#読書感想文
恐怖から見つける自分への疑惑。続くのは、大江健三郎を再び読める日まで。
大江健三郎と古井由吉が、対談している。
大江健三郎は、「短編の文章の緊迫を復活して、日本の文学、表現の世界を再建する必要があるんじゃないか。」と言っている。
古井由吉は、「言葉がぼろぼろに崩れがちな時代ですし、これは敗戦に劣らぬ文学の危機ですね。」と言っている。
大江健三郎が亡くなって、大江健三郎を読めなくなった。どうすることも出来ない気持ちが続いていて、新潮名作選「百年の文学」を読みはじめ
1972年の時代評論は、めぐりめぐって私に届く
めぐりめぐってなんてお言葉は、都合の良いお言葉でございます。ですが、そういう場合も世の中には、めぐりめぐってあるんでございます。
まったく予定にない本を読みました。どうして私が出会うことになったのか。物語は複雑な経過を辿ります。
思い返せば2月下旬、一つの記事がアップされました。
私は、この記事の文字の裏にある夫婦の愛情の交換に思いを馳せ、半ば羨望の眼差しを向けながら、「共通の趣味でケンカ
小津夜景の暮らしに触れた一日に。
「梅雨が明けた頃でいいかしら」
「梅雨が明けた頃会いましょうね」
その日、同じ時間を共有したのであろう2人から、別々に写真やメッセージが私宛てに届いたのは偶然ではないのだろう。
ふいに届く言葉にふと、その時間を想像し、想いを馳せる事が出来るありがたさを感じた。
「楽しみにしてます」と文面を一言で返信しようとしていた自分に、これはキッカケだ。逃すな。と踏みとどまった。
好きな作家が亡くなり
大江健三郎の一つの出口にあたる作品を読み、私の出口は入り口かもしれないと思ふ。
大江健三郎27歳の長編作品「叫び声」を読んだ。これは、以前いだいた本からだ。大江健三郎が描く青春の鬱屈は、こうなるかと考えた。
その心の叫び声を表現するのに、こういう物語になるのかと感じていた。「生は性」であると最近聞いて納得していたが、こんなに近くて遠い「生は性」が、間違いなく存在していて、それが確かに青春だったなと感じながら、自分の想像を簡単に越える表現力と、それを描く世界観が面白くて悔しい
向田邦子からの菊池寛。「嫌ですよね」から考える「人」となり。
人は自分が思考するほど、人や自分の事など気にもしていない。
これはたぶん私の言葉だ。
私の言葉だろうが、それが何だろうが、誰も別に気にしていないだろう。だがそこに、第三者の目が入ると、心に生まれてくるのは、それを確かな物にしようとする自尊心や虚栄心だ。
人間は、厄介だ。
自己の完結で済まない承認欲求や、人との比較から本来しなくてよい筈の嫉妬をしたりする。
私は、自分の思考の裏側を考えるの
高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」の疾走に思いっきり声を掛けた。
読書を巡る旅の途中に、出会うべく出会うような、出会いの本があったりする。それは僕がそう思って生きているのだからそうなのだ。
自分の人生に彩りをつけるのは自分でありたい。noteにおいてそういう出会い方は初めてで、即読んだ。
noteは、どうやって僕の好みの記事を見つけてくれているのか。この記事にすぐに惹き込まれた。本当にありがたい。
それは、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」について海
出会う本と、その役割について森絵都から考えることになった私は、自分の役割を問う
たまに、読んでみて欲しいと言われる本を紹介されるようになった。
こういう事は、今まで全くなかった。近くに1人も読書を好きだと話す人も居なく、読書に興味を持っている友人も居なかったからだ。
今のように、SNSなどで頻繁に本と出会えたり、その人の感想を読むことで「その人」の人となりが分かるのも面白いと感じる。
なるべく読んでみて欲しいという、そのリクエストには応えたい。それは、本が好きだし自分が
一人の作家を通して、実際出会うまでに至る引力を知る。それが大江健三郎の凄さだ。
僕は大江健三郎が「大切なことを正面にもって来る」というのを小説のスタンスとして持っているのを大江健三郎のエッセイから知った。
大江健三郎は、僕の読書に於ける尤も核になる部分に潜んでいる。まだ数冊しか読んでいないのにだ。これを言い切れる僕は、大江健三郎を介してのSNS上でのその特性を活かした特別な出会いをある方達としている。
その方達が書くその文章には、大江健三郎の熱をそのまま帯びたような感触で
谷崎潤一郎と江戸川乱歩の関係に嫉妬を積み重ねる文学中年
「あなたは、知っているのかしら。知らないにしても知っているにしても、あなたと私に続きがあるのかは知らないけどね」
なぜ私の周りにはこういう女性が集まるのか。それに答えを見つけるのはあと10年後くらいでいい。そもそもこんな誘われ方をして、誘いに乗らないならば、それは私が私を辞めなければならない時だ。
何のきっかけだったのかは覚えていない。
きっかけを探るその言葉より、その後告げられた話の方が私を
背景 安部公房様。どうか私を置いていかないで。
毎度御贔屓にありがとうございます。本日は、私の心の内に留めておくべき事を、恥を忍びお願いしたい事がございます。これをいったい私などが、いつ言ったらいいかずっと迷ふておりました。
文学中年を皆様からぜひ名乗って欲しい。お前しかいない。粋。イケメンと、ありとあらゆる人に言われに言われ、言われるがまま、満更でもなしに使用して、むしろ文学女子に対する癒し系になってモテるのではないかと思ふておりました。
横光利一に自分の嫌なところを炙られて約一世紀越しに本質を問われる。
前回の記事で年末年始の読書に閉じ籠ろうかと思っていたが、どうしても今年中に書き残したいと思える作品に出会った。
一回読み、すぐにもう一度読み返した。こんな事は初めてで、あまりに不明瞭で落とし込めず、だけど「人間」としての本質的な事を物凄く明瞭に描いてる。
機械とタイトルがついているけどそれは歯車みたいだ。ズレを把握していても一定の法則で回っていく。誰かが入れ替わり立ち替わりその歯車になる。
室生犀星の私小説は、改めて自分に向き合う時間をくれたみたいだ。
室生犀星の全集より、私小説にあたる三作を読了した。
「幼年時代」
「性に眼覺める頃」
「或る少女の死まで」
詩人でもある室生犀星が描く私小説に興味があったのか、自分でもどこに引っ掛かりがあったか忘れてしまっていたが、メモに室生犀星と書いてあったのだから何かに引っ掛かったのだろう。
しかし自分の動機などは、読む本に関係ない。ある種の出会いだと思っている。
少し前に、徳田秋声の「仮装人物」とい