内なる声に聴いた「家」を、本当に見つけてしまうまでのお話 part1
「お前の家が南にある。家を探せ」
5年前のある日、東京のワンルームに住んでいた僕はそんな内なる声を聴きました。
すぐに退去届を出して家財道具をすべて処分、大事なものは段ボールに詰めて北海道の実家に送り、100冊以上持っていた本をすべて中古屋に売り、キーボードやギターも売り払って飛行機代に替え、一人で背負える量の荷物だけを持って沖縄に飛びました。アパートを出る際、一度も振り返らずに駅まで歩いたのをよく覚えています。「南にある」と言うからには、日本最南端の県に行って間違いということはないはずです。ネットで住み込みの仕事を探した結果、人口700人の離島のペンションで働くことになりました。
これから書くお話は、読む人によってはとても荒唐無稽な話に聴こえるかもしれません。要約すると、「お前の家が南にある。家を探せ」という謎の声を聞いた当時26歳の青年・北沢由宇が、5年間の歳月をかけて実際にその「家」を探す旅をし、最終的に本当にその「家」を見つけてしまうまでのお話、ということになります。冗談みたいですが、全部ノンフィクションです。
現在は見つけた「家」をゲストハウスとして活用するために、自分でリノベーションしています(2022年8月22日現在、オープンしました!)。築43年。20年間も人が住んでおらず、蔦まみれになっていた空き家を50万円で購入しました。畳を剥がして和室を洋室にし、人を泊められる状態にするために知識ゼロからのDIYリノベ奮闘中です。その悪戦苦闘の(笑)様子はインスタグラムで毎日更新しているので、ぜひ見て頂けると幸いです。
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沖縄に飛ぶ少し前までの僕は、バイト生活に追われながらも「駆け出しの作曲家」を名乗っていて、声優さんに楽曲を提供したり、3Dアニメーションの劇中音楽を担当したりしていました。ところがある日、楽曲制作に使っていたMacBookが壊れて二度と起動しなくなり、抱えていた案件が2件おじゃんになり、なけなしの信用を失い、更に一緒に活動していた絵描きともトラブって絶縁し、そうこうしているうちに家賃や電気代が払えなくなったりしておりましたので、すべてを手放して単身沖縄に飛ぶことには何のためらいもありませんでした。
那覇からフェリーに乗って島に到着した時点で、僕の全財産は83円になっていました。
その島は渡嘉敷島(とかしきじま)という慶良間諸島の離島で、「慶良間ブルー」と呼ばれる明瞭な青が本当に美しい島でした。食事と寝る場所を与えられたので、83円しか持っていなくてもその島で生きていくことには何の不足もありませんでした。それどころか、休憩時間には毎日のように海に飛び込み、花畑のようにカラフルな魚たちを追い回し、金色の夕陽を見て、三線(サンシン。沖縄の三味線)を弾けるようになり、夜のビーチで天の川を見て、休みの日には従業員特権でシュノーケリングやスキューバダイビングを経験したりと、今思い返しても本当に美しい日々を過ごさせて頂きました。
しかしどうやらここに「家」はない。そう悟った僕は夢のような島生活を3ヵ月で切り上げ、貯まった資金でまた他の場所に移動することに決めました。持ち物が少ないといつでも身軽に動けるのでおすすめです。旅をするのに必要なものは「たくさん持たないこと」です。
島を出たあとは、アーティストの友人の誘いで唐津の星賀という場所で10日ほど過ごし、関西地方をホームレス放浪、京都の山奥で10日間の瞑想合宿に参加、大阪からフェリーで四国に渡り、そうこうしているうちに所持金が560円になったので、香川から愛媛まで徒歩とヒッチハイクで移動して、松山の祖母宅に転がり込んだりしました。途中、百年に一度の大型台風に見舞われ、避難所に寝泊まりした夜もありました。
安全面でも金銭面でも、正直言って決して楽な旅ではありませんでしたが、僕の心はずっと笑っていました。ヤバい。明日死ぬかもしれないじゃん。ウケる。奇妙なことに、状況がヤバくなればなるほどに、はっきりと心の目が開いていく感覚がありました。初めて会った人に遠慮なく親切にしてもらい、たくさんの人から優しさを受け取りました。海や山、田んぼや農村の美しい景色、ガラスの工芸品に涙を流すほど心を打たれ、花の匂いを嗅ぎながら歩きました。
那覇の台風避難所では、与えられた一区画のアルミシートの寝床と、支給されたパックの五目ご飯を心から感謝して頂いたのをとても深く記憶しています。「夜泊まる場所がない」という経験をしたことがある人はきっとわかってくれると思いますが、屋外で一晩をやり過ごすというのは本当に大変なのです。夜って長いし、寒いし、蚊に刺されるし、迂闊な場所で寝ればイライラした警備員に怒られる。雨風をしのげて足を伸ばせる安全な場所で夜をやり過ごせるということが、この世でどれだけありがたいことなのかを知りました。
