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バカでかい友の背中


小学生の頃、私の学年は少し変わっていた。
どう変わっていたかと言われれば言葉に表すのは難しい。だけど大人になった今、各々の活躍ぶりを見ればそれなりに変わっていたあの頃も不思議ではないような気さえする。突拍子もないアイディアや他の人が思いつきもしない考え方というものは、少しくらい変わった人から生まれることが多い。


音楽ライターになったアイツはずっと喧嘩越しだった。すれ違うたびに「バカ!」と言ってきた。心の中にロックの炎が燃えていたのだろうか。定かではないが、今メディアに載る彼の文には、あの頃の熱さが健在だ。

小学6年の時、担任の先生が「この6年間を表す漢字一文字を書写してください」とお題を出した。私の隣の席の男子は30分くらい筆どころか墨汁にすら手をつけず、ボーッとしていたかと思うと、最後の数分で「暇」という文字を書き上げた。度肝を抜かれた。保護者参観で発表する予定の作品に6年間を表す漢字一文字に暇と書く小学生。なんの意図があったのかまるで分からない。しかし、今や日本の安全を守る立場にいると聞く。今でも彼は"現状に比べたら小学校の6年間なんて大いに暇だった"と感じているのだろうか。同窓会に一回も顔を出さないので真意はわからないが、それもまた彼らしい。

文集のタイトル「私と音楽」。学校での出来事など総無視で、自分が触れてきた音楽、ライブへの意気込みなどが綴られた文を書いたのは私の親友だ。今彼女は世界中日本中を飛び回りながら、未だにあの時好きだった音楽を大切にしている。

文集繋がりでもうひとつ傑作がある。文頭は、"修学旅行の夜、それは僕らと先生のバトルだった"。どこぞの小説よりも読みたくなる。どうすれば見回りの先生に襖を開けられないかということを模索し、旅館に備蓄されたあらゆるものを駆使して扉を動かなくしたこと、そのおかげでタオルに丸めて隠し持ってきたゲームをできたということ。それらを、"修学旅行の夜、完全に僕らが勝利をおさめた"と締めくくられた文末。原稿用紙いっぱいに修学旅行の夜のことだけを書き綴った彼の、その才能に拍手したい。

また、勉強においても平均の偏差値はめちゃくちゃ高かった。最終的にこぞって進学校に進んだ。中でも一際優秀で、平均点を爆上げしていた友がいる。その友のせいで先生達も躍起になって、"あいつは何のテストを出しても満点をとるからこの一問だけは解かすまいとテストに一問だけ超難問が紛れ込んでいて、そのせいでこの学年のテストはいつも難しい"なんていう噂までたつほどであった。真偽はわからない。その彼が書いた文集もまた、おもしろかった。生徒会に入って学んだことについて書いたものだった。これだけ聞くと普通だが、彼が学んだのは協調性や積極性などというありきたりなものではなかった。「生徒会という組織はその中で、既存のものを正しいと信じていれば改善せずに事が進んでいく、何が正しいのかを議論する必要があるが、それを知らなければ議論にすらなり得ない。知らないというのは怖いことである。それは国会等でも同じことが言えるのではないか、僕は生徒会を通し、生涯を通し知ることの大切さを学んだ」という文章だった。もはや小6の書く文章ではない。おったまげる。彼は今、この文集の将来の夢の欄に書いた通り医者になっている。

私は今この文を、当時の文集をひっくり返して書いているわけではない。どの文も面白く、皆の個性が光る最高の文集すぎて何度も熟読したため覚えてしまったのである。文集を覚えているなんて自分でも笑ってしまう。そんなことあるだろうか。だけど、そんな変で面白くて最高な友が、確かに沢山いたんだった。


そして、2014年、私たちはハタチになった。
成人式が行われ、その会場でこれまた同じクラスの男の子が成人のスピーチをした。これがまた感動的なものだった。成人式前の九月、長野県と岐阜県の県境にある御嶽山が噴火した。噴火警戒レベル1の段階で噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡した、日本における戦後最悪の火山災害だった。そこで、クラスいちのおちゃらけ者だった友(小学校卒業後も順調におちゃらけ路線を突っ走り、最終的には陽キャの頂点に上り詰め、そのままずっと人生楽しそうに生きていたように見えた)が、彼はこの時自衛隊として昼夜問わず救助活動を行っていたらしい。成人式のスピーチをした友はこの陽キャの彼のことを「普段はくだらないことで笑ったり、家でゲームしたりして近くにいた彼が、ここぞというときに長野県のために力を尽くし働いている姿を目の当たりにしました。僕はそれがすごく心強く思えました。僕には、こんなに県のことを思い、働いている仲間がこんなにも近くにいると思うと、そいつのことをとてもかっこよく、そして誇らしく感じます。」と話していた。そのスピーチを聞いて私もすごく誇らしかった。誰かの仕事によって、こうして毎日安心してここで暮らしていられるんだよなぁと、しみじみと感じる。そしてさらにそれが身近な友であるという心強さが、とてもあたたかかった。


