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生きているということ いま生きているということ
人が死んでいくのを隣でみる機会。
もうすでに死んでいる人の第一発見者になる機会。
ついこの間まで他愛のない会話をしていた人が、亡くなったという報告を受ける機会。
血縁者の代わりに人を看取る機会。
大切な人の死を泣き叫ぶ家族と共に過ごす機会。
そんな様々な死の機会に、日常的にふれる4年間を過ごした。
幾つの人の死と私の人生が重なりあったって、慣れることが、ない。
まだあたたかい体も
父さんの会社が倒産した
ダジャレじゃなくて、どうやら本当らしい。
還暦を迎えた父は、実に40年余り、今の会社に勤めてきたということになる。それなのに私は、父の仕事について実はよく知らない。昔から、聞いてもなかなか教えてくれなかった。ただ、副社長とともに会社を大きくしてきたということは、なんとなくだけど知っていた。父の給料も知らなければ役職も知らないから、それが専務だとか常務だとかの名前が付くものなのか、はたまた本部長だ
百億年の歴史が今も体に流れてる
「あんた、この漫画を知ってるか」
発売日当日に、秘書が売店で買ってきた連載雑誌を開いて問いかけてきた。本人を目の前にして言うのも申し訳なかったが、私は本当に、その漫画をタイトル以外に何も知らなかった。1話たりとも読んだ事がなく、申し訳なさを感じるくらいだった。それを正直に伝えると、その人は笑った。目は少し寂しそうだったので、心が痛んだ。
そんな私を察してか「あなたいくつ?説明しなければならない
memento mori
私が人生で1番最初に、「死ぬ」ということを現実として意識したのは、同じ県内に住む同い年くらいの男の子が、拘束型心筋症を患い、心臓移植のために渡米する募金活動を見た時でした。
小学校にあがるかあがらないか、それくらいの年頃だったある年の春、地元の花まつりで、その募金活動をしているのを見ました。
父から「ソフトクリームなんかを買ってきていいよ」と渡されていたお小遣いを、迷うことなくすべてその募金箱