「自分探ししてるのね~」とか「若いうちだけできるからやってるんでしょ」的なことを、今まで何度となく言われました。あまりに毎回言われるので、だんだんめんどくさくなってそのうち否定しなくなりましたが、「この人にはそういうふうにしか見えてないんだな」と、内心寂しさを覚えながら聞き流すのが常でした。
僕の旅の目的は一貫して「家を見つけること」です。「お前の家が南にある。家を探せ」。あの日どこからともなく探せと聴こえたその「家」を、本当にこの世界から探し出して住んでしまおう。そんなへんてこなことが本当にあるなら、人生を懸けてでも絶対やってやる。それがこの旅のたったひとつの理由でした。
各地で住み込みで働いては数か月で辞め、貯まった資金でまた移動し、ピンときた住宅街や別荘地や田舎道にはどんどん入って、歩いて「家」を探しました。僕は情報収集においては、足で稼ぐに勝る方法はないと思っています。車や電車など移動手段にスピード感があればあるほど、絶対に見落としてしまうものがあると思います。
同じ旅人でも、旅のスタンスというか、何を目的として旅をしているのかによって人は全然別の世界を生きているのだなと感じました。すれ違う観光旅行客の多くは「こちらが〇〇という名所です。是非ご覧ください」と矢印ではっきりと指し示されてるものしか見ていませんでした。きっと彼らは「指し示されないと見えない」というある種の催眠術に掛かっているのだと思います。意識の狭間のような誰にも呼ばれることのない場所は、たとえ目の前にあっても彼らには絶対に見えないのでしょう。僕の探している「家」は、きっとそういうところにこそあるのだろうと直観しました。
数えきれないくらいの家の外観を見物しました。しかし、なかなかその「家」は見つかりません。そもそも僕が探している「家」は、本当にこの世に存在するのだろうか。ひょっとして、まだこの世に存在していないのではないか。じゃあ自分で建てちゃう? そう考えて売り地の値段を調べたり、実際に森の中に家を建てて住んでいる人に会いに行ったりもしました。
そんな日々を送る僕に、再び啓示が訪れます。
由布院の温泉旅館で3ヵ月働いたあと、今度は奄美諸島での住み込みの仕事が決まりました。鹿児島港までの移動の際に宮崎県を通ることになり、延岡市の一泊4800円もする高級ビジネスホテルで一晩過ごしました(4000円以上の宿泊施設に泊まれたのはこの時が初めてなのです)。
いつもより少し早く目を覚ました翌朝、天気予報では曇りとあったので少し残念に思いながらカーテンを開けた僕の目に、ある風景が映ります。
沖縄の曇り空とも、唐津の曇り空とも違いました。大阪とも京都とも、松山とも由布院とも違いました。明るい。光っている。凹凸。雲の切れ目からオーロラのような光が射し込んでいます。こんなに気持ちの良い曇り空は初めてでした。「宮崎かもしれない」。そう直観した僕は、次の仕事で資金を貯めたら宮崎県に移住することを決めました。
奄美諸島での住み込み期間を終え、ぷかぷか海亀に乗っていざ神話の国へと参ります。
そろそろ住み込み先を転々とする生活は飽きたなーと考えていたので、ターゲットを宮崎県内に絞り、家賃2万円のアパートを見つけて現地に住みながら「家」を探すことにしました。イレギュラーな生活が続いていたために書類提出がスムーズにいかず、入居まで一週間ほど公園で野宿するはめになりながらも鞄ひとつでなんとかアパートに転がり込むことに成功しました。最初に沖縄に飛んだ日からちょうど1年になる5月でした。
一年ぶりに「居住」という概念と再会した僕は、まずは仕事探しを始めます。最初こそレストランでアルバイトを始めたりしましたが、特に興味のない仕事に追われる自分の顔を鏡で見て「これ違うよ~! 何やってんだよ~」と笑い飛ばし、即辞めました。
これからはもっと、自分を活かしたい。自分の性質や才能を活かして生きよう。
それは夏の新月の夜でした。
以前遊び感覚で買ったタロットカードのデッキを何気なしに右手で握った瞬間、それが妙に手に馴染む感触があったのでした。同時に「わたしはこれが読める」という不思議な気持ちが沸き起こってきました。それは決して燃え上がるような情熱ではなく、朝の湖のような密やかな感覚でした。