そして、身近な友が、自分以外の何かのために動く姿を目にする機会がまたしても訪れた。


忘れもしない去年の10月。
私がまだ上京する前。台風による大雨の影響で、千曲川の堤防が決壊した。長野市や千曲市では広い範囲で千曲川が氾濫し、浸水被害が広がった。避難先で見たテレビに映る自分達の街が濁流に飲み込まれていく姿を、現実のものとは思えずに、ただただ唖然と見つめていた。海のない山に囲まれたこの内陸県で、津波の映像のように屋根の上で救助を待つ人々、JR東日本の長野新幹線車両センターで新幹線車両の数々が水に浸かっている映像。信じられなかった。

その時ツイッターが、完全に最速でリアリティな情報収集源になり得ていた。そして目に飛び込んでくる数々のツイートのほとんどは、長野県公式の防災アカウントからのツイートだった。昼夜問わず「必ず救助に向かいます。今いる場所の目印になるものがあれば教えてください。高齢の方や妊婦さん、不自由な人がいる場合はその情報も共にお願いします。私たちは絶対に見捨てません。それまで、どうか諦めずに救助を待っていてください!」そう書かれたツイートが送信され続けた。実際にそれに対するリプライが何件あったかは分からない。しかし、多くの人がそのツイートに「目の前に〇〇が見えます。〇人で救助を待っています。諦めずに待ちます」と返信をした。その後も絶えず「〇〇にいたとツイートされた方、無事救助しました。できるだけ情報を共有し合いましょう、誰も一人ではないです、必ず見つけます。必ず助けます」と、長野県防災からのツイートが続いた。

そしてそのツイートは、雨が止み、川の氾濫がおさまってからも、止まることはなかった。「避難所のみなさん、物資は行き届いていますか。寒くて眠れない人はいませんか。困っていることはないですか。何でも声をあげてください。あなたは一人じゃないですよ。」

個人情報がだだ漏れだったためか、今あの時のほぼ全てのツイートが消されている。だが、たしかにあの時、あのツイートが救った命があった。いや、実際に、何十何百の人の心をも救っていた。私はあの時、長野県民の人柄、民度の高さ、救助活動に励む全ての人々を誇りに思った。確かにデマの拡散や犯罪ツールにもなり得てしまう、そんなこともわかっているし、こんな時ですら犯罪が起きてしまう不憫な世の中に絶望もする、だけど、それと同時に、それでもこの「誰か」人の手によって送られる一通一通のツイートに、確実に救われた。

沢山の友の家が浸水被害に遭った。

しかしその翌日から、卒業後何年も経ったあの時の友が皆、InstagramやTwitter、LINEなどで、お互いの安否を確認し合い、励まし合った。遠くの地にいる友には「〇〇の実家はどういう状況、〇〇の家族と泥のかき出し作業はするから任せてよ」と当時の仲そのままに助け合う姿が散見された。中には市役所に勤めていた友達もいた。私たちのために、自分の家も酷い状況の中で、市のために動いてくれていたと聞いた。医療従事者の友も沢山いた。休日返上でみんながみんなのために動いていた。あの時、この街の人たちの優しさを、肌で感じていた。寒かったけれど、あたたかかった。

小学生の頃、変わり者だらけだったあの街のともだち。あいさつすれば友達になれると本気で信じていた頃にできた仲間だ。

友達になるために 人は出会うんだろう
どこのどんな人とも きっと分かり合えるさ

なんて合唱曲、みんなで歌ったよね。


私もいい大人になり、登下校中すれ違う人全員に挨拶していたあの頃とは社会も随分と変わった。挨拶なんぞしようものなら「知らない人に話しかけちゃいけません」なんて諭される時代だ。それに加えてコロナ禍の今、更に人との繋がりが更に希薄になってしまった。だけど、それでもあの頃みたいに、いろんな人を真正面から受け止めて、時にはけんかしたりもしながら、"この世界にはおもしろい人が沢山いるもんだな"なんて思ったりもしたくなった。

まだまだ世の中捨てたもんじゃないよね。

今日のあなたを救ってくれているのは、今日のあなたの小さな幸せを作ってくれているのは、巡り巡ってあの日あの時挨拶して友だちになった、小学校の頃のアイツかもしれない。

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