジーによって、さまざまなものをコントロールしてきた。たとえば、電子をコントロールするエレクトロニクスにより、電化製品やコンピュータなどの製造が可能となった。
また、テクノロジーは、医療やヘルスケアという形で、人間の身体をコントロールすることにも成功してきた。

今後、人間の「認知」や「意識」さえもテクノロジーでコントロールできるようになるのではないか。

すでに、瞑想やマインドフルネスなどの手法によって、精神状態をコントロールしようとしている人たちは大勢いる。薬物が合法な地域では、薬物を利用して精神状態をコントロールすることもあるだろう。

また、近年、AI によって生成されたフェイクがたびたび問題となっているが、もはや、それがフェイクだとまったくわからない、あるいは、それを本物だと完璧に信じることができたとしたら、どうだろうか。

さらに、現時点では SF の世界ではあるが、仮想現実(メタバース)やブレイン・マシン・インターフェース(BMI)などのテクノロジーが発展すると、究極的には、電気信号や物質代謝によって脳や神経を完璧にコントロールできるようになり、あらゆる刺激や経験を自由に与えられるようになるかもしれない。
自分に都合のよい事実や自分の好きな体験を思うように得られる、いわゆる "経験機械" の思考実験である。

自分の好きなように秩序ある物語を形成できる快楽主義の終着地点。

はたして、それは自然だろうか?

人間とは、何か?
自然とは、何か?

しかし、そうした世界は、私にとってとても魅力的な世界だ。
本当の自分がどうかなんてもはや考えるに値しない。建前だろうがなんだろうが関係がない。演技もする必要がない。

また、個々人は仮想空間によって完全に分断され、自由となる。
社会は新たな秩序へと相転移し、分断による完全なる秩序が形成されるのである。

現在の社会においても、個々人が秩序ある物語を形成しようとして分断する動きは、至る所で見られる。
「ポスト真実」や「陰謀論」がそうである。自分に都合のよい事実を信じて、秩序ある物語を形成したいのだ。
あるいは、「コミュニティ化」や「自律分散化」である。それぞれが見たい物語や演じたい役ができる人同士で集まって、お互いに秩序ある物語を形成したいのだ。

これらは予兆であり、この流れを止めることはできないだろう。


旅を続ける理由

完全な仮想世界なら、もしかしたら、本質や真実すら自由に設定できるかもしれない。
そのような世界では、本質や真実を探し求めることは無意味になるだろう。

虚無主義である。

本質とは、何か?
真実とは、何か?

快楽主義の終着地点は、演技をせずにいられるとても魅力的な世界であった。しかし、私には、どうしても手放せないものがある。

探究心だ。

円周率が無限に続くことの不思議さに魅了された少年のころのように、探究心は抑えることができない。

探求とは、何か?

たとえ本当に本質や真実がなかったとしても、自然や社会の至る所に秩序を見つけることはできる。見出した秩序は、自分の物語の秩序となり、本質や真実に近づいているような気がする。しかし、どこまで行こうと本質や真実にたどり着けないかもしれない。それでも人間の理性を信じている。
探求とは、目的地の無い果てしない旅である。
そして、これは『虚無主義と快楽主義への抵抗』に他ならない。

さらに、もう一つ、手放せないものがある。

好奇心だ。

多様なテクノロジーを知りたいと夢中になった大学時代のように、自分の外側の知らない世界を知りたい、経験したいという好奇心は抑えることができない。

知識とは、何か?
経験とは、何か?

たとえ社会が分断に向かおうとも、旅をして越境することで、自分の中に多様性という豊かさを育むことができる。
また、分断による完全なる秩序が達成されるまでの過渡期においては、分断のシステムの未熟さや不完全さから、社会に犠牲や混乱が生じるだろう。そのような犠牲や混乱を和らげるためには、多様性が必要である。
これは『分断による完全なる秩序への適応』に他ならない。

このように、探究心で秩序を、好奇心で多様性を追求するために旅を続けている。

探求心や好奇心は『演技』ではない。

そして、もう一つ旅を続ける理由がある。

社会の中で演技をせずにいられる自分の居場所が欲しいからだ。

演技をしないことと、社会に自分の居場所を作ることは、私にとってはトレードオフであり、葛藤である。この葛藤が存在しないような居場所を見つけるために旅を続けているのである。
これは、縁やタイミング、運でしかないと思っているし、きっとどこかに居場所があると信じている。

幸いなことに、田舎や地方には、演技の必要ない自然と向き合う農業や漁業といった仕事がたくさんある。また、都会よりも本音での付き合いができる人間関係がある。そして、田舎や地方に来るだけで感謝される。
居心地は悪くはないが、一方で満たされないものがある。
そう、私の性格はもともと変革志向なのである。変革志向にとっては、都会の方が面白く、田舎や地方とは相性が悪い。
結果として旅を続けることになる。

演技をせずにどこまで行けるだろうか。

探究や経験の対象は、数学、宇宙から人間、社会へと移ってきた。
今後、どのようにこれらの点が繋がっていき、自分の居場所を見つけ、秩序ある物語となるのか。
あるいは、まったく繋がらずに終わるのだろうか。

“You have to trust that the dots will somehow connect in your future.”

無為自然、あるがままに。
いつだって心の中では、音楽がエモーショナルに鳴り響いている。

みんな分っている、
全て分っている事が
どうしても捨てられないから
探してばかりの
迷ってばかりの日々を
やっぱり今日も繰り返している
地平線の彼方の朝焼けが
小さな背中を押すようだ
握りしめた切符は片道だ
分らない儘、
列車は走る
迷った儘で、行け。

『片道切符の歌』(eastern youth)

押し付けられた世界を踏み外して
行くも戻るも風に訊く
誰かが決めた未来を突き返して
人間万事塞翁が馬
直に掴み取れ

『直に掴み取れ』(eastern youth)

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