ちなみに当時の僕には、タロットカードの知識はほとんどありません。「STAR(星)」や「DEATH(死)」など、なんとなく大まかな名前だけ知っている程度です。どのカードがどんな意味を持っていて、どんなふうに並べれば良くて、どんな言葉を紡げば人を占えるのかという知識は皆無でした。しかしその夜はなんだか変で、「わたしはこれが読める」という強烈な確信があったのでした。なんならずっと前から、わたしはこれをやっていた気がする。なぜだか1人称は僕ではなく「わたし」なのでした。
僕はそれまでの旅で、たくさんの美しい「風景」を見てきました。海の向こうに沈んでいく夕陽。連なる山の影の形。ゆっくりと移り変わる雲の模様。それらの風景にはいつも、何かが”書かれて”いました。それは時には声のようでもあり、時には絵画のようでもあり、時には地図のようでもありました。風景に書かれているものを読み、何らかのメッセージを受け取りながら次の行き先を決めてきた旅。そうか、僕は風景を読みながら、ここまで歩いてきたんだ。タロットはそれとまったく同じだ。今までと同じように、絵柄に書かれている風景を読めばいい――。
その2日後には、ごみとして捨ててあった廃材の板を100均道具でリメイクし、小さな座布団を敷いて、北沢由宇は宮崎一番街の路上にいきなり「占い師です」と言って繰り出します。1件1000円。恋愛、仕事、人間関係。ご相談承ります。100均の色紙にマジックペンでそう書きました。エスニック系の服を着て、大き目のイヤリングをつけて、わざとらしく怪しげな雰囲気を演出したのを覚えています。路上パフォーマンスの一種でもあるので、その手のエンターテイメント性も大事だろうと考えました。
「えっ、占い? 面白そう!」初めてのお客さんがやって来ます。「どうぞ。やりましょうか」僕は平静を繕って微笑みながらも内心ドキドキです。記念すべきお客様第1号は、僕より少し年上の男性でした。彼は千円札を財布から出して、へらへらしながら僕の前にしゃがみこみます。さて。お前、覚悟はいいか。僕は丹田に力を込めてカードを切り、まず彼の話を聞きます。そして誰にも習ったことのないオリジナルの作法でカードを引きます。廃材板の上に、謎の絵柄が描かれたカードたちが並びます。
並んだカード一枚一枚の"正しい意味"は、その時点の僕には何ひとつわかっていません。しかし僕はぽつぽつと、ほとんど自動的にしゃべり始めます。いま目の前に”読めている”通りに、勝手に出てくる言葉を紡ぎます。すると最初は面白半分だった客の顔が、少しずつ神妙な面持ちに変わっていくのでした。
「うん、当たってるよ。その通りだ」どうもありがとう、と彼が納得して去って行く後ろ姿を見て心底ホッとしたのと同時に、「ああ、ほんとに読めてるんだ」と自分でも驚いたものでした。
目の前に広げられた数枚のカードの絵柄たちを、僕は改めて妙な気持ちで眺めました。今ここに、見えない何かが彼へのメッセージを書いたらしい。それが僕には読めたのだ。
それから3日に一回くらいのペースで僕は謎の占い師として繁華街の路上に座し、10人、20人、そして100人と経験を積んでいきました。不思議と誰も文句を言いません。それどころか、「おい、こいつマジだよ!」と言って人がわらわら集まってきたり、時には後ろに何人も並ぶ日もあり、終わった後に多めにチップをくれたり、わざわざ後で差し入れを買ってきてくれたりしました。この頃にはさすがにちゃんとした知識も必要だと思い、蔦谷書房でタロットや占い関係の本を読み漁って、足りない知識をぎゅんぎゅんぎゅんぎゅんスポンジのように吸収しました。
何かを出来るようになりたかったら、勉強する前にいきなり実践すべきです。今の僕は確信を持ってそう言えます。作曲家になるために音楽大学の作曲科に4年間通い、厳格な和声を学び、対位法を習得し、管弦楽法でオーケストラ曲を書けるようになり、成績上位で卒業したのに、とうとう作曲家にはなり損ねた僕が言うのだから間違いありません。昔は「勉強すればできるようになる」と当たり前のように思っていました。でも本当は、順番が逆なのです。「まずできてしまえ。それから勉強しろ」。「やったことないことを、できると確信して、本当にやってしまうこと」。このマインドが、僕の大切なポリシーになっています。
占いを始めて3ヵ月。北沢由宇は無事、自分を活かすことで生計を立てられるようになったのでした。そしてこの「自分を活かす」ということが、今回のゲストハウス制作に於ける僕の思考形成に於いてとても大切なキーワードになっていきます。
今回のお話はここまで。
「家」を見つけるまで、ここからあと4年。
家探しの旅はまだまだ続きます。
(つづく)
内なる声に聴いた「家」を、本当に見つけてしまうまでのお話 part2
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